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原子雲の下の真実を描いた映画「ひろしま」3月3日(土)〜3月17日(土)まで、西武池袋線江古田駅のギャラリー古藤(ふるとう)(03・3948・5328)で上映。
予告編をご覧ください。
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歴史
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すべての人の顔が異なるように、地域や政治の歴史によって、まったく性格が異なり、さまざまな問題を抱える「地球号」です。
そのさまざまな矛盾点や差別を学び、克服することが人生の「学び」でもあります。多くの大陸国家のようなジェノサイトは、有史以来経験したことがない幸福な日本です。
「マザーカントリー」をタイと共に持たない、唯一、他民族の支配を経験したことがない長い歴史を持つ国です。だから外交が下手です。
日本という国の欠点もたくさんあります。 しかし長所もたくさんあります。
さて、9世紀に伊勢神宮では「真(まこと)の道」という言葉を最も神聖と定めました。それも凄いことです。そして、私の日本への畏敬の念は、「道」という考え方が有史以来あるということに尽きます。
華道/茶道/香道/武道など、人とはないかを模索し、善悪を知り、善をおこなう「道」を進むことで神に触れ、神を希求する「道」です。
神道の秘儀や秘伝が仏教と見事に融和したのは、当然の帰結でした。その事実を知った時の感激は計り知れないものがありました。
何回その感激により、涙を流した事か。
そういった日本の「道」の心を忘れ、物欲に走る今日の日本を悲しく感じています。 しかし、
その「道」に秘められた“こころ”を復活させることができれば、日本は2つ異なる宗教を見事に融合させ、世界最高峰のリーダー論「貞観政要」よって支えられている天皇制(最高神官/共和制ローマの最高神官に近似)に束ねられる国のあり方こそ、全人類の融合と安寧をもたらすことでしょう。
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今回の小論文「本当は狡猾で卑劣だった占領支配」で福地惇先生の小論文シリーズが最後となります。
この論文は歴史学者としての福地先生の何ものにも歪められない真実の歴史を知るからこそ書ける論文であると確信できるものです。
現在の日本と戦後日本の占領政策をえぐり出し、憲法にまで言及した、現在の日本人に贈るメッセージとも言えましょう。
まずはこの歴史事実を直視して、国民全体が真実を知ること、
そして、「真の日本」の姿を取り戻すために日本人自身が考えていかねばならないことです。
日本国民よ、この事実を直視せよ!
本当は狡猾で卑劣だった占領支配 (上)
高知大学名誉教授 福地 惇
Ⅰ.敵製「神話」を信じさせられて敗戦後65年間をウカウカ過ごす日本人
平成日本人は無明世界に漂って、暗黒の海底に藻屑となって沈澱する運命におかれているかのようである。
あの大東亜戦争は、何のための戦争だったのか。
現在の政府公認の国家観や歴史観は、旧敵国連合国から与えられたものであって、マトモな日本人のものではない。だが、無残にも歴史学をはじめとする学会や有力言論界が政府公認の見解を支えている。
戦勝国側は「天皇制軍国主義国家観」と「太平洋戦争史観」を強力に提示した。
凶暴なシナ大陸・太平洋方面侵略の戦争は、国際法に違反した戦争犯罪だと一方的に断罪した。「平和を愛する」と自称する敵国の正義によって敗戦国日本は強引に裁かれて、悪の烙印を押されたのだ。日本国民は、正義の連合国に解放されたのだと訓諭された。
悪の戦争指導者を恨み、悪の土台である古い日本の歴史・文化・慣習を振り棄てて、世界標準の平和と民主主義を愛する新しい国民になるのだよ、と有難迷惑にも教え諭されたのだった。
次稿で説明するが、これは、米・ソ合作の現代「神話」で、歴史事実には合致しない代物である。だが、占領軍の正義を真の正義と理解した少数だが影響力のあるお先棒担ぎが政界、官界、学界、言論界や教育機構の労働組合にいて、占領政策推進の援軍役を演じた。
敵製「神話」は明らかに日本民族を真に滅亡させる悪魔の企みだというのに、65年かけて日本民族の脳髄にジワジワと注入され続け、今や国民の常識になってしまったのである。
Ⅱ.連合国軍の日本占領目的は何だったか
現代の侵略者が、征服地を完全支配するには、「教育機関」と「報道機関」を活用するに如くはない。両機関を駆使して洗脳プロパガンダを実行するのである。
連合国軍総司令部(GHQ)の占領支配は、過酷な熱戦が展開された3年8カ月の何と2倍弱の6年8カ月だった。これは、講和条約締結までは戦争の継続期間だから、圧倒的に優勢な占領軍の支配に、敗戦国は実に不利な立場で服従せざるを得なかったからだ。
ポツダム宣言を受諾して陸海両軍を完全解体されたから、その不利さ加減は甚大だった。それを読み込み済みで、米国大統領トルーマンのワシントン政府は、連合国軍最高司令官に強大な専制君主以上の独裁権力を授与し、昭和20年9月6日、『降伏後ニオケル米国ノ初期ノ対日方針』を承認し、東京に示達した。占領目的は、「日本国ガ再ビ米国ノ脅威トナリ又ハ世界ノ平和及安全ノ脅威トナラザルコトヲ確実ニスルコト」だと特記されている。日本民族の精神(ソフト)と国家・社会体制(ハード)の大々的改造という占領目的を完遂せよと指令したのである。
Ⅲ.日本精神解体工作と敗戦国改造政策の初期発動状況
敗戦国弱体化政策の発動過程を概観する。
明確な占領目的を目指して9月中に次々と対策が講じられた。
9日、マッカーサーは、日本管理方式を「間接統治」とし、占領目的を「自由主義助長」に置くと声明を発して、日本精神の解体と国家・社会諸制度改造の作業に着手した。
このこと自体は、ハーグ陸戦法規という国際法に明らかに違反するが、圧倒的勝利の戦勝国は、それを無視した。手足をもがれた敗戦国政府も無言で過ごした。
10日、GHQ(総司令部)は、第一着手として文部省の改造と監督を始動した。
11日、東条英機ら39名の戦犯容疑者に逮捕指令、内28名を「A級戦犯」として起訴。
19日、新聞報道取締方針(プレスコード)指令。
21日、新聞条例発令。
22日、「降伏後ニオケル米国ノ初期ノ対日政策」全文公表。
同日、ラジオコード指令、民間情報教育局設置。
23日、日本改造の具体方針を盛った「SWNCC150-4」を米国国務省が公表。
24日、マッカーサーは「報道の政府からの分離」を指令。
27日、昭和天皇がマッカーサー訪問。
同日、「新聞と言論の自由に関する新措置」を発令。表現の綺麗さとは裏腹に、マッカーサー=GHQが日本の新聞(言論)を一括管理する方針の発令である。要するに、9月中に洗脳プロパガンダを展開する手段として教育と報道の諸機関はGHQの一括強力統制化にほぼ完全掌握されたのだ。
10月1日、内閣情報機能停止命令。
2日、GHQに民政局設置。
こうして丸1カ月かけて日本民族洗脳支配政策の土台は構築完成された。つまり、占領軍超優位の思想戦の戦闘隊形の構築は成ったのである。まさにこの日、連合国最高司令官(SCAP)は、一般命令第4号=「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(戦争贖罪周知徹底計画)」を発令した。
日本精神壊滅作戦は指導して、敵国に優位、我が方に不利な情報操作、つまり、洗脳プロパガンダ(検閲・焚書・発禁を含む)が、計画的に推進されたが、大多数の日本人はそのことを知る由もなかった。
皇室制度は、日本民族の歴史の主軸、精神文化の柱である。日本人から教育と言論(報道)の自由を剥奪しておいて、次は、本当は解体し対「皇室制度」を、費用対効果の計算で次善策として、その形骸化にGHQは取り組んだのである。
10月4日、GHQは、政治的・民事的・宗教的自由に対する制限撤廃の覚書(天皇に関する自由討議、政治犯釈放、思想警察全廃、内務大臣と特高警察全員の罷免、統制放棄廃止等)を発した。この覚書は、人権指令または民主化指令と呼ばれる。「天皇に関する自由討議」と「政治犯釈放」は連動している。
戦前の政治犯は日本共産党員及び共産党シンパや極端な左翼リベラルなど、「皇室制度」や祖国の歴史と文化を呪詛し嫌悪する反日思想の持ち主が大半だ。彼らに「天皇制反対」、「天皇制解体」運動を連動させて、「皇室制度」と日本文化解体に活用しようとの魂胆だったのだろう。
5日、東久邇内閣はこれを拒絶し、総辞職した。
11日、マッカーサーは、首相就任挨拶に来訪した幣原喜重郎に憲法の自由主義化および人権確保の五大改革(婦人解放・労働組合結成奨励・学校教育民主化・秘密審問司法制度撤廃・経済機構民主化)を口頭で命令した。
皇室制度の形骸化、自由主義・民主主義・人権重視に基づく「新しい日本を建設」せよ、「旧い日本を解体」せよとの指令である。
ここで、新日本の憲法・教育基本法等の基本性格が示唆されたと言えよう。
Ⅳ.日本人の目を万着した「間接統治」
公認の歴史教科書や通俗の歴史物語では、幣原首相に対する命令は、「要求」と記される。だがこれは、GHQの狡猾な詭計(トリック)である。占領軍最高司令官は、至高の独裁権力を付与され、日本の施政権を全部掌握している。陸海両軍は見事に解体されたが、政府・官僚機構及び議会はほぼ無傷のままに生き残っている。従って、利敵者を主として、従順な日本人を利用した占領軍の「間接統治」で、占領目的は容易に推進されたのである。
拒否できない命令を「要求」と表現する魂胆は、日本人の手によって「平和と民主主義」を目指す戦後諸改革が自発的に推進されたかのように世を誑(たぶら)かすためである。
日本精神解体の「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」は、7年弱の日占領時代にさまざまな「要求」に従う内閣や国会、官僚機構、大学機構や言論機関に属した「優秀な」日本人によって大方推進されていったのである。この人たちは敵製「神話」を納得してしまったのだろうか。
お悧巧な日本人たちは、善い日本人と言えるのかどうか…。
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学校で教えない歴史 11 日本を陥れたもの 序章2
1935年の7〜8月、モスクワで第七回コミンテルン会議が開催されました。
この会議は日本の命運を決めるものでした。
ここで日本とドイツを敵国とし、
敵国日本を崩壊させるために思い切った戦略戦術の転換をはかります。
(日本とドイツはこの翌年に日独防共協定を結びます)
まず、支那では中国共産党と蒋介石の国民党を提携させて、
抗日の人民戦線を確立し、支那全民衆を抗日戦線に動員することとしました。
これは翌年1936年12月に西安事件に表われてきます。
ソ連は蒋介石の唯一の息子・蒋経国を1925年から留学を口実に事実上人質にしており、
蒋介石は何度か帰してもらうよう交渉していましたが帰されず、
この西安事件を機に帰されたことは、何を意味するものかわかろうというものです。
また、日本の官憲が最も神経をとがらせていた非合法の反国家運動や
天皇制打倒の革命闘争は犠牲ばかりが多いので、
天皇制打倒はしばらく隠して表面には出さず、
合法的に日本の体制を内部から切り崩していくこと、
そして従来から日本で行っていた「戦争反対」運動を引っ込め、
逆に軍部を操って戦争に追い込み、軍閥政権を自己崩壊させるとしました。
ここでは日本の軍部の中でも陸軍は特異であるという位置づけでした。
当時、日本は世界五大強国の一つであり、
その国力の中心は軍部、特に陸軍であると認識されていました。
その陸軍の兵士の多くは貧農、小市民、勤労階級で構成されており、
将校の多数は中産階級以下の出身でありました。
従ってその傾向は反ブルジョア的である、としたのです。
この時期の軍人は、資本主義はもう駄目だ、国家改造しなければ救われない、
という考えとともに、特に若い軍人たちには1923年に北一輝が上海で書き上げた著書
「日本改造法案大綱」が広く受け入れられていました。
この青年将校の国家改造運動が軍部政治への源泉であります。
彼らの思想には二つの面がありました。
一つは天皇陛下の軍隊である立場で国体への全面的信仰による反共産主義と、
もう一つは貧農生活を守る立場から反資本主義です。
つまり、青年将校が共産主義に対抗したのは、
共産主義が資本主義を打倒して全世界を共産主義化にしようという目的があったからではなく、
共産主義が反国体であったために反対したのです。
この資本主義擁護の立場でないことが共産主義から利用されることになりました。
軍人には天皇制を戴いた社会主義国家の建設を理想とさせ、
その建設がなされたときに天皇制を破滅させればよいとしたのです。
さらに具体的手段として、日本の軍閥に政治の実権を与えること、
官僚を軍部に同調させ権力専制政治を強行させること、
さらには支那事変を長期化させるため蒋介石との和平を遮断する楔として
日本の傀儡政府を支那に作ることとしました。
この傀儡政府は国民党のナンバーツーであった汪兆銘の南京政府となるのです。
日本でこの傀儡つくりに奔走したのが軍務課長であった影佐禎昭でした。
この影佐の孫が現自民党総裁・谷垣禎一です。
この大会でコミンテルン日本代表として参加したのは野坂参三でした。
野坂は戦時中は支那で抗日に協力し、戦後は帰国して日本共産党議長となった人物です。
さて、この大会で敵国とした日本とドイツに対して、
ソ連をナチスと日本軍の両面作戦に立たされないようにソ連防衛のための諜報と
日本の力を弱めるために労農赤軍参謀本部第四局(GRU)のウリツキーからゾルゲに対して、
尾崎秀実を日本でソ連のスパイとして使うこと、
そして、日本のドイツ大使館にて諜報するよう指令を受けたのです。
尾崎秀実の手記によると、
この前年にアメリカ共産党の宮城与徳を通して奈良公園の指定場所でゾルゲと再会し、
日本での諜報活動を依頼され、快諾したと書いています。・・・
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学校で教えない歴史 10 日本を陥れたもの 序章
・・・
悪夢の十五年。
満州事変から敗戦まで、我々の日本はまるで熱病にでもつかれた如く、
軍国調一色に塗りつぶされてきた。
思えば、軍歌と、日の丸の旗と、万歳の声で埋めつくされた戦争狂騒曲の連鎖であったが、
この熱病の根源は果たして何であったろうか。
そしてまた戦争狂騒曲の作者は誰であっただろうか。
今日の一般常識は、軍部だ、軍閥だ、ということになっている。
しかしながら、この軍閥の演じた戦争劇は、果たして、
真実彼らの自作自演であっただろうか。
熱病の疾患部は、確かに軍部であったし、
戦争狂騒曲のタクトを振り「無謀な戦争劇」を実演したのも確かに軍部であったが、
その病原菌は何であったか、また作詞、作曲者は誰か、脚本を書いたのは誰か、
という問題になると、いまだ何人も権威ある結論を出していない。
これは極めて重大な問題だ。
尾崎・ゾルゲ事件、企画院事件の内容、昭和研究会の性格などが、
なぜ、今日まで世間に知られていなかったかという点である。
共産党関係の事件の如き、こと国体問題及至は皇室に関係ある事件は、
一般に及ぼす思想的影響を恐れて世間に公表しない建前になっていたのだ。
顧みて言えば、このため一般国民は、
自らの運命に重大な関係を有する重要問題の前に立ちながら、
目かくしをされて、問題の本質を知る機会すら与えられなかったのである。・・・・。
このように書いたのは三田村武夫氏でありました。
氏は昭和3年6月から7年1月まで内務省警保局に勤務し、
共産主義活動を精密に調査研究する事務に携わってきました。
昭和7年10月から10年6月まで拓務省管理局で朝鮮、満州、支那の
国際共産党の活動に関し表裏両面の調査研究に没頭し、
昭和11年2月に衆議院議員となり、
爾来10年間、戦時運動に身を投じて、共産主義運動の世界革命を注視し研究してきました。
氏の著書「戦争と共産主義」に岸信介氏がこのように書いています。
「読むほどに、私は、思わず、ウーンと唸ることしばしばであった。
支那事変を長期化させ、日支和平の芽をつぶし、
日本をして対ソ戦略から対米英仏蘭の南進戦略に転換させて、
遂に大東亜戦争を引き起こさせた張本人はソ連のスターリンが指導するコミンテルンであり、
日本国内で巧妙にこれを誘導したのが、共産主義者尾崎秀実であった、ということが
実に赤裸々に描写されているではないか。
近衛文麿、東條英機の両首相をはじめ、この私まで含めて、
支那事変から大東亜戦争を指導した我々は、言うなれば
スターリンと尾崎に踊らされた操り人形だったということになる。
私は東京裁判でA級戦犯として戦争責任を追及されたが、
今思うに、東京裁判の被告席に座るべき真の戦争犯罪人はスターリンでなければならない。
しかるに、このスターリンの部下が東京裁判の検事となり判事を務めたのだから、
まことに茶番というほかない。・・・」
この「戦争と共産主義」は昭和25年に発売されましたが、
当時は占領中でありGHQ民政局ではアメリカの共産主義者が主導権を握っており、
検閲官によってこの本は発売禁止になりました。
その後もこのような真実の本が消されて偏向した本ばかりがどんどん出回る日本。
この本やヴェノナ、尾崎やゾルゲの手記、その他の書籍を元に、
彼らのやってきた一端だけでも書いてみたいと思います。
・・・
1926年12月に第二次日本共産党が結成されました。
27年テーゼによって、
「ブルジョア政府を倒してプリレタリア共産党政権を樹立せよ」
と労農革命戦術を行います。
労働農民党、日本労働組合評議会、全日本無産青年同盟の三団体は
破壊と非合法の暴力革命闘争を行い、
資本主義崩壊と天皇制打倒の革命闘争を行います。・・・
当時の社会情勢は、 まさに経済恐慌であり、世界は不景気となり、
日本も年々不景気となっていきました。
米価は下がり、農家の負債がどんどん増え続け、
ついに農家は田畑を売り、首をつるもの、親子心中する者などが多くなっていきました。
また、都市でも倒産者が相次ぎ、失業者があふれ、
資本家は労働者の首切りや工場閉鎖を強行していきました。
これに対抗するため、労働者の組織的闘争が急激に増えはじめ、
「資本主義制度はもはや末期症状だ」
と言われはじめ、社会主義運動に拍車がかかっていきました。
1928年3月15日、
内務省は共産党関係を一斉検挙しました。
これにより530人が収容され、5000人以上が取り調べを受けました。
労働農民党、日本労働組合評議会、全日本無産青年同盟の三団体は
内務大臣より結社禁止処分を受けました。
この事件は当時の新聞で大々的に報じられ、
「天皇様の噂をしただけで不敬罪になる」
「天子様をじかに拝むと目がつぶれる」
と思っていた一般国民は、
天皇陛下を倒して共産党の天下にしようと企てていたものが日本に
何千人もいたことを知って驚き日本社会に一大衝撃を与えました。
これが、いわゆる三・一五事件であります。
この三・一五事件があった同じ年、
モスクワで「第六回コミンテルン会議」が開催されました。
その中で資本主義国家同士の戦争に反対するのではなく、奨励推進し、
しかもその国の政府の敗北を助成し、
ブルジョア政府とその軍隊を自己崩壊に導き、戦争を通じてプロレタリアート革命を遂行する。
「資本主義戦争を敗戦革命へ」の戦略コースを巧妙に実践せよという、
レーニンとコミンテルンの敗戦革命への戦略戦術論が日本の軍部と政府に巧妙に適用されました。
これはどういうことかというと、
コミンテルンの究極目標は全世界で共産主義革命を完成させることでした。
そのために資本主義の支柱である米・英・日・独の強大国を倒さねばならない。
倒すにはその国の共産勢力を強化して革命を起こし内部から崩壊させること、
外部から武力で叩きつぶすことでした。
しかし、これらの国では共産党の力が弱く革命は成功しない。
また外部武力で叩きつぶす力がコミンテルンにはなかった。
ならば資本主義国家同士二つの陣営に分かれて大戦争をやればどちらかが負け、
戦時中の消耗で経済も弱まり資本主義体制が弱体する。
このための第二次世界大戦が好ましい。
まずヨーロッパではドイツが邪魔でありました。
ドイツと英・仏を対立させ米国を戦争に引き込む。
ドイツとイギリスのどちらが負けても欧州の地図は一変し混乱するはずである。
また、極東で邪魔なのは日本と米・英をバックにした蒋介石である。
そこで日本と蒋介石を戦わせる。
すると背後にある米・英は必ず乗り出してくる。
そうすれば支那と南方植民地を舞台に戦いが起き、
日本が敗北する寸前に我がソ連が兵を進めてその止めを刺す。
日本と蒋介石が崩壊し後には中国共産党が残る。・・・
1928年の段階でこのような方針で謀略を立てていきました。
日本と支那を戦わせることは1918年のユダヤ人による日支闘争計画にもありました。
そして、実際に支那事変が起きたのは1937年、大東亜戦争は1941年です。
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