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水彩画作品(130)と気まぐれ記(46)2008.9.21
水彩画作品(130)
今回アップしました水彩画作品は、今年の8月はじめに描いたものです。
孫達の夏休みを利用して昨年と同じく沼津へ出かけましたが、帰路は途中で柿田川湧水公園に立ち寄りました。ここでは珍しい風景に出会いましたので、色鉛筆を使ってスケッチしました。
富士山の雪解け水が長年にわたって伏流し突然湧き出している様子が見られました。一日当り(70〜100)万トンほど湧き出し、この湧出量は東洋一とのことです。透明度、味とも優れており、日本100名水に選ばれています。柿田川の清流中に育つ水中植物ミシマバイカモも見ものです。この清流で作った豆腐をアイスクリームにして売っていました。美味しかったですよ。
さて、スケッチは湧水の様子を描いた積りでしたが、筆力不足、色鉛筆不慣れ、暑さ、時間不足で見事に失敗しました。とにかく、難し過ぎました。
気まぐれ記(46)
ブログのエチケットを踏み外さないように注意しながら、気まぐれ記と称して思いつくままの拙文雑文を書き記したいと思います。何分にも浅学のため間違いがあるかもしれません。その時はどうかお許しください。また、何かお気付きのことがありましたらご教示ください。
日本の領土領海問題(3)
北方領土問題(2)
日本は、大東亜戦争勃発の8ヶ月前の1941年4月に日ソ不可侵・中立条約を結びました。(ソはソビエットのこと)。この年の12月8日に大東亜戦争勃発。4年後の1945年8月15日に敗戦しましたが、その直前の1941年8月8日に、ソ連はポツダム協定にもとずいて中立条約を一方的に破棄して国交断絶のもと日本に宣戦を布告し、直ちに満州、南樺太、千島列島、北方領土に侵入しました。暫くして、北方領土に居住していた日本人は主に北海道(特に根室付近に)へ移住させられました。つまり追い出されました。北方領土は日本固有の領土であるだけにソ連の武力占領は不法占拠であることは間違いありません。
ソ連は、極東開発に伴って日本との民間経済交流を進め、1948年に日ソ民間貿易協定を結びました。しかし、1951年のサンフランシスコ講和条約には調印しませんでした。当時は冷戦時代でしたので、日ソ間はまだ国交が回復出来ませんでした。
その後、1956年10月になってようやく、鳩山―ブルガーニンのもとで日ソ共同宣言が出され、日ソ国交が回復されました。この時、はじめて北方領土に関し、平和条約を締結した時点で歯舞、色丹を返還するとの表明がありました。
国交回復後、経済交流が公式に復活して次第に盛んになりました。しかし、北方領土付近の海域では、操業中の漁船が領海侵犯としてソ連国境警備隊に拿捕される事件が多発し、これが、両国関係の改善をはばみ続けました。
しかし、北方領土の旧住民からの熱心な要望に応えて、1964年には墓参が実現し、政府も北方対策庁を設置するなど少し前進が見られましたが、その後は旅券持参やビザ取得が求められて墓参が一時中断しました。
この間も民間による経済交流は継続されてきました。
政府間では、安部晋太郎―ゴルバチョフ会談(1990)があり、翌年ゴルバチョフが来日し、日ソ共同声明が出され、北方4島の帰属と国境線画定の問題が残されていることを明記しました。
ソビエット連邦が崩壊しロシア連邦が生まれました(1992)。ここで、北方4島のビザなし交流が再開されました。
その後、細川―エリツィンで東京宣言、橋本―エリツィンでクラスノヤルスク合意、橋本―エリツィンで川奈合意(1998)と続く。川奈合意では北方4島の帰属問題と平和条約への努力で意見の一致を見ました。
プーチンが来日し、森―プーチンでクラスノヤルスク合意の確認をしています。イルクーツクで再び森―プーチン会談を行い、東京宣言を確認しました。(2001、イルクーツク声明)
小泉―プーチンで日露行動計画を作成しました。
しかし、モスクワからしばしば、「日露間にはもはや未解決の領土問題は存在しない」と言う本音とも取れるような気になる報道が伝わってきました。そして間も無く、2006年8月に貝殻島付近で、日本漁船がロシア警備艇に撃たれて1名が死亡する事件が発生しました。
今秋にプーチン首相が来日の予定と聞きましたが、日本も骨太の首相が出て領土問題をしっかり話し合って実のある結果を出してもらいたいものです。
言うまでもありませんが、領土は領海、領空、漁業専管水域、排他的経済水域の決定の根拠になりますし、漁場の確保及び安全操業及び鉱物資源の探査と採掘にとって極めて重要なことです。
特に北方海域は、世界有数の豊富な魚類と蟹類の漁場であり、昆布類の水産海域です。
参考:(北方領土の総面積=5030㎢)/(ロシア国土の総面積=1,707万5400㎢)=0.00029つまり、0.03%
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