Midnight◆Rambler

放置中につき大変ご迷惑・・・かけてませんねw

私主義者 考

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不可能性を明らかにしてから可能性を浮き彫りにしていく、なぜこんな回りくどいことをするのかといえば、既存の言論の多くは可能性という夢のみに“うなされている”からである。
絶望なるものに対する忘却がノーテンキな様を導き出す、このことに対する反省ゆえに、である。
ただ、このやり方は、必ず負けることになっている。というのも、現況の文脈におけるいわゆる"有用性“が、これっぽっちもないからである。
おそらく、"無謀”な印象のみを与えるのだろうし、常識人であればそのように解釈するのは妥当なところだ。ただ、発言者である私としては、この状況をもちろん快く思っており、だからこそ、いろんな意味で継続可能なわけなのである・・・(笑)。

私たちは常に、いわば地続きでつながっていて、現状のように私たち一人ひとりが「私」を名乗り、そして、日常的に他者(主に他人)との距離が遠のいていると感じるとしても、この効果は単に精神の肥大化とこれから生み出された構築物とこれに依拠した行動様式がもたらしているのであって、私たちがその精神で生み出し引き継いでいくもの、例えば「市民社会」が、いつのまにかシステムにありがちな循環論法的に成立根拠を問えない代物として、あるいは、ある意味与件として、生に言及する際これがその地位の特権として言及対象として常に排除される存在にまでなってしまったにせよ、やはり、個として、そして類としての二面性は対立することなく私たちに普遍的に共有されているのであって、このように捉えられた"私たち“は、西欧的で理念的な「人間」概念とまったく異なる、といわざるを得ない。
これによって、異なる個が類としての同一性を保持しながら関係性を取り結び社会を構築していくとしても、そのために「市民社会」が最も”理にかなった方法“ではない、という認識が否応なく導き出される。また、これの存続に寄与する「人間中心主義」の私たちからの排除は原理的に不可能であるが、このいかがわしさを指摘し、効果を軽減させることは可能である・・・。



ようするに、一番面白くないのが、"私たち"が「人間」として一括りにして語られる、ということだろうね。「人間」とはかようなものである、この見解は面白くない地位にいつまでもいてくれればよいのだが、これが終いには、“「人間」はこのようにして生きなければならない”、こうして語られてしまうんだからね、こうした言論と結びついてしまうんだからね、市民社会チックに、極端な場合は。
これはちょっと、気をつけて回避したいよね。



・・・話は突然変わるが(笑)、あらゆる無意識的なものたちでさえ、最終的には言葉として表出されうるという思想にも、そういえば、何かいかがわしさを感じてしまうね。
ここでは、多くの場合、フィルター、あるいは、言葉の表出の際媒介者としての「emotion・情動」の役割がすっぽりと考察から抜け落ちている。心理学はよく分からないのであるが。

この”曲者”は自由意志などまったくお呼びでない因果関係、言い換えれば、もの秩序の側にある。
また、これが発現してしまうこと自体が、世界は私たちに対し常に先行している事実の一端を示している。
もの秩序の側にあるにも関わらず、「emotion」を自由自在に操れる人など存在しない、常に、ある特定の環境に遭遇するとき、ある特定の「emotion」としてその都度発現してしまうがゆえに、つまり、私たちがその発現を取り押さえることができない困難さを根拠として、無意識的なものとしてのみならずカオス的なもの、との位置づけがこれに対してなされるようであるが、この理解の困難さを回避するために、仮にemotionの言語化のみならず視覚化が要請され実際”形あるもの“として表現されたとしても、その面白さに本来先立つ一回性の経験は、形あるものとして表現された後に、これと対立するものとして立ち現れてしまう、すくなくとも、一回性の”面白さ“に着目する視線を有するものにとっては、そのように見えざるを得ない。



ちょっと突き離した言い方かもしれないが、emotionの類はまさに体感するその瞬間がいつでも「華」なんであって、どんな類のemotionが引き起こされたにせよこれへのその後の対処法は、それらとは“お友達にならない”選択がフラットな気分を持続させるには都合が良いのを思えば、むしろその体感の余韻を引きずることは避けたいのである。なぜなら再度無意識にそれらがバージョンアップされ格納されてしまう危険性があるからで、たとえそれらが喜びの色を湛えた類であったとしても、反復されない経験として経験することを、つまりは忘却を、多少の困難さはあるとしても意識に、その可能的な側面に呼びかけることを、私の場合常としている。

・・・効果はよくわからない(笑)。ただ、なぜそうしているのかといえば、私の傾向性、例えば“美”の効果は、「冷たい心」をあっさりと、いとも簡単に氷解させてしまうからだ。いつまでも我がもの顔で”心”の片隅に居座り続け、なかなかその場所から退こうとはしない。私たちの可能性を広げる他者との出会いが、これによって制限されてしまう危険に晒される。その瞬間が「華」である、つまり、一回性の”うまみ“を、その都度その都度味わい尽くせないはめになる。とにかく、引きずらないこと、このことを語るべき対象は意識しかないという頼りなさは、とりあえず無視している。



もう一つの対処法として、先に述べたとおり、それらを言葉として、あるいは視覚化されたイメージとして切り取ってしまい、学術用にあるいは観賞用の“もの”にしてしまえばよい、という発想がある。意図はどうであれ、むしろこちらのほうが一般的である。
考察対象を曖昧なものとして放っておくことができず、「胸騒ぎ」(笑)あるいは知的好奇心を口実に、わが手のひらの上に、わが行動範囲の範疇にまさに“形あるもの”として留めておきたい欲求・・・所有欲・・・がこれを行わせているようだ。
ありきたりな言い方であるが、これを実現させるためには、まず、ちょっと離れて、眺めてしまえばよい。そして、規則性のある”もの“として認識の視点を変え、そのパターンを考察し、法則を導き出し記述あるいは視覚化を行えばよい。また、よく言われるところの「観察者の主観性の排除」を常に意識し、そうすれば、「冷たい心」は維持されうる、のみならず、有用性あるものとして何らかの”価値“がうまれる、というわけだ。これはこれでそれなりの技術的な難しさがある。思い入れも、経験もそれなりに必要だろうし。



例えば、八つに分けられるユング心理学的タイプ論は、ユング先生自身が断っているように、いつでもどこでもタイプにぴったり当てはまる人などいないのだが、これまたユング先生が述べている通り、それらを単に羅針盤として活用すれば、すなわち、ちょっと離れて眺めるようにすれば「実用的」であるし、また、有用性の見地からこの見解に対して教条的理解に陥らずにすむ。
関連して、先の"美“あるいは恋愛感情に関して、これによる効果をこの心理学が言うところの「アニマ・アニムス」という集合的無意識の元型のなせる業として理解してしまえば、emotionに飲み込まれるのは避けられるかもしれない・・・この選択はあくまでも趣味の問題で、というのも、美や恋愛がもたらすあの甘美な効果に浸っていることも、別に「悪い」ことではないからで、むしろ、「冷たい心」と無縁な人は、そのように「ありつづける」ほうが、好ましいのだ(と思う)・・・、そういう意味での有用性である。



ただし、こうした対処法は、処世術にきわめて近い。むしろ、イコールと言ってしまってもよい。実際、「市民社会」的“生”の概観はこうした行為の類でほぼ埋め尽くされている。「市民社会」がもの秩序を土台として成立しているからだ。常に、輪切りが要請されるからだ。そして、このようなスタンスが確立されていなければ、いっぱしの”大人”として扱われない場はそこかしこにある。
だが、このような世界の輪切り行為が、言語的な「私」をさらに決定的にするのも自明なことで、深入りは避けたいところである(個人的には)。「市民社会」と心中したいと思っている人たちはそうすればよいのであるが。
ただ、言語的輪切りは、それを放棄してもよい地平への階段としての役割を担っている、と、(百歩譲って)捉え直せば、それに対する違和感もわずかだが軽減される。この目的論の文脈において、言語的輪切りの限界性を知る必要はあると思う。
先に例としてあげた八つのタイプも、なぜ八つなのか、あるいは、グレーゾーンはどう処理すればよいのか、そうしたものもすべて言語化できるのか、いや、ありとあらゆるものは、はたして言語化しうるのか。そして、言語化されたもの達の「真性」を主張して、いったい何をしたいのか。そのことによって、わが手によって生み出された“有用性”の中に生が埋没してしまうのではないか。残るのは、単に、有用性のみではないのか。
そして、決定的なことに、このやり方は、一回性の「華」の“うまみ”が、あたかも永遠に味わい続けられるかのような錯覚を引き起こすのである。”割り切り“が下手な人ほど、確実にその陥穽にハマる。
ただ、視点を変えて、いくら言語化を施しても曖昧さから逃れられないのであれば、開き直って、徹底的に言語化を施す、というやり方もある。これにはこれなりの”うまみ”があると、開き直るのである。
じつは、最初から心配は無用だったのだ。というのも、私主義者たちにとって、「市民社会」は天国だからである。私主義者はそういう意味では、このやり方で、彼らの生をまさに「生き抜いている」のだった!


「市民社会」は人類史上最強の「悪」だといっても、
すべての「人間」にとって「悪」であるわけではない。
・・・私主義者にとっては天国である!
ほら、ここにも、あそこにも、私主義者が!
私主義者たちの大行進が日常的に執り行われている。
彼らの歓喜の叫び声が、足踏みの音が、
昼夜を問わず鳴り響いている!
もう、耳たこだよ・・・笑
そりゃ、ストレスも感じるだろうよ、静かに世界を観たいと思っている人にしてみれば。
「もっと、“私”を主張しなさい!」って言われるのは。
・・・いらない「かも」知れないんだよ、「私」なんて。
そんな人もまだいるんだぜ、
「私」なんてなくてもいい、そういう人。
「私」がしゃしゃり出てくると、気がめいってしまう、
そう思っている人。
静かに世界を観たいと思っている人間にとっては、
迷惑な話だろうよ。
「私」言葉の雨あられ、聞いてて疲れるんだよ、私主義者クン。
・・・いつまで言われ続けるのだろうか、
「私」にとっての幸福の最大化が、
「私」にとっての幸福の最大化が、
「私」にとっての幸福の最大化が・・・。
いつまでも言われ続けるんだよ、たぶん。
私主義者の天下が続く限り・・・。



“狂人”めいた独り言。だが、”狂人“を「人間」としてのボーダーラインに近づけようとする営み自体、知の枠組みの奴隷と言えないだろうか。断っておくが、「精神病患者」を、そして、医療に携わるものを誹謗中傷しているわけではない。実際私の身近にもそのような人はいるし、”大変さ“をわが身でもって体験した。
言いたいのは、むしろ、プラトンが、「神の信託を授かった者」として彼らを捉えたように、そのような心の余裕は異なるものを各々の心に同居させる、という意味において”有用“と言えるのではないか、そういうことである。この辺のところを常に付帯させて“行為”すれば、言語的な生に飲まれずにすむ、と、とりあえず言っておくことにする。
ただし、言語的な限界はアプリオリにあるわけではない。誰のためにも“はじめから”用意されているわけではない。こちらがそれに『ぶつかって』、はじめてその姿を現

与件・その他について

【与件・その他について】


市民社会が今後も存続し「私主義者」が増殖していくであろう景観を思いうかべると、悲しくなるだろうか。やってみたが、ただ苦笑があるのみだった・・・(笑)。



・・・市民社会と“豊かさ”こそが人間にとって最適の状態である、と言いうるのであれば、市民社会を肯定する思想は“真の思想”である、ということになるだろうが、どんな社会にあってもこの“真の思想”が「真に適合する」と言えないのであれば、市民社会は単に人間社会の一形態にすぎない、という事になる(市民社会に対し批判的な言及をすると、私が社会主義者か何かと勘違いする短絡的な人間が必ずいる。こんな手合いは相手にする気にもならないのだが、とりあえず断っておくと、私の希望は『宇宙市民』である・・・爆)。



この視点を持つことにより、人間社会の多様性を認めていこうとする思想とリンクしうるとは思う。だが、一形態にすぎないものが“普遍的な思想”なるものに支えられその“豊かさ”を武器に「人類を一つにしよう」と叫び猛進する姿を目の当たりにすると、まず真っ先におこがましさ、鼻持ちならなさを感じるというのは正直なところであり、しかもそれだけにとどまらず、この市民社会は単に一形態であるがゆえに多様なるものの一つだ、といった主張に代表される大人の言説の類に対しても、どうしても軽さを感じざるをえなくなる。



だからといって、「人間」は洞窟にあってその世界しかしらない、真の世界を知らない、というプラトン流「魂」論をもちだし精神の、あるいは心の責任にしてしまおうというわけではない。「人間」は洞窟のほうが安全であると判断すればそこに住み続けるだろうし、このような合理性を持ち出してプラトンを論破した気になるのも悪くはないだろう。ただし、洞窟の中で営まれる人間生活から生み出される、この生活を肯定する思想も説得力が十分ではないのもまた明らかなのだから、その辺は肝に銘じておいたほうがよい。



いずれにせよ個人的意見であるが、市民社会や物質的な豊かさを与件として語られる精神の肥大化した「私主義者」たちの言論には、芯の細さを感じざるをない。市民社会や物質的豊かさという“囲い”のなかで繰り広げられる「私主義者」たちの闘争劇にも、魅力を感じるものは少ない。
これらは、与件を与件として意識する必要がなくなった結果肥大化した精神
によって繰り広げられているがゆえに、と私流には言えそうなのであるが、先の大人の態度を用いれば、人間のありかたの“興味をそそられる一形態”ではある、とも言いうるのだろう。とりあえず、世界観の相違あるいは趣味の問題として片付けてもらっても一向にかまわない。



ただ、与件を意識することなく吐露される多くの思想は、そうであるがゆえに市民社会を肯定する思想として、あるいは「私主義者」が縋りつく思想としてアレンジを施され彼らに活用されてしまう観は否めない。中でも「私」に関する議論はその際たるものだと思っているのでこれについて少し言及することにする。



私の知りうる限りこの議論は生活世界における「私」と観念の構築物としての<私>として大きく二種類に分けられると思われる。そして、思想的に市民社会と「私主義者」に貢献するといった場合、前者、すなわち、生活世界における「私」の自明性・・・人称的側面そして「痛み」など感覚を意識する当のものとしての・・・を主張することによる効果以上に、むしろ後者、すなわち<私>の神秘性を強調することによって否応なく「私」が存在することの“貴重さ”“稀有さ”を感じざるを得ない方向へと意識を向けさせる、このような<私>についての論理的推論がもたらす効果のほうが断然大きいと考えている。



(よくまぁ、何の資料も提示せず、本も読まず、厚顔無恥よろしくこんな与太話を書けるなぁと、自分で自分にあきれ返っている。だが、これがブログのよいところなのでしょう。)



個人的にこの論理的推論に何の恨みもないし、また、効果の大小について、私たちが否応なく説得力を感じてしまうあの“統計的な「数」”を根拠として提示できるわけではない。根拠は私の経験にある。

あまり具体的に述べたくないが、私が日常生活において実際に遭遇する会社、店舗、個人各経営者や幹部をはじめ、同世代のエージェントマン、まあまあやり手のデイトレーダーetc(ついでにホリエモン信者も・・・笑)、つまり、ある程度影響力がありリーダーたる資質を持ちそれなりの階層にいる彼らの実際の言動からうかがい知ることのできる思想あるいは世界観に一貫した、最終的に彼らが拠って立つところの、彼らがまさに彼らの言動を正当化しうる根拠あるいは「最終原因」を“私主義”という概念として直観ならぬ直感によって“抽出”することができるのであり(少々大げさだが・・・笑)、そして、論理的推論によって導かれた<私>についての「私」にプラスαとなる哲学的感嘆表現・・・「私」の「存在」の“稀有さ”“貴重さ”“奇跡”・・・の共有をほとんどの彼らに見出すことができるのである。彼らはもちろん観念論者ではなくリアリストであるが、ある意味理想主義者的な面も持ち合わせている。であるがゆえに、「私あっての“ものだね”」を観念論としては微妙だがまちがいなく「経験」としてきっちり理解できるわけで、そのあたりは感心している。そんな彼らに対し私はアンチテーゼとして「世界あっての“ものだね”」について述べたことがある。彼らはきっちり理解する。だが、与太話として、である、たぶん(笑)。

・・・話をまとめれば、<私>に関する論理的推論(中身についてはほとんど触れなかったが・・・笑)は、「私」を神秘的に扱うがゆえに、「私」を、そして「私主義者」の“正当性”を基礎付ける働きをしている、と言いたいのである。実際巷の景観は彼らを追随する者たちであふれかえっている。そうした追随者がどう捉えようが、本物の、あるいは位の高い(笑)「私主義者」から流布されさえすれば、内実が1000倍に薄められようが、十分役割を果たしているといえるのである。こんな光景はよく見かけるではないか。



ついでに「私」に関する議論がなぜ趣味の、あるいは鑑賞の段階にとどまっていられないのかについての感想文(笑)も記しておくことにする。それは、繰り返し述べているように、この議論の類は常に「与件」が宙吊りにされているからである。多くは精神的自由により与件すらないと考えている節がある。以前述べたことがあるが、「私」に関する議論の多くは、認識する己に「私」なる名をあたえる儀式が執り行われてしまった後の話であり、ここでは、それ以前の「私」に関わった「他者」の存在がすっぽり抜け落ちてしまっている。あるいは、すっぽり抜け落ちたままでもよい、という前提があるようである。だが、このことは、かなり「致命的」だと思われる。



今まで述べたことをいくらか一般化すると、<私>についての論理的推論のレベルであれば趣味の世界としてまったく問題ないのだが、これが巷に流れ出したとたんに、生来の「私主義者」の主張とリンクして「私主義者」の言動の正当性を保証する倫理あるいは行動規範として再構築され機能する、ということになる。具体的には「人権」というフィクションと結びつき、また、ミクロ的個人として記号化され各人の「利己的」な振る舞いに依拠した経済理論の“正当性”を補強し、これら理論を延命させ、そして、生活世界における「私」の自明性を強固にする・・・このように作用するのはもちろん「私」に関する「肯定的な」議論だけではなく、無視し得ない与件を無視する人間中心主義的なものはほとんど妥当するといってよいと思われるのだが、いずれにせよ「私主義者」と与件たる市民社会が肯定的に基礎付けられ、また、彼らの存続の“永遠性”が保証されることとなる。もちろん永遠の保証はありえないわけだが、あたかもそうであるかのような雰囲気に私たちが包まれてしまっている面があるのは確かなことだろう。つまり、私たちは「私主義者」である限り、この循環からは逃れられないのである。

・・・余談であるが、「私主義者」にとって格差社会は「私」のサクセスストーリーを追随せざるを得ない限り許容すべき社会である。これを本質的に批判しうる人間は、自らのブルジョア趣味、ブルジョアのおこぼれアイテムに縋りつく傾向を自己批判し、それのみならず、実際「私」という“衣”を脱ぎ捨てる覚悟のあるものだけだろう。「私主義」に立脚しあたりまえのようにこれ(=格差社会)を招来させる社会に対するアンチテーゼという位置づけなのだから、そうとしか言いようがないではないか?つまり、「私主義者」からの「転向」は、少なくとも可能性が残されている、ということなのだ。

「私主義者」 考

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◆ 「私主義者」は小哲学者気分で、この世界を語る。その主張は結局「私の知る世界が世界のすべて」というものだろう。また、私主義者の思想はひとつのイデオロギーなのであり、この増殖は小善思想として、小悪を増殖させるに過ぎない。実際、彼らの目論見(意図しているとは言い難い面もあるのだが)は進行中で、そのことによる“この世的弊害”は具体例を挙げるまでもなく、様々な状況下に見出すことができる。

 「私主義者」の増殖に歯止めがかからない状況であると認識済みではあるが、フラットな気分でおかしな点について思ったことを述べておきたい。


 まず第一に、彼らの「私」の存在の絶対性を語る状況が、「私の確立」の儀式がすでに執り行われてしまった後だということ。
 「私」が形成される過程、とりわけ「私」の確立に“まさに”影響を及ぼした他者の存在がすっぽり抜け落ちているということ。
 デカルトの議論の初発はまさにそうだ。そして、デカルトはこの世にはもういない。この私たちの現実が、いまだデカルトの夢の中の出来事であると、誰が信じるだろうか(こうした議論は確かドゥールーズさんが述べてたと思う)。つまり、「私」のいない世界でも、世界は変わらずに同じようにあり続けるということ。それは、「客観的」にそう言える、存在する、というものではなく、主-客を超えた地平で、端的にあるとしかいえない地平で、存在していると言えるのだろう。

 
 第二に、百歩譲って、この世界は徹頭徹尾「私」の主観の世界、つまり「私の知る世界が世界のすべて」だと言いえたとしても、その状況下でさえ、世界は私に対して先行して存在しているということ。
 別の言い方をすれば、「私」の主張は、世界を媒介しなければ、誰にも伝わりはしないということ。
 「私」は世界の存在に基づいて存在している(できている)ということ。

 例えば言葉を考えてみればよいと思う。私たちは言葉の重要性をやたら強調するが、そもそも伝達すべき言葉は空気がなければ伝わりはしないのだ。文字だって、「私」以外の自然がなければ、作り出すことはできない。
 そして、私たちは、何か食さなければ生きてはいけない、命はもたない。すなわち、食物自体が命なのだといえる。この命は、私たちにすでに先行して存在している。それは空気も同じことだ。光もそうだ。

 すべてはもともと分かちがたい「一」だったからこそ、すべてが関係性を結ぶことができている、私はそう考えている。また、こうした世界だからこそ、私たちの善悪二分法は、「主観的思い込み」だといいえるのだ。思想の持つ論理的整合性のみならず、生きて行くのに必要な利己性にまで善悪でもって言及するというおこがましさ。巷の倫理は正真正銘のニヒリズムだ。


 ・・・人間は徹頭徹尾地球的生物だ。たかだか大脳皮質を獲得したくらいで、「宇宙の真理を知りえる唯一の存在」なんて宣言はおこがましい、もっと“謙虚”であったほうが、むしろ「知的生命体」の名に恥じない態度だ、と思えるのである。






               つづく

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