松下幸之助 宇宙法則情報ノート

松下幸之助さんの宇宙法則に関する情報や哲学・エピソード等を公開します。感じる心はあなた次第です☆

若き幸之助エピソード

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幸之助さんは子供のころに、大阪の五代自転車屋で住み込みの奉公生活で6年間過ごします。

そのな中、幸之助さんが14歳のときに5,6人いた店員の中で、ひとりが悪いことをする事件が起きました。

なかなか仕事もよくできて、店の主人もその人を可愛がっていて、他の店員も偉い人だなと思って内心尊敬していました。

ところがその人が、店の品物を黙ってよそに売り、その代金を使っていたことが発覚しました。


大変な問題が起こったわけです。

その人を許すか許さないか、どうするかと問題になりました。

店の主人は、仕事が良くできる人だから、いっぺんの過ちはさとして許そうということになりました。

ところが、当時は正義派の幸之助さんはそれを許しません。


「それはいけません。

ご主人はあの人をもういっぺん使うことに決められましたが、私はそれは納得できません。

ああいう悪いことをした人といっしょに働くのは潔しとしません。」


そして、幸之助さんは主人にこう言いました。


「あの人を許すのだったら、私はお暇をいただきたい(辞めさしてもらいたい)。」


主人としては、もっと広い心で許そうとしたのかもしれませんが、幸之助さんがそう言うものですから、困ってしまします。

結果、その人が店を辞めることになりました。

すると、それからあとの店の空気がガラッと変わって良くなりました。

他の店員も含め、全体の気分的に明朗になり、引き締まりました。

幸之助さんが自分の信ずるところを訴えたことが、店の改革につながったのです。


その後、主人は「おまえのおかげや」と、幸之助さんに礼を言いました。

その人はよそに行って、また同様の悪事を働いていたのでした。

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若き仕事の体験

和歌山県に生まれた幸之助さんは9歳の時に小学校を中退し、家族のもとを離れ大阪に単身奉公生活をします。

自転車屋で6年間住み込みで働くことになりますが、そこで幸之助さんは幼くして、仕事のコツ、商売のコツを身につけることになりました。


朝は早くから起きて、店の前と3軒両隣を吐き掃除して、店内をぞうきんで拭き掃除をします。

冬の寒中、氷の張るようなときにぞうきんがけをすることは非常につらいことです。

しかし、幸之助さんは後の話で、小さい頃に教えられたことをこのように語ります。


「私の子どもの時分はとくに、先輩が後輩に教える第一として、苦労せよ、苦労しないことには一人前になれない、ということを教えたものです。

その時分は、大部分の者はそれを素直に受け、わからないながら、そんなものかなと思っていたのです。

そしてそういうことを言われることによって、その日の仕事の苦労、苦痛を忘れてしまう、というようにもなっていたと思うのです。」


寒中のぞうきんがけも、この辛いことがやがて成功のもとになると先輩が言っているのだなと考えると、それは辛抱ができたのだと言います。

そして、辛抱ができるだけでなく、その技術なり仕事が身についていきました。

ひとつの拭き掃除にしても、そのコツを自然に会得されるようになり、ぞうきんのしぼり方が非常に問題で、それによっていい掃除ができるかどうかがきまるのだと分かるようになりました。

そうすると、苦痛も苦労も少なくなり、苦労が希望に変わってくるのだと幸之助さんは言います。


自転車の手入れの仕方など、もっと複雑な仕事になれば、ぞうきんのしぼり方以上にむずかしいコツがあります。

そのコツを会得するということは、決して楽ではなく、相当精魂を込めて仕事に当たらなければなりませんでした。

しかし、苦労であっても、それをやらなければ一人前になれないのだということを教えられてきた幸之助さんは、そのコツを会得することに対して、精魂をかたむけることができました。


「苦労することもあろうかと思います。

しかし、その苦労は自分が一人前になるのには必要なことだと分かると、苦労が希望に変わってきます。

そのようなところに、ひとつの技術というか、技能というか、そういうものを習得するひとつの心構えがあろうかと思うのです。」


幸之助さんは子供の頃の体験が現在の貴重な財産になったのだと、語ります。

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幸之助さんの最終学歴は小学校中退です。

和歌山県に生まれ育った幸之助さんは、父の米相場の失敗で家財産を全て失い、家族全員が離れ離れになります。

幸之助さんは10歳を前にして、大阪船場の自転車屋で単身奉公生活をすることになりました。


そこでの生活は厳しいものではありましたが、辛いとは感じませんでしたがただひとつ、学校へ通えなかったことが辛いことでした。

ところが、学校へ通えるかもしれないという話がありました。

幸之助さんの母が、幸之助さんを手元で育てたいと思い、話を持ちかけてきたのでした。


「小学校も中途半端なままで読み書きも不自由だろう。

この際、給仕に入って、夜間は近所の学校にでも行ったらどうだろう。」


幸之助さんは大いに喜び、ぜひそうしてほしいと頼みました。

母は、「では、お父さんに話して、よければそうすることにしよう」と話をしましたが、父のその話に反対をしました。


「そら、あかん。わしは反対や。

奉公を続けて、やがて商売をもって身を立てよ。

小学校中退のお前が、今から学校へ行ったところであかへん。

それより、商売人にったほうがええ。

今日、手紙一本書かん人でも、立派に商売をして、たくさんの人を使っている例が世間にあることをわしは知っている。

志を変えずに奉公を続けよ。」


そう父の反対があっては仕方がなく、幸之助さんは学校へ通う夢は断念し、奉公生活を続けました。

しかし、後に父の言っていたことは幸之助さんの道を切り開くことになりました。

幸之助さんはこのことを、このように語ります。


「父の言ったことは当たったのですな。

小僧の時代に学校へ行けなかった反面、体験を通じて生きた学問を積むことができた。

これはありがたかった。

もし学校へ行っていたら、この成功はなかったと思いますわ。

もちろん学問は大事やけど、活用しなければ役に立たない。

それがかえって負担になってしまうことだってある。

僕は、なまじ学問をしなかったさかい、固定観念にとらわれないで、いろんなことをやれた。

さすがに父は的確な目を持っていたと、ひそかに思っているんや。」


奉公生活で厳しくも働くことが父の教えであり、学校へ行くことよりも商売人としての資質を磨く場になり、幸之助さんの財産になりました。

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昭和54年(幸之助さん84歳)、日本のリーダーを育てようと松下政経塾を設立します。

塾生は大学を卒業した、22,3歳が中心ですが、幸之助さんは塾生に、明治時代後半の自身の若き体験を語ります。


「ぼくは幸か不幸か、家が貧しかったから、何でもやってきたわけや。

何でもというても、いわゆる学問的なこと、知識的な修養以外のことは、みんなやってきたわけや。」


和歌山県に生まれた幸之助さんは、一家の破産で、小学校を4年生のときに中退をし、1人身で大阪の自転車屋に奉公生活を送ります

まず、塾生に掃除のことを語ります。


「小さなときに丁稚方向に行ってた時分はな、早く起きて両隣な、むこう三軒両隣というものを必ず掃くわけや。

そうすると向かいのうちも早く起きてきて、うちの店の前を掃除してくれる。

それに負けんようにやる。

それでいつも先に起きて、むこう三軒両隣の門を掃いたわけや。

するとあとから起きてきた人は、「いや、どうもありがとう」というような具合に礼を言ってくれる。

そういうことを満10歳の頃から5年間やったわけや。」


その、お茶くみからいろいろなことを体験してきたと言います。

仕事で何か失敗をしたときは、「けしからん!」と叱られ、主人からゲンコツが飛びます。


「忍耐の生活といえば、そやったけど、そういうことをやってるうちに、仕事のコツというものがだんだんわかってきたわけや。

まあ学問も何もない、手紙1本よう書かんれども、今日こうして仕事をやれるということは、そういう体験の中からコツをつかむということをやってきたおかげや。」


塾生の場合は、10歳の時には母親が隣にいて、充分に愛されて、小学校へ行っても先生に甘やかされてきている。

諸君は掃除なんかしたことないだろうと言い、僕の場合は境遇がをつくったわけだと言います。


「奉公先の大阪の船場では、むこう三軒両隣はみな商売人や。

向かいの家の坊ちゃんは僕と同じ年で、中学へ行くが、僕は中学へ行かずに掃除をしている。

それを僕は当たり前で、つまらんとは思わなかった。

僕は奉公人でむこうは坊ちゃん、坊ちゃんは中学へ行くのが当たり前で、僕は掃除をするのが当たり前、それに対して何も疑問を感じない、当然のことやと思っていた

そして奉公をするうちに、やはり体に商売とかそういういろいろなことのコツというものが身についたわけやな。」


“貧しいことが、幸となるか不幸となるか、それは自分次第である。

自分の境遇を素直に受け入れて、それを生かせばいい”


このように自身の若き体験から、塾生に語ります。
 

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決断できなかった決断

長き経営生活で数多くの決断をしてきたきた幸之助さんですが、決断をできなかったことがありました。

それは、10歳から6年間奉公先だった五代自転車店を辞めるときでした。

(参考記事:商売の育て親・五代夫婦 http://blogs.yahoo.co.jp/tuiteru_so_wa_ka/10148118.html )


幸之助さんは明治42年、大阪で初めて走る電車の姿に感動します。

これからは電気の時代になるだろう、だから電気関係の仕事は将来大きく発展していくにちがいない、ぜひ電気関係の仕事がしたい、と思いました。


しかし、6年間もお世話になった五代自転車を辞めると言い出すことができませんでした。

長い間みんなと寝食を共にし、育ってきたところです

五代自転車に対する離れがたい思いも愛着もあり、幸之助さんは長い間悩みました。

心の中では結論が出ているのものの、いざ実行に移そうとすると、なかなかできません。


そこで、幸之助さんがとった行動は、知人から「母病気」という電報を打ってもらうことでした。

驚いた五代主人は心配してこのように言います。


「お母さんが病気で心配だろう。

ここ4、5日落ち着きがないようだが、万一、店をやめたいとでも考えているなら正直に話しなさい。

6年も勤めてくれたのだから、どうしてもやめたいのならヒマをあげてもよい。」


そう言ってくれましたが、主人に言い出すことはできずに、心ですみませんと詫びながら、着替えを1枚だけ持って店を出ました。

そして、口で言い出せなかったことを、お詫びの言葉と共に手紙に書いて送りました。

そうして、幸之助さんは大阪電燈会社に就職をしました。


後に幸之助さんはこのように語ります。


「自分では店をやめる決心をしたのだけれども、それを口に出してご主人に言うことの決断はできなかったということになるかもしれない。

いかにキッパリと決断をしても、心の中だけの状態であれば、それは本当の決断とはいえないであろう。

やはり口に出して言うべきは言い、行動にあらわすべきことはあらわしてこそ、はじめて決断が決断になるのだろうと思う。

そういう意味からいうと、わたしはこの場合、本当の決断ができていなかったのかもしれないわけである。」
 

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