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市民社会 考

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【観念を高揚させる『クライシス』と革命的なものの不可能性について】



「私」が関わらざるを得ない他者としての「社会」、あるいはいわゆる「現状」に違和感を覚える者がいるのなら、彼がその違和感の“もと”に対し『説得力ある一石』を投じうるため何が必要なのか。



おそらく、それは、継承される市民社会における成功者と継続される彼らの依拠するシステム・・・面倒なので単に“ブルジョア”と表現するが人格化されたものだけを指すのではない・・・からの「おこぼれアイテム」の利用のみに終始するのではなく、例えば、多くの人々が縋りつく「平和」でさえ自明なるものとしての地位から説得力を持って引き摺り下ろすことのできる、一見「危険」とみなされる類と本質を共有している思想の構築が大前提である、と私には思われる。『一石を投じる』、すなわち方向性を変えうる、あるいは極端な話廃棄できるものは廃棄する、こうしたことについて真剣に考えるならば、そうとしか言いようがないのではないか。この理由について思いつくことを以下に述べていきたい。



権利を叫ぶのなら、大いにやればよい。それこそ、市民社会的自由である。ただし、多くの、私たちに与えられている権利なるものはしょせんブルジョワ用アイテムなのであり、これらの効力が最大限に発揮されるのは彼らの使用によってである。私たちが同じ土俵で同じアイテムを使用するのだとしても、ここは彼らが縦横無尽に動き回れる“彼らの”土俵である。つまりトータルでは彼らはいつまでも勝ち続けることができるのである。私たちが権利なるものを叫んでも、つまり彼らのアイテムを使用している限り、これにしがみついている限り、彼らの思惑が最後には花開くようになっているのだ。この景観は、いってしまえば「無知の修正」すなわち柔軟性を備えた多様な武器を持つ“関取衆”と、この土俵での立ち回り方がまったくわかっていない“序の口”とが相撲をとっているようなものなのだ。

・・・別の視点を提供するとすれば、私たち「市民」の生存に欠かせないありとあらゆる物質面は、彼らが牛耳っている、つまり、生存権なるものの大本は彼らの手の内にある。このことを考慮せず叫ばれる「精神」の肥大化した「私の主張」なるものの脆弱性についてはさんざん言及してきた。つまり、私たち「市民」による彼らのアイテムの使用は、彼らの「大いなる慈悲心」にある意味生かされ踊らされそしてこれに甘え縋りついているのと同じことである。自らの生きる糧すら直接思い通りにできず間接的な関係性を合理的と呼び満足する思想の支配下にあることにより明らかになる私たちの脆弱性、この有様を私たちは良くも悪くも「人間の普遍的な営み」と呼んでいるのである。

・・・あるいは民主主義とやらを見てみればよい。狡猾に、のらりくらりと、彼らは渡り歩いている。この民主主義は「私たちのものだ!」と本気で考えている人はいるのだろうか? この民主主義は「万人に与えられている」面(ズラ)してはいるが、そもそも、私たちの「代表」が「代表されるもの」である私たちから乖離していくのは、象徴的記号の持つ宿命ではなかったのか。



私たちは言うなれば、ブルジョワ(もちろん非人格を含む)におあつらえ向きな、彼らが縦横無尽に駆け回り時にはゆったり羽を広げ寛ぐことのできるシステム=“船”に同乗し、「人間中心主義」という帆を張り、彼らの思惑通り個々の強弱をはっきりさせることができる「私主義者」となって、結果的に彼らの“ため”にいっしょうけんめいこの船をこいでいる、ということになる。もちろん、「私」のこの“がんばり”は、彼らのステイタスを守る役目を果たすこととなる。

“がんばる”・・・おそらくいつの時代でも認識主体が己を「私」として認識しようがしまいがその個体は自己充足性を満足させるためにある程度は“がんばる”のはあたりまえだといえるだろう。ただ、そうだとしても、このことが私たちの時代において己の『生』を市民社会的「生」にどっぷりと浸からせるため、あるいは、定義づけされた「人間」になるために“がんばらなければならない”理由にはならない。
だいたい、市民社会的キーワードを使いこなすことに全人生を賭けるかどうかは、はっきり言って趣味の問題である。市民社会的「生」の文脈においてさえそう言える。だが、個別的な趣味にすぎないものが、あたかも普遍性あるもの面(ヅラ)して大手を振ってのさばっているのが現状なのである。このことを弁えず、例えばこの「普遍的なるもの」を尺度として勝ったの負けたのと囃し立てる言論は、市民社会的「生」を自明なものとしてこれにどっぷりと浸かっている証、すなわち市民社会の奴隷である証、つまり『たわごと』である。むしろ、本物のブルジョワチックな人間は、こんなたわごとを相手にはしない。格差社会においてすら「成功者」なる位置づけなんてものにはわき目も振らず、新たな価値を生み出す“差異探し”に多忙であるがゆえに。彼にとっての自明なるこの振る舞いの連続がまた、万人にとっての自明性であるという神話を強固に支えるのである。



だが、現状分析(?)がこのように言いうるとしても、「私主義者」の増殖に歯止めがかかる気配がまったくない以上、彼らの思惑通り今後も事は運ばれ続けるのは間違いないだろう。



「私主義者」の増殖・・・私たちが「私」として分断されていく状況は彼らにとって好都合であった。もともと、「私主義者」とは彼らのことであったし、このイデオロギーの共有こそが彼らのそもそもの狙いだったわけだから。そう、すべてが、良くも悪くも「私ががんばりさえすれば・・・」という自己責任論へと収斂させることができるのだから。がんばれなかった場合、退場、そして最悪のシナリオとして「自殺」が用意されている(もちろん復帰の可能性もあるが、「がんばれない」のであれば市民社会からの退場は自然である)。そして、ある種の「哲学」もこの事態に貢献してきた。世界解釈の始点はあくまでも「私」である、として。この解釈の武器としての「言葉」は、私主義者の必須アイテムであるのは言うまでもない。そして、認識の始点が「私」である以上、世界解釈の責任は「私」が有することとなる。もちろんこの責任の取り方には「自殺」も含まれている。いずれにせよ精神性が肥大化したこれら言説が巷に流行するということは、ますます私たちが拠って立つところの「世界」の本質の忘却を促すとしか思えない。

夢・・・私たちの夢ですら、彼らに食されるためにある。そもそも夢自体が、彼らの用意したアイテムからの選択にすぎないからだ。ケインズの思惑通り、私たちはブルーチーズを月だと勘違いさせられているのだ。



「観念」における『クライシス』、では、なぜ「観念」を言い出すのか。それは、私たちの多くは物質的に満足しているからである。物質面に一石を投じうる『クライシス』は存在しないと考えられるからである。あるとすれば、それは、ハイパーインフレーションだろうが、経済面に原因を持つ「負の事象」は実際の経済によって乗り越えることができる。もちん政策も無視できないが、幾多の修正によって垣間見ることのできる資本主義経済が持つ「地力」はこれの持つ脆弱性を明らかに上回っている。

「観念」における『クライシス』、これは、私たちが狩にでる動機・・・物質面すなわち空腹を満たすため・・・に相当する。では、私たちの肥大化傾向にある「精神」が鍵を握っているというのだろうか。だが、この“心”は、しょせん「市民社会的“心”」であるにすぎない。「脳が心である」といってしまう“心”である。だから、私は、超越性が一切関与しない『魂』について、可能性を感じている。

       ・・・ 市民社会考(*´д`*)  ・・・




◆マルクス主義の目指す“脱疎外”の最高形態はブルジョワジーである(フーコー)。

 
 ・・・近代市民社会(資本主義社会)とは、己自身の利益を目的とする私的人格が形成する経済社会である(ヘーゲル)。この社会では各人の自己充足性を満足させるため各々の依存関係・相互関係=普遍的で持続的な資産という必然性を有することとなるが、この普遍資産に参与しその配分にあずかる可能性=特殊資産は偶然性に制約されているため、富の蓄積に偏りが生じる、すなわち、「格差社会」を必然的に招来する。

 

 この問題に対するヘーゲルの解答・・・特殊性(個々人)と普遍性(相互依存関係)の分裂体である市民社会の、「人倫的理念の現実態」である「理性国家」への止揚。

 私は、ちょっと、(笑)。すなわち、「基本的な欲求」は“神話”であるがゆえに。

 
 

 ・・・マルクスは元来は客体に過ぎない商品が等価交換されることによって、抽象的人間労働の等価性が規定される、すなわち、商品がそれ自体で価値を有する主体であるかのように表れる事態=資本主義社会における商品の物神崇拝(フェティシズム)を明らかにしている。いわゆる客・主の転倒。資本主義社会としての市民社会はそれゆえ徹底的にフェティシズムの世界、人間と人間の関係が物と物との物的な関係になっている、と指摘する。

 

 このことが、はたして、「人類は愛せても、隣人は愛せない(ドストエフスキー)」、「隣人はストレッサーである(レヴィナス)」に対する解答の導きとなり得るかどうか。





◆ なぜ、フーコーは、“脱疎外”の最高形態がブルジョアジーだと言うのだろう。
 ここでは疎外論については触れないが、おそらく主体(資本家)-占有欲-客体(資本)という図式に、「労働者階級」の搾取構図が飲み込まれていく(むしろ、彼らが望んで積極的に)からだと考えられる。



 このことは労働運動のブルジョア化をみれば納得できる。「労働者」が株を買うこともそうだ。最近の“プレカリアート運動”も、言ってしまえば、“ブルジョアのおこぼれをもらおう運動”である。「もっと金をよこせ」と書かれたプラカードがそのことを如実に示している。だれも、生の充実などとは言わない。彼らの究極の目的は、ホリエモン信者達と同じように、結局は“ブルジョアジーもどき”なのだ。すくなくとも、既存の体制を肯定するイデオロギーを超えるような新たな「知」を創造し、自ら勝ち取ってやろうという気概など微塵もないといえる。私見だが、体制の「知」の枠組みの中で自らのブルジョア主義を洗い流さないで行われる反体制運動などはじめから運動のうちにも入らない、と考える。だが、大衆の集団化は当然“アリ”なので、それはそれで大いにやればよいとも思っている。その辺に価値判断は介入させないていない。言いたいのは、フーコーの視点は間違ってはいない、ということだ。

 


 話を元に戻して(笑)、フーコーは市民社会をどのように考えたのだろうか。稚拙ながら私見も交えて述べていきたい。


 ・・・歴史の対義語は「構造」である。歴史に目的を見出そうとするヘーゲル主義・実存主義ヒューマニズムは理論的には「構造」に敗北したはずだった。だが、今なお、人間社会は目的論的呪縛から逃れられないでいる。なぜなら、一つには、ヘーゲルが指摘した欺瞞を内包したまま今なお存続している市民社会のこれを可能たらしめた背景に、ヘーゲル主義・実存主義ヒューマニズムの根幹を支える役割を担ったのと同一の神話、すなわち 「主体神話」 が横たわっているからだ。この神話が目的論と不可分の関係にあるのは言うまでもないだろう。


 この主体神話が神話である所以、それは、異なる主体同士のあいだに結ばれる契約によって成立する市民社会的関係には(単に社会関係でも良いが)、成立根拠に主体の「実存」を据える以前に、その関係を可能たらしめるある眼に見えないアプリオリな前提が存在しているがためである。フーコーはそれを「知の枠組み(エピステーメー)」と呼んだ。




             つづく

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