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日本人として広く知ってほしい歴史真実があります。 北海道の北東にあるカムチャッカ半島はロシア領です。 しかし、その下の占守島(しゅむしゅとう)から根室までの千島列島は日本の領土です。 現在も北海道根室支庁占守郡とされています。 北海道をソ連の侵略から護った日本兵たち。 国のために、国を護るために戦った兵士たち。 日本の大勝利、ソ連屈辱の戦い。これが占守島の戦いです。 ・・・・・・ [[attached(1,center)]] 池田末男連隊長。 陸軍士官学校を卒業し、騎兵将校として満州方面で軍務に励み、その間に兵科も騎兵から砲兵に転換します。 そして池田は「戦車隊の神様」と呼ばれる存在となり、さらには陸軍戦車学校校長に就任します。 その後、第11連隊長となります。この11連隊は別名「士魂部隊」と呼ばれる精鋭部隊でした。 ついには士魂部隊は寒さ厳しい占守島に転進を命じられます。 [[attached(2,center)]] 占守島に配備されていたのは約8千名。 その指揮下に入った池田連隊長の戦車第11連隊は独立戦車第2中隊を加え、戦車64両を保有していました。 池田は剛毅果断で明朗闊達だが、一方では部下思いで人間味に満ちた温和な性格で信望を集めていました。 池田は身を切るほどの寒さの占守島で洗濯は自分でしていました。 部下は連隊長に洗濯をさせて申し訳なさそうにしていると 「お前は俺に仕えているのか。国に仕えているのだろう」と言って部下には洗濯をさせませんでした。 ・・・・・・ 1945年8月15日、終戦。 占守島は電波状況が悪いため玉音放送はほとんど聞こえませんでしたが 16日に大本営から 「一切の戦闘行動を停止す。ただしやむを得ない自衛行動を妨げず。 その完全徹底の時期を18日16時とする」 という命令が届き戦闘行動の中止が指示されました。 占守島の守備隊は武装解除と復員の準備をしはじめます。 士魂部隊も終戦処理に入り、 戦車砲の取り外しや弾薬の信管取り外しなどの武装解除に備えていました。 ところがいきなりソ連軍が侵攻してきました。 ここでなぜソ連が終戦したにもかかわらず攻め込んできたのかです。 これはスターリンが北海道の北部半分を占領するためです。 ヤルタで行われたルーズベルト、チャーチル、スターリンの三者会談において、 ソ連には対日参戦の見返りとして満州、朝鮮38度線以北、樺太、千島の占領行政を 行うというヤルタ秘密協定がありました。 しかしソ連はカイロ宣言に違反するこの日本領土の千島列島占領を 米英が本当にソ連に引き渡すかは疑っていました。 そのためソ連は占守島を落として一気に千島列島を南下し、 北海道の半分を占領統治させるよう米英に要求しますが、 ルーズベルトの死後、トルーマンに北海道北部の占領を反対されたため、 日本の終戦後に千島侵攻作戦を発令し、大軍を送り込んできたのです。 [[attached(3,center)]] 「占守島は一日で占領する」と豪語するソ連。 ・・・・・・ 「敵輸送船団らしきものを発見」 「敵上陸用舟艇を発見」 「敵上陸、兵力数千人」 占守島日本軍には相次いで急報が入ってきました。 18日には占守島北端に多数の上陸用舟艇を接近させ数千の兵力が上陸してきました。 占守島の竹田浜に展開していた部隊は第3中隊の2個小隊だけであり、 たちまち包囲攻撃され激戦となります。 しかし、ここには「戦車隊の神様」といわれた池田連隊長がいます。 「断固、反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」 池田連隊長は終戦を迎えて大切にしていた戦車を海に沈め、自分も自決するつもりでした。 しかし、その池田連隊長の顔に生気がみなぎり、 兵士は思わず 「連隊長殿おめでとうございます。やりましょう」と言ったそうです。 池田戦車連隊の主力は天神山の麓に集結。 池田連隊長は兵士に問いかけました。 「諸子はいま、赤穂浪士の如く恥を忍んで将来に仇を報ぜんとするか、 あるいは白虎隊のように玉砕もって日本民族の防波堤となり後世の歴史に問わんとするか。 赤穂浪士たらんものは一歩前に出よ、白虎隊たらんものは手を挙げよ」 その言葉が終わる間もなく嘆声とともに全員の手が挙がりました。 池田連隊長は師団、旅団の両司令部に打電します。 「連隊はこれより敵中に突撃せんとす。祖国の弥栄と平和を祈る」 池田連隊長は上半身裸で先頭に立ち、日の丸の手ぬぐいで鉢巻をし 「上陸軍を一人残らず海にたたき落とすまで奮闘せよ」 日章旗を振って突撃の合図をします。 ついに敵部隊の中心部に突っ込んで行きます。 この時の光景はまさに戦車隊の神様と言わしめたといいます。 運用教範の実演の如く見事な隊形だったと言います。 ちょうどこの時、北千島特有の濃霧が戦場一帯を包み込み、 池田戦車隊は視界ゼロの状態で目標を見失います。 炎上する車両が続出しましたが士魂部隊は戦い続けます。 そしてついに耐え切れなくなったソ連軍は多くの遺棄死体を残して竹田浜方面に撤退しました。 突破されかけていた戦線を押し返した士魂部隊の功績は大きいものでした。 しかし士魂部隊は戦車27両が撃破され、池田連隊長はじめ96名が戦死しました。 これにより内陸部への侵攻を阻止したのです。 ・・・・・・ その後、第五方面軍からの停戦と自衛戦闘への移行命令が届き、 ソ連軍に停戦の軍使を派遣します。 しかしソ連軍はこの軍使を射殺するという暴挙に出たため、 各地で小規模な戦闘があり停戦となったのは8月21日までかかりました。 現地の日ソ両軍間で停戦交渉が成立し、 8月21日午後、堤師団長とソ連軍司令官グネチコ少将が会同して 降伏文書の正式調印が行われました。 そしてソ連軍の監視の下で武装解除が行われました。 このとき守備隊将兵は悔しい思いで言いました。 「なぜ勝った方が、負けた連中に武装解除されるのか」 占守島戦全体における最終的な損害は日本側死傷者500名から700名、ソ連側約3000名。 まさに日本軍の圧勝というべき戦果でした。 この占守島における日本軍の奮戦によって、日本はソ連の北海道分割占領の危機を免れたのです。 [[attached(4,center)]] 終戦の時に、占守島には日魯(ニチロ)漁業の従業員の方が2500人ほどいました。 この人たちは国民の食糧確保のために悪い戦局を承知で缶詰工場で働いていましたが、 その中には約400人の若い女子工員もいました。 終戦で内地から迎えの船が来れば真っ先に彼女たちを送り返す手筈を整えているところへ ソ連軍の攻撃でした。 参謀長と世話役の大尉は 「このままでは必ずソ連軍に陵辱され被害者が出る。何としてもあの娘たちを北海道へ送り返そう」 と相談し、当時島にあった独航船二十数隻に約400人を分乗させ、 霧に覆われた港から北海道に向けて出港させました。 ソ連機の爆撃が続く中、日本軍も高射砲の一斉射撃で必死の援護を行い 無事に出港させることが出来たのです。 「全員、無事に北海道に着いた」との電報が島に届いたのは、それから5日後でした。 停戦後に上陸してきたソ連軍は女性を捜し回ったそうです。 もし彼女たちがいち早く島を出ることが出来なかったことを想像すると、 占守島の第九一師団の心遣いに感謝したい。 終戦を迎えた後のソ連の卑劣な進行を防ぎ、多くの婦女子を守り通し、 勇敢に戦って亡くなった英霊に敬意を表します。 ・・・・・・
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私の母は当時札幌におり、
官吏をしておりました祖父から、
「ソ連軍が北海道へ上陸することがあった場合、
父の命はない、お前たちも覚悟しておくように。」と言われたそうです。
私たちの命の恩人です。
詳しくは「8月17日、ソ連軍上陸す」大野芳著(新潮社)
2009/10/25(日) 午前 9:25 [ こころが立派になればいい ]
ソ連は僕は好きではないです。
今でも漁船を拿捕したり厄介な国だと思います。
北方領土を早く返してほしいです。
2009/10/25(日) 午前 11:26
転載頂き感謝申し上げます。
☆
2009/10/25(日) 午後 0:23
つばさ 様
いつもコメントとご支援感謝申し上げます。
1830年代フランス人のトクヴィルが著した
「アメリカのデモクラシー」には、
アメリカとロシアの権力の拡張拡大によって
いずれ世界を二分するであろうと書いてありました。
遅く生まれ、遊牧騎馬民族に翻弄され続けたロシア人には
恐怖感を拭い去るための拡張意識が根底にあるのではないでしょうか。
2009/10/25(日) 午後 5:09 [ こころが立派になればいい ]
さくらの花びら 様
こちらこそ有難うございました。
今後もよろしくお願いいたします。
2009/10/25(日) 午後 5:11 [ こころが立派になればいい ]
日本人が忘れてはいけない島がある・・・
映画「硫黄島からの手紙」のキャッチコピーです。
ですが、本当に忘れてはいけないのは8月15日を越えて攻め込んだチンピラに対して軍務を解かれたはずなのに命を掛けた戦闘を行った人々
つまり、91師団以下の将兵でしょう。
とりわけ士魂部隊の死闘なくしてソ連の野望を阻止することは適わなかったでしょう。
日本は北海道を守った将兵を無きものにして8・15を迎えようとしております。私は、それが残念でなりません。
2012/5/16(水) 午前 3:31 [ 岸壁でASW ]
私は池田末男大佐のこと、そして戦車第11連隊のこと知りませんでした。ただただ彼らの勇戦敢闘に感謝あるのみです。黙祷。
2013/4/6(土) 午後 10:23 [ 菅原 洋 ]
今日は池田連隊長殿のご命日です。謹んでご冥福をお祈りいたします。
私事になりますが、よく若いころ北海道に旅行に行って(通って)いたので、もし池田連隊長殿と部下の皆様が占冠島でソ連を食い止めてくれなければ、わたくしが北海道の大自然に触れることはなかったでしょう。
北海道に住んでる方々は、もっと池田連隊長のことを知っていただきたいと心から思います。
2016/8/18(木) 午後 10:12 [ YKM ]