松下幸之助 宇宙法則情報ノート

松下幸之助さんの宇宙法則に関する情報や哲学・エピソード等を公開します。感じる心はあなた次第です☆

宇宙法則研究レポート

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「人間は宇宙の意志によってこの世に誕生した。」

「人間は生まれながらにして80〜90%の運命が決まっている。」


このように考える幸之助さんは、自分の人生も事業の成功もそうなる運命だったと言います。

宇宙には偶然とは考えられないような数字を与えてくれているようです。

そんな情報が幸之助さんの誕生日、命日に隠れています。


幸之助さんの誕生日は、

1894年 明治2年 11月2


94歳まで生きた幸之助さんの命日は、

1989年 平成元年 4月2


明治2年の2日産まれの幸之助さんの命日も2日です

そして、1894年生まれで94歳まで生きました。

これだけの数字が重なるのは偶然でしょうか。


そして、平成元年に亡くなった幸之助さんは、昭和天皇の後を追うようにと言われていました。

同じく昭和を代表する人が平成元年に亡くなっています。


○昭和の歌姫・・・・美空ひばり

○漫画の巨匠・・・・手塚治虫


この3人が昭和天皇と同じ年に亡くなったのも偶然でしょうか。

すべての確率を考えると、天文学的な数字になります。

そうなるように、数字が与えれていたと考えるのが一番納得がいきます。


以上のことを考えると、幸之助さんの運命というのは生まれた時点で、宇宙が与えてくれていた

その情報が誕生日と命日に隠されていたと考えられるのではないでしょうか。

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過去、所得番付で日本一になった松下幸之助さん。
 
そして現在、所得番付で日本一の銀座まるかん、日本漢方研究所の斉藤一人さん。
 
過去と現在の日本一のお金持には共通項があります。
 
 
 
○運がいい・ついてる
 
 
幸之助さんが18歳の頃、蒸気船に乗り、船べりに腰掛けていたときに、足をふらつかせた人が足を滑らし、船から落ちてしまいました。
 
その時に、近くにいた幸之助さんを掴んでしまい、2人とも海に落ちてしまいました。
 
それに対して、幸之助さんはこう言います。
 
 
「私はなんて運がいいんだろう、落ちたのが夏でよかった。
 
これが冬なら心臓麻痺で死んでいただろう。」
 
(参考記事『わしは運が強い』 http://blogs.yahoo.co.jp/tuiteru_so_wa_ka/2881039.html )
 
 
そして24歳のとき、自転車で商品を納品しようとした幸之助さんは、車にはねられてしまいます。
 
電車道に跳ね飛ばされ、そこに電車が走ってきました。
 
もうダメだと思った幸之助さんでしたが、電車は間一髪、手前で止まります。
 
体も、かすりキズひとつなく、打ち身もありませんでした。
 
 
「私は運がいい、滅多なことでは死なないぞ。
 
これほどの運があれば、ある程度のことができるぞ。」
 
(参考記事『人間の運の強弱』 http://blogs.yahoo.co.jp/tuiteru_so_wa_ka/3876044.html )
 
 
この、運がいいということが幸之助さんの自信になって、人間運がいいというのが一番良いと言い続けてきました。
 
そして、社員を採用するにも、幹部を抜擢するにも、松下政経塾に入る基準にも、「運がいい」というのが幸之助さんの大きな要素になりました。
 
 
 
斉藤一人さんも、この運がいいというのを「ついてる」という言葉で言い続けています。
 
例えば、道を歩いてる時に、頭から鉢植えが落ちてきて、足の指に当たって骨を折ってしまった。
 
そこで、こう言います。
 
 
「私はついてる。
 
これが頭に当たったら、間違いなく死んでいた。
 
足に当たって、本当についてる。」
 
 
そして、朝の出かけにゲタのハナオがブチッと切れました。
 
運が悪いなと一般的には言われますが、斉藤一人さんはこう言います。
 
 
「私はついてるなあ。
 
玄関で切れてくれたから、靴に履き替えることもできる。
 
これが横断歩道で切れていたら、車にはねられていたかもしれない。」
 
 
斉藤一人さんは講演でこのように語ります。
 
「私が納税で日本一になれたのはなぜなのか。
 
私より能力がある人はたくさんいます。
 
頭がよいというのも違います、これは学校の先生が保証してくれますから。
 
働き者かといえば、これも違います、私は1年の半分以上旅行に行ってますから。
 
では、残ったのは何なのか。
 
『運』なんです、私はついてるんです。」
 
 
過去の日本一のお金持も、現在の日本一のお金持も、『運』がいいと言い続けた人でした。
 
 
 
○学歴がない
 
 
幸之助さんは小学校中退で、斉藤一人さんは中学校卒、それもほとんど行ってなかったそうです。
 
他には、エジソンも小学校中退、ファーブル昆虫記を書いたファーブルも小学校中退です。
 
 
学歴がない人は、学校教育での常識にとらわれない自由な発想ができる人だと考えられます。
 
 

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火縄銃の3段打ちを考案した織田信長。
 
お城を造るにあたって初めて報酬というのを出した豊臣秀吉。
 
他の大名に領土を与えるのに、上納金を取らなかった徳川家康。
 
天下人になった3人に共通することは、ものすごいアイデアマンということです。
 
 
今まで考えたことがないような経済の方法を考えると、世の中がそちらの方に一斉にドッと動いていくかもしれない。
 
そのようなことを考えた人は、いろいろなことがスムーズに流れていくようです。
 
 
実は幸之助さんはこれらの天下人にも劣らない、ものすごいアイデアマンでした。
 
 
幸之助さんが自転車屋に奉公に出ていた11歳の頃です。
 
自転車の修繕に来たお客からタバコを買ってきてくれと頼まれることがよくありました。
 
仕事を中断し、タバコ屋に買いに走りましたが、時間もかかり、いちいち面倒だと感じていた幸之助さんは、一度に20個入りの箱を買い置くことを考えました。
 
すると1箱買うとタバコ1つがおまけでついてきました。
 
それが結構な小遣いにもなり、幸之助さんが商売のアイデアを出した瞬間でした。
 
(参考記事『若き商才の発揮』 http://blogs.yahoo.co.jp/tuiteru_so_wa_ka/2227178.html )
 
 
その後、幸之助さんは大阪電燈会社で7年間勤めていましたが、退職し独立しようとした理由のひとつに、考案した電球の改良ソケットを会社に認めてもらえなかったというのがあります。
 
このアイデアは電燈会社を辞めさせ、松下電器を創業し、第一号商品になりました。
 
その後も、「アタッチメントプラグ」「二股ソケット」という数々のアイデアを出し大ヒット商品となり、幸之助さんは『日本のエジソン』と言われたこともありました。
 
 
そして、商品だけでなく経営において今までにないアイデアの数々を出します。
 
 
その当時、2階2間、1階3間の自宅兼職工場に住んでいましたが、大正7年(幸之助さん23歳)から8年にかけて、仕事が忙しくなり、従業員を増やすも、商品を製造する場所がありませんでした。
 
しかし、幸之助さんは今までの家で、職場面積を2倍にするアイデアを出しました。
 
それは、棚をつくることで、棚下、棚上と2段ベットのようにすることで、共に作業場にして組み立てるものです。
 
これにはお得先の人も驚きます。
 
「なんと、えらいことをやっているなあ!
 
蒸気船の船室みたいに上下で仕事をしているのかいな。」
 
 
その後、会社が大きくなった昭和8年(幸之助さん38歳)、今では大企業に当たり前のようにある、各事業部が独立採算でひとつひとつの事業部がひとつ会社であるという「事業部制」を日本で始めて考案します。
 
(参考記事『専門メーカー松下電器』 http://blogs.yahoo.co.jp/tuiteru_so_wa_ka/4591215.html )
 
 
 
昭和27年(幸之助さん57歳)オランダの家電メーカー、フィリップス社と技術提携の交渉をしたときの話です。
 
フィリップス者は松下電器に対して技術援助料に7%を求めてきました。
 
交渉の進めていくうちに4,5%まで下げる話になりましたが、それではまだ高すぎる、どうにかならないかと考えたときに、幸之助さんは思いつきました。
 
「フィリップス社が松下電器と契約したならば、どの会社よりも大きな成功をおさめることができる、 松下電器の経営にはそれだけの価値があるのだ。
 
だから松下電器の経営の価値に対して、経営指導料として3%、フィリップス社の技術援助料は4,5%としてはどうだろうか」
 
それにはフィリップス社側も驚きます。
 
「いまだかつてわれわれはそんな経営指導料などというものを払ったことはない、そんなことを耳にするのは初めてだ。」
 
松下側が熱心に説いていくうちに、理解も納得も得られ、幸之助さんの提案どおり技術提携の話はまとまりました。
 
幸之助さんは、今までに全くなった「経営指導料」というアイデアを出し、交渉に成功しました。
 
(参考記事『フィリップス社と技術提携』 http://blogs.yahoo.co.jp/tuiteru_so_wa_ka/6455429.html )
 
 
 
そして、昭和40年(幸之助さん70歳)、今まで日曜と祝日だけが休みというのが当たり前でしたが、日本で初めての土日が休みの「週5日制」を実現させます。
 
(参考記事『週5日制の実現』 http://blogs.yahoo.co.jp/tuiteru_so_wa_ka/8402348.html )
 
 
今では政治家を育てる塾というのが政治リーダーの元、日本にいくつかありますが、それを昭和55年(幸之助さん85歳)「松下政経塾」として、初めて作ったのも幸之助さんでした。
 
(参考記事『松下政経塾の面接』 http://blogs.yahoo.co.jp/tuiteru_so_wa_ka/4302420.html )
 
 
 
幸之助さんは数多くのアイデアを出すことによって、宇宙の流を作っていたのかもしれません。
 

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20年かけて2千人の世界の大金持ちを尋ね歩いたジャーナリストが出した結論に、こういうものがあります。
 
 
『今、たくさんお金を持っている人、いわゆるお金持の人は、宇宙に向かって投げかけたサービスの総量が膨大だ。
 
特に若いときに宇宙に向かって、ものすごいサービスを膨大に投げかけている。』
 
 
「今までに投げかけたサービスの総量が報酬となって戻ってくる。」という宇宙の法則があります。
 
お金持になった人は、もらっている給料の何倍も働いて、宇宙に向かって投げかける量がものずごく多く、嫌々働いていた人がひとりもいなかったそうです。
 
そう考えると、日本一のお金持になった幸之助さんも、投げかけたサービスの量が膨大であったと考えられます。
 
 
幸之助さんは9歳の頃から単身で奉公に出て、同じ年代の子供たちは学校に行っている中、ひとり働いていました。
 
朝の店の掃除から始まり、トイレ掃除も毎日の日課でした。
 
休みはお盆と正月の2回だけで、報酬もお小遣い程度のものでした。
 
しかし、そのことに対して幸之助さんは不平不満を言うことはありませんでした。
 
 
「その頃どのようなことを考えていたのかは、はっきり覚えていませんが、いずれは番頭さんにでもなることを夢見、朝早くから夜遅くまで汗水流して働いていたのですね。
 
それなりに満足感を味わっていたわけです。」
 
 
このように語る幸之助さんは、その後も1日1日を一所懸命にやるだけで、幼き頃から宇宙に投げかけたサービスが膨大になっていたと考えられます。
 
(参考記事『幸之助さんの若き生きがい』 http://blogs.yahoo.co.jp/tuiteru_so_wa_ka/8564646.html )
 
 
松下電器を創業して、多くの従業員を抱えるようになってからも、サービスの大切さを自身も感じ、従業員にも訴え続けていました。
 
 
「商売にサービスはつきもので、サービスを伴わない商売はもはや商売ではないといってもよいと思うのですね。
 
サービスしあうというのがこの世の理法ではないかと思います。」
 
 
 
また、人間だけに与えられた本能に『喜ばれるとうれしい』というのがあります。
 
神というのも『喜ばれるとうれしい』というエネルギーのかたまりだそうです。
 
 
幸之助さんもこの『喜ばれるとうれしい』というのをわかっていて、その上でサービスに勤める大切さを語っています。
 
 
「サービスというのは本来相手を喜ばせるものであり、またこちらにも喜びが生まれてこなければならないと思うのです。
 
相手が喜んでくれれば自分もうれしい、それは人間の自然な感情ですよ。
 
そういう喜び喜ばれる姿の中にこそ、真のサービスもあるのです。」
 
(参考記事『サービスについて語る』 http://blogs.yahoo.co.jp/tuiteru_so_wa_ka/8866235.html )
 
 
幸之助さん自身がサービス精神にあふれた人で、どのような人に対しても、ざっくばらんでサービス満点で、幸之助さんに会った人はみんなファンになっていったといいます。
 
 
膨大なサービスを投げかけることで、幸之助さんはいろいろな人を味方にしただけでなく、宇宙や神にも味方についていたのでしょう。
 

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お金に関する宇宙法則

「困ったときに、いかにお金を集めるか」ではなく、「人が困ったときに、いかに自分の富を吐き出すか」といことが、お金に関する宇宙法則です。
 
先に施しをする、まず喜ばれるように使うことから始まります。
 
 
昭和4年(幸之助さん34歳)、日本は大不況の中にありました。
 
その時に、ある車の営業マンが幸之助さんに車を売りに来ました。
 
この不況で車が全然売れません、松下さん、助けると思って1台買ってくださいという話に、幸之助さんはこう思いました。
 
 
「この不況に、ものを買える者はどんどん買わなければいけない。」
 
 
そして、アメリカ車を初めて買いました。
 
 
また、その当時に家を買おうかどうかと相談された幸之助さんはこのように言います。
 
 
「この不景気の時こそ、きみら資産家は家を買うべきだ。」
 
 
不景気の時こそお金を使うという事を幸之助さんは実践していました。
 
(参考記事『不景気の時こそ物を買え』 http://blogs.yahoo.co.jp/tuiteru_so_wa_ka/2206105.html )
 
 
 
また、お金に喜ばれる使い方として、手元にある程度自由になるお金がある場合、「そのお金を貸してくれ」と言われたら、「はい、いいよ」と貸すよりも、仕事として何かを創出するほうが良いそうです。
 
 
幸之助さんの元にも、寄付をしてほしいという相談が多くありましたが、ただ単にこれだけ寄付してほしいという話には耳を貸しませんでした。
 
それよりも、自分である程度お金をつくれて、それでも足りない分を貸してくれという相談には、金額に関係なく貸していました。
 
 
「そういうお金には光がある、その光がお金の信用、人の信用だと思うんです。」
 
 
長者さまというのは、いかに貯めるかではなく、いかに使うかを常に考えています。
 
幸之助さんは、お金を稼ぐより使うほうがむずかしい、効果的な使い方をしなければいけないので、3倍はむずかしいと言います。
 
(参考記事『幸之助さん”お金の哲学”』 http://blogs.yahoo.co.jp/tuiteru_so_wa_ka/8758680.html )
 
 
お金に関する宇宙法則を幸之助さんは使いこなして、日本一の大金持ちとなりました。
 

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