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【反省】
私は「市民社会は他者性が欠如していく社会だ」と、安易にも述べてしまった。
むしろ、市民社会は、他者性に立脚した社会である。
契約すべき「他人」が必要である、というのもあるが、
そもそも言語こそが「他者」に他ならないからだ。
ゆえに、「超越性が欠如していく社会」と訂正させてもらう。
・・・ちっとも面白くないけどね^^。
実は、「他者」と言ってる限り、「私」が認識の始点であるのを認めてしまうのだ。
自-他として捉える限り、「私主義者」の正当性を補完する役割を果たすことになってしまう。
・・・反省します。。。
【苦言(っぽい)】
・・・世界は「私」の主観の世界である、ゆえに、「私」の死とともに世界は消滅する・・・
<私>に関する“高尚な”議論はこれが結論ではないのだが、
解釈する側の多くはここで終えてしまっている。
「真」なる思想としてこれを受け入れると、
たとえば、ある人は「生きている間に好きなことをしよう」、と考えるだろう。
こんな無邪気さに止まらず、
「世界の中心は俺だ」、と叫ぶかもしれない。
あるいは、「あなたは私の主観がなければ“存在”しない」、と解釈を広げるかもしれない。
どんな発言になるにせよ、
いわゆる、もともと「前向き」に「向上心」持って「自己実現」に励むタイプは、
この言葉にたいした意味を見出さないだろう。
それは、彼の血肉化された認識をなんら否定せず
これをほんの少しだけ「言語化」したものに過ぎないから。
もちろん、共鳴するのはいうまでもない。
彼はいわゆる「本物の私主義者」である。
・・・ただし、別に彼らを誉めているわけではない。
言わずもがな「生」における一形態に過ぎない。
むしろ問題なのは(見苦しい、という意味で)、
“まさに”この思想を受けて「プチ独我論」に陥っていくタイプ、といえるだろうか。
「他人のことは知ったことではない」と言い放ち、
あるいは、「私の死んだ後の事など関係ない」と言い放つタイプ。
また、たかだか言語的な「真理」とされたものによって、
自らの生における価値判断まで、モロにそれに影響を受けるタイプ。
常に言葉に縋り生きている、自らの生に自ら行動指針を与えられないタイプ。
(下らんことでいちいち「キズついたw」なんてわめくな、いい年こいて・・・なんてね^^)
言葉がある意味「鎖」になっている。
彼らは、一生この「鎖」につながれていないと、生きていけないのだろうか。
ゆえに、為政者は彼らにさまざまな「ガス抜き」を与える。
この世の春の永遠性を吹聴し「夢」を与え続ける。
・・ほんと言葉は“ウザい”。
頭に渦巻く「言葉」たち皆消え去ってほしい、とすら思う。
だが、忘却の中に「至高なるもの」を求めても無駄だろう、と思う。
・・・ゆえに、私は、言語的な構築物を解体し続けるしかないだろう、と思うのであります(^^)
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