「論語」では、君子、小人の二通りの使い分けがあります。君子とは、知識も持ち道徳律をわきまえた教養人のことで、君主やリーダーではありません。
そして、小人とは、知識は有するものの、道徳律に意識が働かないか、無関心な人のことです。道徳律とは、成文法の下にある土台です。従って、小人は、成文法の遵守とは無関係に、政治家や官吏として不適格であることを意味します。
ゆえに、政治的、社会的な自由に、道徳律の自由は含まれません。何故なら、道徳律の自由化は、例えばロリコンは、Aさんにとっては“良くない”ものでも、Bさんはそうは思わないといった結果になります。
では、その道徳律とは、一体どこから生まれるものでしょうか? その近代の概念を生み出したのは、17世紀のイギリスで名誉革命を支えた、ジョン・ロックによる「政府二論(市民政府論)/Two Treatises of Government」の概念です。
それは、王権神授説を否定し、その上“自然法”を確立しました。その自然法とは、「創造主によって等しく生まれた人類は、自由、平等の権利を持ち、幸福の追求を許され、何人にも犯せない権利」というものです。
従って、個人が、自分勝手に作り出すものではありません。そして、それは命と、その尊厳を守るため普遍的価値を持つものです。ゆえに、人類の意識の進歩(文明の進歩)には、欠かせないツールです。逆に道徳律の崩壊した文明が衰退しているは、歴史上明らかです。
第一三章 知性(計測レベル400) (6)
Transcending the levels of consciousness, David R. Hawkins, 2006,
Chapter 13 Reason (Calibration Level 400)
(P.229)
知性における自我の力学 (3)
低い意識を伴う知能は、発達せず、教養に欠け未熟で、子どものような特徴があります。その最も原始的状態では、知能で処理する過程において、感情の情況(こころの内面の状況)に従い、欲望と欲求を個人的なものとします。従って、低い意識は、より楽観的で、証明可能な言明に示すと意図され、それに関する高い妥当性と、証明の適正な水準を求められる高い知能の精神構造とは、同じ段階にはありません。その主観的状態と、その情況に応じた意見の情報に従属します。従って、低い知能は、欲求に支配されます。そして高い知能は、道徳と、責任に付随する必要なものと共に、真実の規範に対する固守を、責務として求められているために、おのずと磨かれ鍛錬されます。真実と称して、嘘を示すことは、子ども時代には、許されましたが、大人においては、人生にとって大きな試練(訳者注:よくないカルマ/因果応報)となるでしょう。「ポスト・モダン」の哲学(マーカス、コムスキー及び、そのほかに続く、Truthvs. Falsehood, page 209,)は、135から185の間で計測されます。何故なら、その哲学は、嘘を、真実であり、正しいとその正当性を認める試みです。従って、知性の好ましくない点は、自己中心的で本質的意味を壊し、子どもじみていて、もの欲しそうな思考に焦点を当てた結果生まれた、真実の捻じ曲げを、受けやすいものです。(「ある言葉は、まさに私が、それを選ぶことを、意味するに等しいことです」と、キャロルの「鏡の国のアリス」を通じて、ハンプティ・ダンプティは言います)。
以下省略
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第一三章 受容(計測レベル400) (6)
Transcending the levels of consciousness,David R. Hawkins, 2006,
Chapter 13 Reason (Calibration Level 400) (6)
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脳の機能と生理機能
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