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2008年11月27日。福岡の仲間によるメッセージ
われらは人間のあらゆる可能性の最大限の拡張を要求する。
それは人類の要求であり、いささかの減衰もゆるされない。
僕が労働運動に賭けているのは、靖国解体企画によって発されたこの大胆な声明に表れている理念のためです。そして僕たちが、あらゆる可能性の最大限の拡張を手に入れるために歩みを進めようとする時、この日本社会においては、天皇制や靖国神社のような支配とイデオロギーの装置、あるいはそのような装置の働きを見逃すことによって保たれている日本社会のムードこそが最大の障害となっているように思われます。
たとえば労働運動をやっている僕たちが許すことができないのは、低賃金や貧困として語られている状態そのものでもあるけれども、むしろ僕たちをそのような状態に追い込む政治的な力であり、そのような力の行使こそが絶対的に不正なものです。僕たちが本来的に持っているはずの「あらゆる可能性」を、現在の支配的な社会のかたちに適合するように切り縮め、束ね、矮小化してコントロールし続けているそのような力の行使に対してこそ、僕たちは別の力をもって声を上げ、行動するはずです。そのような力は狭い意味での政治だけではなく、日々あらゆるところで行使されている。だからこそその力を奪い返すチャンスもあらゆるところにあるはずです。職場で威張りくさる上司に対してものをいうこと、職権を乱用する警察官の職務質問を拒否すること。ひとつひとつがそのような政治です。そして、天皇制や靖国神社こそは、この日本社会においては、そのような力を隠然かつ公然と行使しつづけている装置なのではないでしょうか。なぜ僕たちは、何よりもまず国民として括られねばならず、さらにその国民という集合を象徴する人間などというものがいちいち憲法によって、ということは、すなわち僕たちの生きる社会のあるべき姿として規定されていなければならないのか。また、なぜ個人の死が、日本国に命を捧げたものであるかぎりにおいて崇拝され、その個人を神として奉ることに政治権力が加担するのか。そしてなぜマスコミや大多数の人々は、そのような装置が僕たちの存在を政治的に意味付けている、その如実な権力行使に対して沈黙するのか。
そのような支配やイデオロギーの装置に対する抗いの声は、僕たち自身が地声で、肉声で発しつづけるしかなく、どんな政治家や官僚や知識人やマスコミによっても代弁されることは決してないのです。
僕たちの生を僕たちの手の中に引きもどすためには、僕たちは自分達の生や労働を自分たちで意味付け、創造する力を持つことのできる何者かになろうとしなければならない。そしてそのような何者かになろうとして行動する僕たちは、場所によっては「市民」と呼ばれることもあれば、また別の場所では「労働者」と呼ばれることもあるのだろうと思います。そのような呼び名の下にある僕たちの情熱のようなものこそが根源的にあり、それはどこにあってどう呼ばれていても実は僕たちがわかち持つ同じものではないのかと思います。僕たちは自分たちの生と労働を自分たちで意味付け、創造することを求めるのです。格差や貧困に取り組むのは労働組合で、靖国の問題に取り組むのが某左翼団体で、そして、そのいずれかを選択しなければ行動がはじまらないのではない。僕たちが、人間のあらゆる可能性の最大限の拡張を、いまこの瞬間、自らの手の中に引き戻そうとする意志を持って行動するかぎりにおいて、僕たちはすでに、市民となることもあれば労働者となることもあるような何者かとして連帯しているはずです。連帯は行動の中にある。そして行動とはすべからく「直接行動」のことである。社会を上から眺めて問題を切り分けてコントロールしようとするやつらの言葉、そのリベラル風な響きを信用するなかれ。僕たちはこちらでもあらゆる機会を使って、「われわれの生をわれわれの手に」と叫びつづけます、したがって、靖国解体を、天皇制廃絶を、資本制廃絶をどこまでも叫びつづけます。
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