綾の中

夢を見た。
相手の顔も名前もよくわからない。でも、その人はひどく懐かしい−。
「私たち、どんな人と結婚するのかしら」
「私、結婚なんてしないわ。男の人はよくわからないの」
「うふふ」
「−−ちゃんと遊んでいられればそれでいいの。ずっと」
−−は、がばっと由乃(ゆいの)を抱きしめた。
「由ちゃん。由ちゃんはばかね」
「いいの。私はそれでいいの。大体、
賢かったからって−−ちゃんと一緒にいられなかったらなんだって言うの?」
−−の腕の中で由乃はくすくす笑う。
「でも私も由ちゃんも、きっといつか好きな人と手をつなぐのよ」
かぼそく歌うような口調だった。
「そうじゃなきゃいけないの」
楽しそうな。それでいてぞっとするほどさみしそうな声だった。それ以上由乃は何も言えなかった。
彼女の由乃を抱きしめる力はびっくりするほど強く、手は小さく震えていた。熱い、熱い手のひら。

朝起きると手にはまだその人の感触が残っているようだった。
 
 
ぎい、と音を立てて階段を降りようとする。二階に部屋は三つ。由乃の部屋の前が階段。部屋を出て右に小さい廊下。廊下を挟んで二つの部屋。その廊下のつきあたりの壁にはステンドグラスの羽目殺しの窓がある。窓から落ちる光を見て、親戚のお姉さんの結婚式を思い出した。廊下に赤いじゅうたんをしいたら小さいバージンロードになりそうだ。
 
鞄をさげて家の門を出るといつものように譲一がやってきた。
細く茶色がかった髪。ほんの少しくせっ毛で、光を通すと色合いが変わる。細面に白い肌がよく似合う。笑う
ときの優しい目もと。譲一は線の細い茶色がかった目の少年で、華奢ではないけれどすらりとした体躯と長く
形の整った指を持っている。

由乃は知っている。彼に夢中になっている女の子が何人もいること。ラブレターを渡してほしいと頼まれるこ
ともあった。
でも由乃にとって彼は幼なじみの譲一でしかなく、そこには性別も何もなかった。おしゃべり相手、遊び相手。た
まに勉強を教えてくれることもある一つ年上の思いつめやすい不器用な譲一。
同級生の女の子達の恋の話しも、彼女には遠い世界のおぼろげな出来事として言葉というより音楽のように聞こえるのだった。

この少女には恋よりもまだ一人遊びが性にあっていたようだった。
あざやかな色とりどりの草花。図書館で借りてきた膨大な量の物語。色鉛筆とスケッチブック。刻々と色形を変える空の雲。いくら眺めていても飽きることはなかった。
 
豊かに茂る青々したけやきの木の葉の下、広がる水田は緑のじゅうたんを背に二人は通学する。いつ取り決め
たわけでもないが家が近いので自然に一緒に通学するようになっていった。
学校に近づくにつれ登校する生徒の数も増えていく。にぎやかなおしゃべりと足音。

いつものように校門をくぐったところでじゃあと言って別れる。三年生の下駄箱だけ新校舎。一、ニ年生の下
駄箱は新校舎。東と西に別れていく。
何気ないいつものやりとり。去り際に小さく手をふる譲一。

風が彼女の髪を揺らした。校庭からこだまする声は空に吸い込まれていく。
一学期最後の日。
明日から夏休みだ。
 
 
 
夏休みが始まって少し経った頃、由乃が庭の草木にホースで水をやっていると、赤い自転車をこいだ中年の男性と少年が手紙を届けに来た。
夏休みのアルバイト恒例の光景だった。配達の道を覚えるとあとは一人で届けに来るようになる。
手紙を受け取りに行くと少年の硬そうな黒い短髪が目についた。
少年は由乃を見ると目を丸くして彼女を見つめた。何も言わずふいと視線を落としてしまう。なんだろう?
「ご苦労様です」
そう声をかけると少年は
「いえ」
と小さく答えて会釈した。
深い声だった。聞きなれない低音。−譲一の声は声変わりを経てもまだ柔らかく高い−。手が大きく、ごつごつした指は揃って節が太く、短く切りそろえられた清潔な爪すら大きく頑丈そうだ。何もかも自分とは違う異質な−。
彼女はそのとき、ふと聞いたことのない音を胸の中で聞いた。

そしてふとかすかに疑問を感じた。どこかで見た気がする。どこかで。
そうやって数秒少年の顔を凝視していると、彼はさっと頬を赤らめた。由乃はあわてる。これじゃあまるで変
な女だ。少年はまた軽く会釈するとさっと自転車にまたがって行ってしまった。
 
彼女はしばらく郵便物を持ってその場で考え込んでいた。そこへ、ふらりと譲一がやってきた。
思いもかけない訪問に由乃はふいをつかれた気がして小さな声をあげてしまう。それはちょっとした悲鳴のよ
うな声になってしまったが、彼には気づかれずにすんだようだ。
 悲鳴?それについて深く考える時間はなかった。譲一は小さく笑って
「やあ」
などと言う。
「どうしたの」
幼なじみとは言え年頃になってからはいつも事前に連絡して来るのだ。
「ちょっと話しがあって」
彼は目を細めた。笑うと目がなくなる。その顔が好きだった。彼はしかし笑顔をふいにしまいこんだ。
「少しそこらへんを歩かない?」
その時急に強い風が吹き抜けた。
それは、さんさんと太陽の光がふりそそぐ季節にに似合わない固く重い風だった。
 
 
 
バスを二つ乗り継いで、さらに歩いて行くとその病院はある。なだらかな山の途中の斜面にあり、木々に囲まれていながら田園や家々を望む。
昔々彼女もそこに入院していたことがあった。
大きい窓に洗いたての白い清潔なカーテンが揺れている。四人部屋の窓際でベッドの上に起きあがり、熱心に本を読む少女がいる。彼女は両肩にみつあみをたらしている。
呼吸に沿ってみつあみもほんの少し上下している。
側に寄ると彼女から体温計を受け取って何かを書きこんだ看護士はするりと出て行った。
他には誰もいない。

沈黙。ぱらりと頁をめくりながらふいに本から顔をあげ、少女はちらりと視線をこちらに向ける。
「なにかあった?」
そんなことを聞く。
「きれいなみつあみ」
 由乃はそれに答えずにそう言った。
一葉(かずは)はちょっと赤くなった。自分のみつあみをだまっていじっている。
「ねえ」
「うん?」
「おだんご、できる?」
「できるわよ」
「やって」
 一葉はごそごそとヘアブラシやヘアごムが入ったバックを取り出す。
「きれいね」
 バッグはピンクのビーズでできている。
「そっかな」
 一葉は照れを押し隠すようにわざとふてくされた顔をする
「前に来て」
一葉はベッドから降りると冷えないようにストールをぼうっとかぶって、客用の丸椅子にちょこんと腰掛けた。
「一つ?二つ?」
 由乃はみつあみをほどき、ブラシをあてながら聞く。
「二つ」
「鏡を持ってちょうだい」
 わたすと、真剣な表情をして鏡を見つめる。
 ヘアピンを口にくわえ、くるくるとおだんごを作っていく手。その手を鏡ごしにずっと見つめている。
「お母さんみたい」
 母の手の感触を思い出すかのように微笑みながら目を閉じる。 由乃は手を動かし続けた。
「かわいくなった」
「ふふ」
 一葉は鏡を見てわらう。
「合格?」
「まあまあ」
「きびしいわね」
「まあね」
口ではそう言っているけれど、視線は鏡から離さない。気に入った証だ。しかしふいに鏡の中の一葉の目がくもる。
「なにかあった?」
彼女はもう一度繰り返した。
「……うん」
彼女は観念したように、ことのあらましを話した。大体そのことを話しに来たのに。ぐずぐずして決心するま
でずいぶん時間をかけてしまった。それで小さな友達を待たせてしまった。彼女は一人で待つのが大嫌いなの
に。
 
 
譲一は言った。川べりの土手をゆっくり歩きながら。遠くの水田の緑のじゅうたんが広がる場所で。
なんの前置きもなく、ストレートに。
「今度、僕の好きな人に会ってほしいんだ」
と。
えっ?と言って体をねじって譲一を見上げると譲一の強い視線を浴びた。
いつもの彼とは違う様子に小さく怯える。
どきん、と嫌な動悸がした。不安が足元の地面から湧き上がってきて全身をつつんでしまう。いやだいやだ
いやだ。なにが?わからない。何も聞きたくない。でも、由乃の口は自然に相槌を打っていた。
「好きな人いたんだね」
どんな人?と聞くと譲一は首を横にふった。
「会えばわかるよ」
そうして気がつくと一人で家の前にいたのだけれど、どうやって帰ってきたのかどうしても思い出せないのだ
った。
 
「それで昨日また電話でちゃんと話して、会いに行く約束をしたの」
一葉はその話しを聞くとこくりと小さく頷いた。
「それで?」
促されるまで黙っていたことに気づく。唇をかんで、息を吐いた。
「どうしたらいいかわからないの」
「そう」
一葉は小さく笑った。
呆れたような、困ったような。
「譲一君のことが好きだから?」
「譲君のことは好きよ。でもそういう好きじゃない」
「うん」
「そうよ」
「約束はいつ?」
「次の日曜日」
「そう」
「夜眠れないの」
「うん」
「なんにも手につかない」
「うん」
「こわいの」
「やっぱり彼が好きだからじゃない?」
「そうじゃないの」
「じゃあ、どうして?」
「わかんない」
うなだれる由乃に一葉はやれやれという顔をする。
「……わからないの。ただすごくこわくて……」
「もう会う約束までしてるのに」
一葉は苦笑している。
時間が優しくゆったりと流れているのがわかった。
もしも時間が色ならきっと深い緑色だった。一葉の側はいつもそんな風に時間が流れる。何百年も立っている
木の下にいるみたいな。
「どっちにしても後悔しないように選んでね」
由乃は小さく頷いた。それ以上彼女は何も言わなかった。
二人の柔らかい沈黙の後ろからほんのりの人の気配がにじみだした。その気配の温かさ。それに気付いて振り
返ると由乃は目を丸くしてしまう。
一葉はうれしくてたまらないといった悲鳴をあげた。
「お兄ちゃん!」
そこにいたのは先日郵便配達に来た少年だった。
少年はその日洗いざらした紺のTシャツとあっさりしたジーンズをはいて、もう片方の手で抱え込むように大
きな紙袋を抱えていた。
一瞬顔をぽかんとさせて何かを思い出そうとしている表情がおかしくて、由乃はふわふわと甘やかなものが胸
の奥底に沸くのを感じた。
少年は思い出したらしくはっとしたような顔をする。
軽く由乃に向かって会釈すると一葉に向かって袋を差し出した。
一葉の目が輝く。袋の中身は白くて大きなうさぎのぬいぐるみだった。首に紺地に白の水玉のスカーフを結ん
でいる。
「ありがとう。お兄ちゃん」
一葉はぎゅうっとうさぎを抱きしめるとそのままほおずりした。
彼は初めてほどけるような笑顔を見せて軽く頷く。
そのまま鈴が鳴るように兄に日頃のことを報告し出す。うん、うん、と一つずつ頷いて聞く彼。
そのやりとりの親密さに圧倒されて、ただただ側に立って二人を見つめていた。そうしてすっかり話し終える
と、はっとした一葉がバツの悪そうな笑顔を見せる。由乃の前では大人びた態度でも−。
「ばれちゃった」
ぺろりと舌を出す。
由乃はつられて笑い出した。
「そういうのも、好き」
そう言ってなんとなく一葉の頭に手を置いた。
一葉はほほを赤くてしてくすくす笑っている。

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