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4月10日は名古屋市西区の 蛇池の櫃流し 神事が行われました。
この事は知っていましたが、初めて見る神事でした。
午前中には、子ども会はお獅子で町内をお練りします。
法被姿の元気なこどもたちにご祝儀が渡されたりします。
午前中、子どもたちのお獅子のお練り
蛇池神社 神事は午後3時から
まげわっぱに入ったお赤飯
大厄の男子が池に赤飯を流す
櫃流し:
毎年4月第2日曜日に行われます。
惣右衛門という人の妻が、子供達にいじめられている小蛇を助けた。
惣右衛門の妻は、産後の肥立ちが悪く
幼い子供を残して死んでしまったが、
龍神が 乳母となって残された子を育てた。
乳母の後をつけて行った惣右衛門は 池のほとりで乳母を見失った。
竜神様が子どもを育ててくれたに違いがないと知った惣右衛門が、
御礼として池に赤飯を流したという話に由来する。
ある時,この池のほとりで大蛇が目撃された。
村人の噂を聞いた若き日の織田信長は、
周辺の村人達に池の水を全て汲み出すように命令したが
幾ら汲んでも水は無くならず、
自ら池の中に潜って大蛇を探したものの見つけることが出来なかった。
更に水練の達者な鵜左衛門と言う男にも探させたがやはり
見つけられなかったため、漸く信長は諦めたと言う。
この話は、何でも徹底して行う信長の性格を現す
エピソードとして語られている。
これをきっかけにして「小澪池」という名であったこの池は
「蛇池」と呼ばれるようになったという。
前述の「櫃流し」は、そのことに由来する。
当時から、龍神への信仰はありましたが、
社殿などはなかったが、
1909年(明治42年)で、40日以上も続いた干ばつに対して
光通寺の住職が雨乞いを行ない、その大願当日に大雨となったことから、
龍神に感謝した村民により一宇が建立されたという
* 光通寺は、佐々成政の城があったところとして
知る人ぞ知るといった、歴史的にも興味尽きない地でもあります。
佐々成政に関して、この地区には早川という姓が多くあり、
山田村誌に(昔ここは山田村と言っておりました。)
「成政天正三年八月に越中に報ぜられる(注:越前府中の誤りですが)や、 三男雄助を比良に留む。雄助故ありて母性を名乗り此の地に住す。
現在、比良に於いて早川姓を名乗る者は皆其の裔である」とあります。
成政の比良のころ、側室に早川主水という人に娘がおり、
その娘が三男を生んだらしい
三男、雄助は成政とともに、北陸へ行くことはなく比良の地にとどまり、
母方の姓を名乗り、その子孫は比良に住み続けたとのことです。
この早川を名乗る人たちは成政の末裔と言われています。
なぜ、雄助は男子のいない成政の男系の跡継ぎとならなかったのか、
またなんの「故」ありて佐々姓を名乗らなかったか謎ですね。
土地の方からお聞きした話では、
比良は古い家が多くて、早川というお宅は佐々成政のゆかりの家から
開けて行ったんだとお聞きしました。
漆喰造りの立派なお宅が今も残っております。
前田利家一党がすべて、北陸(金沢)へ行かなかったように
この地でもそうであったかもと納得できる話でもあります。
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