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辻おさむの最近の活動ブログ
これまで、YAHOOジオログにて、投稿しておりましたが、6月8日に閉鎖されるとのことですので、こちらのブログに移行しました。

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「庄本えつこ物語」は、2003年に「しんぶん赤旗読者ニュース」に連載したものを、一部修正したものです。
【第1回】

「憲法9条があるから大丈夫よ」
 
イメージ 3 1954年、昭和29年、私は、茨城県水戸市で生まれました。子どもの時は、真っ黒になって外を走り回ることが好きな、活発な子どもでした。でも、人と接するのが得意でない面も持っていたんですよ。
NHKの朝の連続ドラマ「こころ」―浅草を舞台に江戸っ子の人情あふれるドラマですが、毎日、懐かしく思いながら観ています。私も浅草の近くに住んでいたこともありますし、母と母方の祖母は、もともと浅草の生まれで、浅草でお菓子屋をやってたらしいんです。

 第2次大戦中の1945年(昭和20年)、戦争が激しくなり、東京でもアメリカ軍による空襲がたびたび行われるようになりました。母と祖母は、戦渦からのがれるように茨城県の水戸に疎開をしたんです。その直後の3月10日におこった東京大空襲。東京は焼け野原となりましたが、惨禍からのがれられたのは、不幸中の幸いでした。

 そして、終戦になっても、東京に帰れずにいたとき、お母さんが水戸で大工をしていた父と知り合って結婚。私は、姉と弟の3人姉弟の真ん中の子として生まれました。

 ですから、私が小さい時は、よく戦争の話を聞かされて育ったんです。母からも祖母からもよく聞かされました。疎開で東京大空襲から「免れた」話、戦争のために、指輪から何から、全部、拠出した話。それから、戦後は、お米や食べるものを、手に入れるために、着物なんかをお百姓さんのところに持っていって、食糧と交換してもらう、なかなか交換してもらえずに苦労をした話とか。そんな中、どうしても手放せない1枚の着物だけとっておいて、私が14歳、中学2年生のお正月に着せてくれました。

 とくに、祖母からは、第1次世界大戦が終わったあと、「もう戦争なんか起こりっこない」と思っていたのに、「だんだん戦争の方へ、いつの間にか行かされていた」「もう戦争はいやだ」ということを、ずいぶん聞かされて育ちました。

 そして最後に、母は、「今は憲法9条があるから。絶対戦争をしない国になったから、だいじょうぶよ」と晴れ晴れとした表情で言ってくれ、「戦争はこわい」「平和が大事」という思いを強く持ちました。私は、そんな話を聞きながら「どうして戦争が止められなかったの」と質問をして、母も祖母も困った顔をしていました。

 私がもう一つ疑問をもったのは、戦争のテレビやお芝居で「アカ」と呼ばれる人たちが憲兵や特高警察に追われる姿です。「なんで追われないといけないのか」「つき合ったらいけないのか」と不思議でした。「アカはこわい」というセリフを聞くたび、「アカ」とよばれる人や、それをかばう人たちが「良い人」に見えたんです。

 
 【第2回】
「戦争」「人種差別」――
不思議だった子どものころ
 
 子どものころから、母が本をけっこう与えてくれていたので、本を読むこともすごく好きだったんです。 
アメリカで白人と黒人のハーフの子が差別を受ける物語を読んで、「なぜ差別があるのだろう」と、不思議でなりませんでした。

 小学校5年生のときに、ベトナムへのアメリカの空爆が始まったんです。私は、担任の先生に「何で戦争が起こるんですか」と聞きに行ったんです。ところが、先生は「いやぁ、戦争といっても、いろんな戦争があるからなぁ。人種問題とか」と言って、はっきり答えてくれなかったんです。母や祖母から戦争の話しを聞かされており、「戦争は、絶対にいけない」という思いで聞いているんですけれども、はっきり教えてくれなくて、「変だな」という思いでした。

民青との出会いで
幼い頃の疑問が…


イメージ 4 高校2年生のとき、中学からの友だちが日本民主青年同盟(民青)に入っていました。そして私も誘われたのですが、民青ってなんだか知らなかったし、別の友だちに聞いたら「入ったらあかん!」「危険なとこよ!」と言われました。でも、高校には社会科学を研究する同好会もあり、興味もあったんです。組織に入るのがいやでしたが「やめたくなったら、やめたらいいや」と思って、民青にはいりました。そして勉強していくうちに、差別のこと、戦争のこと、そして「アカ」と呼ばれていた人たちが、実は戦争に反対しぬいた勇気ある人たちだったことがわかりました。
小さいときから抱きつづけてきた疑問が、民青で勉強することで次々に解けていきました。

 そしてなによりも、社会問題をまじめに話ができること、いろんな知らない人たちと友だちになれること、いろんな歌―労働歌も―教えてもらえること、民青が楽しくてしかたありませんでした。

 民青同盟員が生徒会長に立候補し、私も応援に走りまわりました。そして制服の自由化をもとめて生徒集会も開きました。ちょうど、制服が問題になっていた頃です。高校でも演劇部で、男子が少ないので、いつも男役をやっていました。「戦争反対」や「地球の平和」をテーマにしたお芝居が多かったですね。楽しい高校生活をおくりました。
 
【第3回】
よい先生にめぐまれてイメージ 5
教育の大切さ知り
 私は、小学校二年生の時からクラシック・バレエを習い始めました。そういう、人前でなんかやるというのも、結構、好きだったんです。

 小学校5年生の夏に、東京に出てきたんです。

 転校先の小学校には演劇部があり、友だちに誘われて入りました。それで芝居を作ったりしながら、スポーツもやりました。バレーボールにハンドボール、あるときはブラスバンドと、いろいろやりました。
バレエは、中学1年でやめました。お金も続かなく、東京にきてちょっと大変でしたから。でも、いまだにバレエを見るのはすごく好きです。

 私は、小学校のときも、中学校のときも、高校の時も、わりあい良い教師に恵まれていたと思います。
小学校六年生のときの先生は「人間にとって一番大切なのは、団結だ」と教えたんです。私たちに、「みんなができるようにならないといけない」といって、学年の4クラスすべてで成績がすごくよかったんです。算数なんかも、みんなが八十点以上でした。それなのに、先生があるときに、「成績で1〜5をつけなくてはいけないのが、すごくつらい」。それで、私たち生徒が話し合って、校長先生を呼んできて「おかしい」「なんとかしてくれ」とクラスで言ったりしました。

 それから、中学校の時の英語の先生は、「元始、女性は太陽だった」という言葉を教えてくれました。
そして卒業するときに、「女性だから、今からは『結婚したら退職する』とか、いろいろあるかもしれないけれども、本当に自分の好きなことだったら、自分を大事にして、ちゃんとやっていきなさい」という言葉をくれたりしました。

 そういう教師との出会いがあって、「教育ってすごく大事だなぁ」と思ったんですねぇ。弟は私よりずっと賢い子なのに、学校で授業を聞いているのが苦痛だったようです。本当に、教師というのは大切だなあと思って、教師を目指したんです。

 そして、法政大学2部文学部の教育学科に入学しました。教育学科は夜間にしかなかったんです。

 教育学科というのは、教育科学で「教育とは何か」というのを学ぶ学科でした。一応、私、中学と高校の社会科の免許を持っているんです。
 
【第4回】
「日本共産党が
大きくなるなら」とイメージ 6
 
 日本共産党に入党したのは、予備校に通っていたときです。それまで民青で活動していましたが、18歳になったとき「私じゃ、入れないな」と思っていました。私が知っている党員の人は、みんな意思が固くて、冷静な人ばかりでした。予備校班にいた党員の人も、そういう人でしたが、その人から入党を誘われました。「とても入れない」「よく知らないし」と断っていました。しかし、話し合いを進めていくうちに「1人が入ることによって、その人の周りの人が、一歩、党に近づくことになる」といわれ、「そうか。私が入ることで、日本共産党が大きくなるなら」と、自分で納得して決意しました。

 法政大学には、当時、党委員会があり、みんな、学生自治会や民青で活動していました。私は、民青を中心に活動し、学費値上げ反対闘争、国鉄値上げ反対闘争、大学二法に反対する闘争などに参加しました。

「赤旗まつり」のスタッフとして

イメージ 7 また、大学の授業は夜間で、昼間はアルバイトをしていました。たまたま、仕事をさがしている時、「赤旗まつりを手伝わないか」という話が持ち上がりました。

 私は、小学校以来ずっと演劇をつづけ、大学でも演劇サークルに入っていましたので、引き受けることにしました。最初は、舞台の「助手の助手の助手」でした。それでも、手伝っているうちに、地元の党員の方々が、ゴミの処理をはじめ「まつり」を支えるための献身的な姿をみたり、出演する方が―日本共産党とは関係が薄い方もいたのですが―、しかも「野外」という条件は、通常なかなかありませんから、不安を抱えながら出演してくださった方々が、「まつり」に参加している観客のあたたかい反応に感激し「また出たい!」と感想をいってくださったりとか、本当に勉強になりました。そして、文化面で党を支える行事に参加できたことで、「日本共産党ってすばらしい」という思いもますます強くなっていきました。
 
 【第5回】
ふじき洋子さんとの出会い
イメージ 8 また選挙のときのアナウンサーも経験しました。76年の総選挙ではじめて体験したんですが「党を大きくするために、こういう仕事もあるのか」と思いました。

 77年の参議院選挙では、中央の宣伝車で約3週間、西日本を中心に応援にはいりました。兵庫県には2日間入ったのですが、地元の女性の候補者の演説を聞いて「わかりやすいし、はっきり言うし、すばらしい女性がいるなぁ」と強い印象を持ちました。

 のちに、尼崎に来てからふじき洋子さんに会ったとき「もしや 」と思って聞いたら、やはりあの時の候補者で、改めて感激をしました。尼崎に来てからは、旧二区事務所での仕事や、選挙の時、ふじきさんの身辺秘書をしたりで、ますます「こんな人が議員になってほしい」という思いを強くしました。

日本を外から見て
その「良さ」を再認識


 学生時代は演劇サークルに入っていましたが、その時に「学生演劇ゼミナール」というのを、大学間のつながりで、青年劇場の瓜生正美先生を中心に作っていて、それにも参加していました。土方与平さんにも講師になっていただいたり、土方先生の影響は、すごく大きかったと思います。

 「世界で一番きれいな国語は、フランス語だ」と、よく言われますよね。「そういうフランスに行って、言葉を学びたい」。そして「フランス民主主義の空気を吸いたい」という思いで、借金をして79年8月から81年3月まで、フランスに留学しました。パリ近郊のツール。ルマンの隣の町ですが、「フランスの中でも一番きれいなフランス語」といわれているところです。ブドウ刈りのアルバイトをしながらの生活でしたが、すごく楽しかった。その国の言葉で意見交換できる楽しさ。フランス語にも敬語があるんですが、敬語で話していても親しくなれる、そんな体験もしました。

 そして改めて、日本の文化とか、政治とかを外国から見て、私にとっては貴重な経験ができてよかったと思っています。フランス語は、綺麗でいいんだけれど、日本語の持つ微妙な言葉遣い、その「あいまいさ」も含めて、日本語というのは「すごくいい言葉だなぁ」というもの再認識しました。それから、日本の四季があるということの素晴らしさは、すごくわかりました。
 
【第6回】
平和運動への思いイメージ 9
 
 大学を卒業して1年間は、法律事務所につとめながら、民青の活動をしていました。フランスから帰ってきて、劇団に入ろうか、制作やろうか、いろいろ悩みました。いろいろなバイトをやりましたが、いつも文化が私の側にありました。

 それと同時に、私が一貫してやってきたのは平和運動です。幼い頃から「戦争はいやだ」「平和を大切にしたい」という思いでしたから、平和運動は私のライフワークだと思っています。平和運動をしたくて、しかたがなかったんですね。

 いまでは原水爆禁止世界大会には毎年参加していますが、学生時代は自分のバイトもあり、送り出す側ばかりでした。でも、青年・学生がやっていた平和友好祭には毎回出し物をやったりしていました。

 国立市に住んでからは、平和委員会にはいって活動をはじめました。国立市は横田基地の近くで、「横田平和まつり」なども毎年、実行委員をやっていました。その後、日本平和大会の事務局をしたり、東京平和委員会の理事などをやりました。

 国立市では毎月、6日と9日の両方で6・9行動をしています。そのなかに高齢の先輩党員がおられ、かかさず参加される姿に感心し、本当に尊敬していました。85年に「平和の波」運動が提唱され、アピール署名が始まりました。その年の12月開かれた「平和と文化のゆうべ」は、私も実行委員でしたが、三多摩地域全域から大勢の人が立川の会場にあつまり、合唱、バレエ、構成詩、平和トーク(山口勇子さんの被爆体験)など、成功させたことは、いまでも忘れられません。

 「えっちゃん」と 呼ばれて

イメージ 10 党の副委員長の上田耕一郎さんも国立市に住んでおられ、前からアナウンサー仲間を通じて知ってはいたんですが、上田さんは地域を大切にされる方で、毎年の暮れに「囲む会」なんかをやるんです。上田さん自身が地域ぐるみ、家族ぐるみで活動されていたんです。私も親しくさせていただきました。上田さんには、いまでも「えっちゃん」と呼んでいただいています。
 
 
 
 
 
【第7回】
国立での出会い、そして尼崎へ
 
イメージ 11 先日、国立市の上原市長にお会いしました。「住民運動が盛んなまち」は実感です。戦後、隣の立川に米軍が来て町が荒れたとき、「国立をまもるため『文教地区』にしよう」と住民がたちあがり、議会にも進出して1票差で条例をつくったところです。いまでもパチンコ屋は戦前からの1軒しかありません。

 そんな中、日本共産党の後援会活動も当時から活発で、お正月には、各地域後援会が趣向をこらした出し物で楽しむ「新春のつどい」、夏には3泊4日の「船の旅」、秋には「ソフトボール大会」、暮れには上田耕一郎さんを「囲む会」、そして市議会が終わるたびに「議会報告会」をやっていました。当時から「後援会ニュース」を毎月つくって、会員にとどける活動をずっとやっていたんですよ。選挙になれば、毎日発行されたので、一生懸命届けにいきました。

 後援会長は、東京経済大学の故・大沼正則さんで、「ポストの数ほど保育所を」「後援会ニュースは暗闇選挙を照らすヘッドライト」などの言葉を残した方です。

 そんな後援会の行事のなかで、出会ったのが夫です。結婚し浅草の近くに住んだのですが、やがて夫の転勤にともなって、尼崎に引っ越すことになりました。91年のことです。

子どもへの思い

 いま私には4人の子どもがいます。大学生の長女を筆頭に、高校生の次女、中学生の三女、長男は小学生です。

 いまでは姉妹弟どおしで面倒を見てくれるので助かりますが、大学生の悩み、中高校生の思春期の悩み、そして小学生と、あらゆる年代の問題をいっぺんに抱えています。

 私は、自分の親にたいして遠慮をしているところがある子どもでしたので、自分の子どもたちとは「何でも話しあえる関係」「悩みがあれば相談できる関係」でありたいと思っています。

 いつの時代でも「親はわかってくれない」「話もせえへん」という子たちもいますが、私の子どもの友だちからは「いい親子関係ね」「あなたの家はくつろぐね」って言ってくれるので、そういう関係にはなっているのでしょうか。

 それにしても、4人の子育てはお金がかかります。 そして子どもたちや、未来ある青年が夢をもって生きていけるように、政治や社会がもっともっとやらなければいけないことが、ほんとうにたくさんあると思います。
 
 【第8回】
尼崎に来て―
友だちに自慢すること
イメージ 12 私が尼崎に来たのは十二年前です。まず驚いたのは、市場があるところです。初めて連れていってもらったのが三和市場なんですけれども、どこまで続くか分からない市場が、商店街が、あって、まるでおのぼりさんのように首を右、左に動かしながら商店街を歩いて、本当に感動しました。いまの日本の中で、こんな市場や商店街があるなんて。それに安いですしねえ。「こんなに安くて、いいのかなあ」と思うぐらい。ちょうどそのころ、乳飲み子を連れてこちらに来ていたんですけれども、ミルク代が東京と比べると300円違うんです。一缶につき。忘れません、本当に安くて!

 東京から、学生時代から付き合っている友達が来たとき、私は自慢をするつもりで「ええとこ連れて行ってあげるからね」と、阪神尼崎で待ち合わせをして、中央商店街の入り口からずっと案内したんです。ところが彼女の最初の驚きは「ここは、パチンコ街ねぇ」――。たしかに。入り口の近くはそうです。これも尼崎の一面です。

 そのあと、ずっと商店街を連れて歩いて、それからは彼女も感動に変わったんです。次に市場に連れていったら、またそこでも感動をして「本当に、いいところにいるんだね」と言われました。私にとって、尼崎の商店街・市場というのは、友だちに対する自慢のひとつなんです。でも、ピンク街やパチンコ街は、子どもたちとは通りたくないですね。

平和への思いが強いまち

 尼崎に来てからは、日本共産党の地区委員会で仕事をするようになりました。地区で仕事をしながら、いろんな団体・運動にも参加しました。

 国立市や東京でも平和委員会で活動をしていました。尼崎にも平和委員会があったのですが、私が来てしばらくして尼崎平和委員会を強化する再結成が行われました。その最初から参加できたことは、本当に幸せです。

 また尼崎原水協では6・9行動を行い、「アピール署名」に取り組んでおられ、私が来てすぐの92年に人口の過半数を超えました。

 「尼崎って、平和にたいする思いが強いところだなあ」というのも、私の強い印象です。
 
【第9回】
献身的に運動する尼崎の人たち
 
イメージ 13 「消費税をなくす会」に91年から参加しました。

 消費税が導入されたとき、私は国立市で文房具店に勤めており、導入された日はレジで「今日から3%いるんです」と受け取っていました。ところが、帰りに買い物をして1000円だすと、「1030円です」といわれ、ハッと気づいて無性に腹が立ったことを覚えています。

 「なくす会」では、毎月10日の宣伝行動など、横山等さん(故人)が、「命をかけている」という感じで、がんばっておられました。尼崎は横山さんに限らず、平和でも、労働でも、金融被害の分野でも、ひたむきに、献身的に運動を続けていらっしゃる方が多くて、本当に感心します。この人たちの頑張りが「尼崎で市民運動が活発な原動力になっているんだなあ」と、つくづく感じます。

 横山さんから「なくす会の世話人になって」と言われ、「私にできることで」と、93年から世話人を引き受けました。

 私は、街頭の署名行動では、子どもたちに「納税義務のない、あなたたちからも取る憲法違反の税金なのよ。なくさないとねえ」と呼びかけています。財界や自公政権がねらう消費税の増税なんてとんでもない!景気回復のためにも消費税の減税こそ、実現したいと思っています。

震災復旧・復興市民会議で

 95年1月17日。阪神大震災にみわれました。私、こちらに来たとき、「関西はいいやろ。地震がないから」と言われていました。関東では震度3ぐらいの地震は日常茶飯事でした。あらためて日本は地震国、火山国だなぁと思い知らされました。

 震災後、歪んだビル、ひび割れた道路を歩いて神戸の長田へ行きました。長田では市場の焼け跡で家族が探し物をしておられたり、手を合わせる姿が忘れられない光景です。

 阪神大震災では住民の助け合い、ボランティアの力がずいぶん大きかったと思います。それにくらべ、当時の村山内閣も、いまの自公政権も被災者になんと冷たいことでしょう。日本共産党がいち早く、「個人補償を」の要求をかかげ、ステッカーを張り出したのは、さすがに「すごいな」と感じました。この切実な要求は、多くの市民の共同の運動も発展させました。私は、「震災復旧・復興尼崎市民会議」にも参加し、対県交渉などもおこなってきましたが、この問題でも、被災地兵庫の代表としてがんばってこられたふじき洋子さんとバトンタッチすることの重みを痛感しています。
 
【第10回】
「誰が主役か」を肝に銘じた4年間
 
イメージ 14 94年から98年の4年間、日本共産党の市議団の事務局長をやりました。新生議会になって2年目で、議会改革の真っ最中でした。議会の仕組みも制度もよくわからないまま飛び込んだ形でした。
当時、大問題になっていた公金の使い方は「これで本当にいいのか」「市民の目線で見たらどうか」など、議員とも事務局員とも喧々諤々の議論をしながら、取り組みました。党の議員団は本当にがんばって、改善を勝ち取ってきたと思います。その頑張りをみたとき、他の議会や、他の会派の人たちは「まだまだ甘いなぁ」と感じることもたくさんあります。

 尼崎市議会の旅費不正問題は、本当に残念な事件でしたが、政党として「どこまで真剣に反省し、改善したのか」が大切だと思います。この痛苦の反省から、自ら律することと真剣に向き合ったなら、社民党の辻元問題も起こらなかったのではないでしょうか。

 それにしても、議会を解散させ、新生議会を誕生させた尼崎市民のエネルギーは、本当に「すごい!」と思います。

 市議団事務局長の4年間は、団会議にもいっしょに参加し、討論し、質問づくりへの協力と、本当に勉強になりました。党の市議団は、質問でも、議案の態度決定でも「だれが主役か」「市民にとってどうか」ということを最大の基準としてきました。この立場を、私も絶対に忘れないよう肝に銘じることができた4年間でした。

あきれた開発市政

 市議団にいたとき、本当にあきれてしまったのは、阪神大震災の1週間後、市民が避難所で不安な生活を送っているときに、尼崎市が阪神尼崎駅前の開発=「空中回廊」の工事契約を結んだことです。「なんという市政だろう」と思いました。

 駅前では雨の日でも噴水を飛ばし、臨海部の扇町水路を無理やり埋め立て、公害問題に正面から取り組むのでなくイメージだけ変えようとする市政―「もっと他にやることあるやろ!」ということも見えてきました。
「どうして市民に思いをはせることができないのか」「未来の日本をになう子どもたちに、もっとお金をかけても良いはず」「本来、税金はそこに住んでいる人のために、どう使うかを考えるべきもの」―国・県いいなりの自民党政治の逆さまぶりを見るにつけて「日本共産党の議員を増やすことも、首長を変えることも大切だなあ」と痛感していました。
 
【第11回】
はじめての立候補――
県議補欠選挙をたたかって
 
イメージ 15 98年の秋は、尼崎市長選、県知事選がありました。市長候補の西沢つとむさんも、知事候補の梶本修史さんも、平和運動で知り合った仲なので「がんばらなくっちゃ」と思っていました。

 ところが尼崎で、県議の補欠選挙があるというので、私に白羽の矢が当たったんです。最初は、「えーっ!なんで?」と思いました。

 でも、市議団から市政を見ていて、「県政、国政ともつながっているな」という思いも一方ではありました。
当時、特別養護老人ホームが足りなくて、たくさんの待機者がいました。ところが尼崎市は市内につくるんじゃなくて、県と相談して、夢前町や淡路島など、「遠くの施設に入りなさい」というんです。「冷たいなぁ」とも感じていましたし、教育にしても、県や市は30人学級をやる気もありません。

 意を決して、市議団の事務局長をやめ、補欠選挙に立候補することにしました。相手は「連合・5党協」の候補で一騎打ち。不足はありません。「非共産」だけが残った人たちに負けてられないという気持ちでした。

 補選では、「県政にやさしさを、希望を」と訴えました。市議会で顔なじみになった保守系の議員さんからも「あんたがでるなら、入れるよ」と言われたんですよ。

 選挙のなかで、「尼崎の子どもっていいなあ」と思ったのは、子どもたちが「えっちゃん」と応援してくれるんですよね。上田耕一郎さんが応援にきてくださった時に「私は、えっちゃんと呼んでいます」と言われたので、それから、どこへ行っても子どもたちが、「えっちゃん」「えっちゃん」と、手を振ってくれるんです。

 イメージ 16尼崎の子どもたちは、本当に人懐っこいというのを実感しました。

 選挙結果は、5万1000人もの方々が、私の名前を書いてくださいました。相手候補には及びませんでしたが、悔いのないたたかいが出来たと思っています。
 
 
 
 
 
 
【第12回】
 
「行革」白紙撤回の運動イメージ 17
 

 私は、補欠選挙後、党の地区委員会で仕事を続けていました。00年の暮れ、尼崎市が大規模な「行革」=福祉切り捨ての計画を突然出してきました。市民団体があつまって「こんな計画は白紙撤回だ」「連絡会をつくって運動を急速にすすめよう」ということになりました。私は「行財政改善計画の白紙撤回をもとめる連絡会」の事務局の一員となって、ビラまきや集会にと飛び回りました。集会には、市民自治クラブの丸尾牧議員もきてくださいました。保育団体のお母さんたちも、市議へのハガキ攻勢など、本当に一生懸命に訴えました。

 そして迎えた予算市議会。委員会は連日、深夜に及び、私も傍聴に詰め掛けました。緊迫した状況がつづき、私も市議団事務局長の経験を生かして、「大変よ。今からでも傍聴に来て!」と市民団体に呼びかけました。そして、思いもかけず「全会一致」で予算案を否決!。署名の力、声の力を感じた瞬間でした。

 身体的には疲れましたが、市民が声をあげることの大切さを痛感した運動でした。そして「やっぱり市長を変えなあかん」という思いも、広がっていった闘いでした。
 
 戦争反対のうねり

 最近の政治で許せないのは、自衛隊の海外派兵への歯止めをどんどん取り払う動きです。憲法9条の危機です。

 その一方、尼崎でも市民レベルの反戦の共同行動が前進しました。新ガイドライン反対、テロ反対、アフガン戦争反対、そして今年2回行われたイラク戦争反対の行動です。最近では事あるごとに、お互いに「なにかやろう」という話がだされるようになり、定着した感じです。

イメージ 18 私は「平和と民主主義をすすめる尼崎の会」にも参加しています。超党派で久しぶりの共闘が実現した98年の「ストップ戦争法尼崎集会」には司会を務めました。最近は、若い人が積極的に参加するようになり、日本の明るい未来があると感じています。

 市「行革」反対の運動、平和での共闘――こういった経験を通じて「市政を変えなあかん」「市長を変えなあかん」というのが共通の思いになっていったのではないでしょうか。
 
【第13回】
劇的だった白井市長の誕生イメージ 19
 
 
 白井さんとの出会い
 私が市議団事務局にいたときに、ちょうど白井文さんが無所属の議員でした。私が「赤旗」の集金をしていたのですが、ピリッとした空気があり、「ひと味ちがうなぁ」という印象でした。そして毎議会で質問をされ、党とは視点がちがいましたが、よく調べておられました。

 尼崎市が「行革」で市民いじめばかりすすめるなかで、白井さんも予算に反対するように変わってこられました。

 「私、このごろ共産党といわれてる。ええねん」―白井さんが、あっけらかんと言われるので、こちらがびっくり。「偏見のない、まじめな人だなぁ」と思いました。

 昨年の市長選挙では「白井さんが出てくれたらいいのになぁ」と思っていました。白井さんが決意されたときは、本当にうれしかった。「絶対勝ちたい!」「やれることは、やろう」という意気込みで、支持拡大や、宣伝テープのお手伝いをしたり、小山乃理子さんが来た街頭演説では、司会もさせていただきました。

 市長選挙では、いろんな考えの人があつまり、一致点でやることの大切さ、党の度量の広さを感じました。青年も創意工夫した宣伝などで、がんばりました。自分たちで誕生させた市長だと実感できたたたかいでした。

 青年への思い

 私は地区委員会で青年や民青のみなさんの相談にのる仕事もしています。私の子どももあと2年で大学を卒業です。「就職できない」「自活できない」というのが多くの青年の悩みです。

 01年に青年たちが街頭で労働相談会をやったとき、通りかかった三菱電機に働く青年が「サービス残業はあたりまえ」といっていました。その子たちは『労働時間の短縮』に要求シールを貼っていきました。就職できたとしても、長時間労働、サービス残業が現状です。

イメージ 20 政府は「青年の意識が低い」といいますが、とんでもありません。大企業が社会的責任を果たしていないんです。きちんとものをいっているのは日本共産党だけです未来は青年のもの。若い人が希望をもてる社会にしなければと、痛切に感じています。
 
 
 
 
おしまい
 この「庄本えつこ物語」は、2003年に「しんぶん赤旗読者ニュース」に連載したものを、一部修正したものです。

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