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不可能性を明らかにしてから可能性を浮き彫りにしていく、なぜこんな回りくどいことをするのかといえば、既存の言論の多くは可能性という夢のみに“うなされている”からである。
絶望なるものに対する忘却がノーテンキな様を導き出す、このことに対する反省ゆえに、である。
ただ、このやり方は、必ず負けることになっている。というのも、現況の文脈におけるいわゆる"有用性“が、これっぽっちもないからである。
おそらく、"無謀”な印象のみを与えるのだろうし、常識人であればそのように解釈するのは妥当なところだ。ただ、発言者である私としては、この状況をもちろん快く思っており、だからこそ、いろんな意味で継続可能なわけなのである・・・(笑)。
私たちは常に、いわば地続きでつながっていて、現状のように私たち一人ひとりが「私」を名乗り、そして、日常的に他者(主に他人)との距離が遠のいていると感じるとしても、この効果は単に精神の肥大化とこれから生み出された構築物とこれに依拠した行動様式がもたらしているのであって、私たちがその精神で生み出し引き継いでいくもの、例えば「市民社会」が、いつのまにかシステムにありがちな循環論法的に成立根拠を問えない代物として、あるいは、ある意味与件として、生に言及する際これがその地位の特権として言及対象として常に排除される存在にまでなってしまったにせよ、やはり、個として、そして類としての二面性は対立することなく私たちに普遍的に共有されているのであって、このように捉えられた"私たち“は、西欧的で理念的な「人間」概念とまったく異なる、といわざるを得ない。
これによって、異なる個が類としての同一性を保持しながら関係性を取り結び社会を構築していくとしても、そのために「市民社会」が最も”理にかなった方法“ではない、という認識が否応なく導き出される。また、これの存続に寄与する「人間中心主義」の私たちからの排除は原理的に不可能であるが、このいかがわしさを指摘し、効果を軽減させることは可能である・・・。
ようするに、一番面白くないのが、"私たち"が「人間」として一括りにして語られる、ということだろうね。「人間」とはかようなものである、この見解は面白くない地位にいつまでもいてくれればよいのだが、これが終いには、“「人間」はこのようにして生きなければならない”、こうして語られてしまうんだからね、こうした言論と結びついてしまうんだからね、市民社会チックに、極端な場合は。
これはちょっと、気をつけて回避したいよね。
・・・話は突然変わるが(笑)、あらゆる無意識的なものたちでさえ、最終的には言葉として表出されうるという思想にも、そういえば、何かいかがわしさを感じてしまうね。
ここでは、多くの場合、フィルター、あるいは、言葉の表出の際媒介者としての「emotion・情動」の役割がすっぽりと考察から抜け落ちている。心理学はよく分からないのであるが。
この”曲者”は自由意志などまったくお呼びでない因果関係、言い換えれば、もの秩序の側にある。
また、これが発現してしまうこと自体が、世界は私たちに対し常に先行している事実の一端を示している。
もの秩序の側にあるにも関わらず、「emotion」を自由自在に操れる人など存在しない、常に、ある特定の環境に遭遇するとき、ある特定の「emotion」としてその都度発現してしまうがゆえに、つまり、私たちがその発現を取り押さえることができない困難さを根拠として、無意識的なものとしてのみならずカオス的なもの、との位置づけがこれに対してなされるようであるが、この理解の困難さを回避するために、仮にemotionの言語化のみならず視覚化が要請され実際”形あるもの“として表現されたとしても、その面白さに本来先立つ一回性の経験は、形あるものとして表現された後に、これと対立するものとして立ち現れてしまう、すくなくとも、一回性の”面白さ“に着目する視線を有するものにとっては、そのように見えざるを得ない。
ちょっと突き離した言い方かもしれないが、emotionの類はまさに体感するその瞬間がいつでも「華」なんであって、どんな類のemotionが引き起こされたにせよこれへのその後の対処法は、それらとは“お友達にならない”選択がフラットな気分を持続させるには都合が良いのを思えば、むしろその体感の余韻を引きずることは避けたいのである。なぜなら再度無意識にそれらがバージョンアップされ格納されてしまう危険性があるからで、たとえそれらが喜びの色を湛えた類であったとしても、反復されない経験として経験することを、つまりは忘却を、多少の困難さはあるとしても意識に、その可能的な側面に呼びかけることを、私の場合常としている。
・・・効果はよくわからない(笑)。ただ、なぜそうしているのかといえば、私の傾向性、例えば“美”の効果は、「冷たい心」をあっさりと、いとも簡単に氷解させてしまうからだ。いつまでも我がもの顔で”心”の片隅に居座り続け、なかなかその場所から退こうとはしない。私たちの可能性を広げる他者との出会いが、これによって制限されてしまう危険に晒される。その瞬間が「華」である、つまり、一回性の”うまみ“を、その都度その都度味わい尽くせないはめになる。とにかく、引きずらないこと、このことを語るべき対象は意識しかないという頼りなさは、とりあえず無視している。
もう一つの対処法として、先に述べたとおり、それらを言葉として、あるいは視覚化されたイメージとして切り取ってしまい、学術用にあるいは観賞用の“もの”にしてしまえばよい、という発想がある。意図はどうであれ、むしろこちらのほうが一般的である。
考察対象を曖昧なものとして放っておくことができず、「胸騒ぎ」(笑)あるいは知的好奇心を口実に、わが手のひらの上に、わが行動範囲の範疇にまさに“形あるもの”として留めておきたい欲求・・・所有欲・・・がこれを行わせているようだ。
ありきたりな言い方であるが、これを実現させるためには、まず、ちょっと離れて、眺めてしまえばよい。そして、規則性のある”もの“として認識の視点を変え、そのパターンを考察し、法則を導き出し記述あるいは視覚化を行えばよい。また、よく言われるところの「観察者の主観性の排除」を常に意識し、そうすれば、「冷たい心」は維持されうる、のみならず、有用性あるものとして何らかの”価値“がうまれる、というわけだ。これはこれでそれなりの技術的な難しさがある。思い入れも、経験もそれなりに必要だろうし。
例えば、八つに分けられるユング心理学的タイプ論は、ユング先生自身が断っているように、いつでもどこでもタイプにぴったり当てはまる人などいないのだが、これまたユング先生が述べている通り、それらを単に羅針盤として活用すれば、すなわち、ちょっと離れて眺めるようにすれば「実用的」であるし、また、有用性の見地からこの見解に対して教条的理解に陥らずにすむ。
関連して、先の"美“あるいは恋愛感情に関して、これによる効果をこの心理学が言うところの「アニマ・アニムス」という集合的無意識の元型のなせる業として理解してしまえば、emotionに飲み込まれるのは避けられるかもしれない・・・この選択はあくまでも趣味の問題で、というのも、美や恋愛がもたらすあの甘美な効果に浸っていることも、別に「悪い」ことではないからで、むしろ、「冷たい心」と無縁な人は、そのように「ありつづける」ほうが、好ましいのだ(と思う)・・・、そういう意味での有用性である。
ただし、こうした対処法は、処世術にきわめて近い。むしろ、イコールと言ってしまってもよい。実際、「市民社会」的“生”の概観はこうした行為の類でほぼ埋め尽くされている。「市民社会」がもの秩序を土台として成立しているからだ。常に、輪切りが要請されるからだ。そして、このようなスタンスが確立されていなければ、いっぱしの”大人”として扱われない場はそこかしこにある。
だが、このような世界の輪切り行為が、言語的な「私」をさらに決定的にするのも自明なことで、深入りは避けたいところである(個人的には)。「市民社会」と心中したいと思っている人たちはそうすればよいのであるが。
ただ、言語的輪切りは、それを放棄してもよい地平への階段としての役割を担っている、と、(百歩譲って)捉え直せば、それに対する違和感もわずかだが軽減される。この目的論の文脈において、言語的輪切りの限界性を知る必要はあると思う。
先に例としてあげた八つのタイプも、なぜ八つなのか、あるいは、グレーゾーンはどう処理すればよいのか、そうしたものもすべて言語化できるのか、いや、ありとあらゆるものは、はたして言語化しうるのか。そして、言語化されたもの達の「真性」を主張して、いったい何をしたいのか。そのことによって、わが手によって生み出された“有用性”の中に生が埋没してしまうのではないか。残るのは、単に、有用性のみではないのか。
そして、決定的なことに、このやり方は、一回性の「華」の“うまみ”が、あたかも永遠に味わい続けられるかのような錯覚を引き起こすのである。”割り切り“が下手な人ほど、確実にその陥穽にハマる。
ただ、視点を変えて、いくら言語化を施しても曖昧さから逃れられないのであれば、開き直って、徹底的に言語化を施す、というやり方もある。これにはこれなりの”うまみ”があると、開き直るのである。
じつは、最初から心配は無用だったのだ。というのも、私主義者たちにとって、「市民社会」は天国だからである。私主義者はそういう意味では、このやり方で、彼らの生をまさに「生き抜いている」のだった!
「市民社会」は人類史上最強の「悪」だといっても、
すべての「人間」にとって「悪」であるわけではない。
・・・私主義者にとっては天国である!
ほら、ここにも、あそこにも、私主義者が!
私主義者たちの大行進が日常的に執り行われている。
彼らの歓喜の叫び声が、足踏みの音が、
昼夜を問わず鳴り響いている!
もう、耳たこだよ・・・笑
そりゃ、ストレスも感じるだろうよ、静かに世界を観たいと思っている人にしてみれば。
「もっと、“私”を主張しなさい!」って言われるのは。
・・・いらない「かも」知れないんだよ、「私」なんて。
そんな人もまだいるんだぜ、
「私」なんてなくてもいい、そういう人。
「私」がしゃしゃり出てくると、気がめいってしまう、
そう思っている人。
静かに世界を観たいと思っている人間にとっては、
迷惑な話だろうよ。
「私」言葉の雨あられ、聞いてて疲れるんだよ、私主義者クン。
・・・いつまで言われ続けるのだろうか、
「私」にとっての幸福の最大化が、
「私」にとっての幸福の最大化が、
「私」にとっての幸福の最大化が・・・。
いつまでも言われ続けるんだよ、たぶん。
私主義者の天下が続く限り・・・。
“狂人”めいた独り言。だが、”狂人“を「人間」としてのボーダーラインに近づけようとする営み自体、知の枠組みの奴隷と言えないだろうか。断っておくが、「精神病患者」を、そして、医療に携わるものを誹謗中傷しているわけではない。実際私の身近にもそのような人はいるし、”大変さ“をわが身でもって体験した。
言いたいのは、むしろ、プラトンが、「神の信託を授かった者」として彼らを捉えたように、そのような心の余裕は異なるものを各々の心に同居させる、という意味において”有用“と言えるのではないか、そういうことである。この辺のところを常に付帯させて“行為”すれば、言語的な生に飲まれずにすむ、と、とりあえず言っておくことにする。
ただし、言語的な限界はアプリオリにあるわけではない。誰のためにも“はじめから”用意されているわけではない。こちらがそれに『ぶつかって』、はじめてその姿を現
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『華』を掬い取ってこそ…という私と対極なdiceさま??「草枕」の『非人情』でしょうか?それでも、「冷たい心をあっさりと氷解させてしまうdiceさまも見てみたいかも(^^)。無意識におけるemotionの役割難しいですね。emotionも後付け?ということなのでしょうか??☆
2007/3/16(金) 午後 11:24 [ - ]
自分の傾向性としては、人情に左右されやすい面はあるんじゃないかと思っています。でなければ、ありもしない「憤り」・義憤をわざわざ担ぎ上げてきて、この世的「よい」の地平で、価値判断の渦巻く"思想”について、その土俵で言及したりはしません。私なんか日常は情にほだされ、いつでもあっち行ったりこっち行ったりと、ボウフラみたいなもんですよ^^冷たい心は長続きしません・・・(T_T)。
2007/3/17(土) 午前 2:00
emotionについては、『私』という意識の"フィクション性”を明らかにするための重要なツールだと思ってます。そういう意味では「後付け」ですし、言語化をすべて「後付け」行為とみなせば、一回性の「華」という経験も「場」との”合致”が前提であることを考慮したとしても、その来る「反復」を予想できた時点で、意識の側にあるといってしまってよいわけで、また、先天的なもののみならず社会性を考慮して遭遇した他者との関係が原因と振り返ってみた時点で、
2007/3/17(土) 午前 2:01
言葉の真の意味における「後付け」がなされた、という風に言えるんじゃないかと思います。
2007/3/17(土) 午前 2:02
人情に左右されやすいと聞いてちょっと安心しました。日曜日は思いっきり心を氷解させてしまってください(^^)emotionのことだけど、昨晩「花より男子」の最終回見ていて思ったんですけど、自分の心がよくわかんなかった道明寺君が、つくしちゃんのこと助けるために、気がついたら雪の中駈け出していたんです。これこそ、emotionのなせるわざ?ですよね。そう考えると後付?よりもなによりも、魂ってそこのところなのかもしれませんね。(^^)
2007/3/17(土) 午後 2:43 [ - ]
「花より男子」ってドラマですか?いま、なにが流行ってるとか、ぜんぜん分からんw テレビ見ないんですよ、普段。道明寺くん、ってのがいるんですね?んで、つくしちゃん・・・笑。なんか、ドラマに見入ってる朧月夜さんのほうが、面白い感じしてしまうんですが、それはともかく、助けるために駆け出すという判断の初発にあるのかなぁ、という気はしますよね。仰るとおりだと思います^^
2007/3/18(日) 午前 4:14
判断までのプロセスもそうですが、ものすごく微分的な営みが絡んでいるんだろうなぁ、と思います。
2007/3/18(日) 午前 4:16