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			<title>Midnight◆Rambler</title>
			<description>はじめまして。tambling_dice６４です。６４は「ろくでなし」という意味です。ブログ内容はなんてことはない、今までの続きです。ひねくれものですが優しい日本人の皆様ですから、大目に見てくれるものと勝手ながら思っております。また、ひっそりやっていくつもりでおります。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tumbling_dice64</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>Midnight◆Rambler</title>
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			<description>はじめまして。tambling_dice６４です。６４は「ろくでなし」という意味です。ブログ内容はなんてことはない、今までの続きです。ひねくれものですが優しい日本人の皆様ですから、大目に見てくれるものと勝手ながら思っております。また、ひっそりやっていくつもりでおります。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tumbling_dice64</link>
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		<item>
			<title>壁・ＲＡＲＥ</title>
			<description>私はリーマンだから限界があるんだよ。２、３年内にはけりをつけるつもりだが。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
壁かね？・・・壁はひっきりなしに現れる。これで良いという地平など、言語と戯れている限りありはしないからだ。すべてが説明できる「話」などありゃしないからだ。ゆえに、壁はひっきりなしに現れる、これでもか、これでもか、と言わんばかりに。ドストエフスキーにとっての壁は、壊せばよかった。ロシア正教と唯物論者が彼に提示してみせた“正しさ”を解体すればよかった。そしてこの両者に共通に横たわるいわば人間の原罪を暴露しさえすればよかった。しかしその地平でもまだ“希望”だけは残されていたのだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現代の壁は人間中心主義である。私の中のドストエフスキーの“悪役たち”は語る。&lt;br /&gt;
・・・しがみつく対象への思索が足りない。例えば、「文化」とやらにしがみついて、どうしようというのだろう？例えば、食についてはどうだろう?さまざまな食文化といわれるものがある。だが、人間を賛美する者のなかに、豚や牛を食するために実際に彼らを解体したものがあるだろうか？喉もとに最後の一刺を入れ、血飛沫にまみれたことがあるだろうか？そのような営みがあるのを忘れ、皿に盛られた彼らの肉片を、当たり前のように食する者たちに、果たして食への感謝の心など芽生えるだろうか？皿に盛り付けられた様のみを文化といって重宝がっているだけではないのか？臭いものには蓋をして、その中身以外を文化といって重宝がっているだけではないのか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
社会の景観はこれに似ている。きらびやかさを、成功例を重宝がり、拠って立つ根幹の初発にあるもの--くさいもの--を見てみぬ振りして、やれ人生論だの、文化は大切だの、安っぽい思想を振りかざし、安っぽいドラマに涙流し、私的な怨念に取り付かれ、私にも悩みがあるのよ、夢があるのよ、などとほざいているのである、それを文化的人間などと名づけ、人間の精神のすばらしさとやらで己の空虚を穴埋めし、裸の王様よろしく“君臨”しつづけているのである・・・。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アイヌ　プリ　シャランケ　ハウ　ウポポ　ハウェ&lt;br /&gt;
アイヌは熊を生贄にした。「信じられない！」「なんて野蛮な！」小賢しい小市民どもの雑言が聞こえてくる・・・はぁ？アイヌはみなで鮮血を浴びることによって、言葉なんかには一切頼らず、あまりにも小さすぎる『われわれ』をしっかりとわかっていたのだ！分業ごっこを自明としてこの中にいる消費者達には、とうていわからない、わかりようがない世界観である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
どう考えたって、ゆるいし、やわい。大人といわれる人々の言論はとくにそうだ。彼らの言論は、臭いものには蓋をしたまま、うまく生きていこうという処世術だ。彼らの言論は、確実に、安っぽい。彼らの言論からは、謙虚など、一つも出てこない、生み出せない、生み出せるはずがない。残念ながら、人間のすばらしさとやらの延長線上に「私」を乗っけた話があるのみだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
	&lt;br /&gt;
「変えよう、変わってほしい」なんて簡単に言わないこと。「人間」であることを“やめる”くらいの覚悟がなければ、人間中心主義による“弊害”はなにも変わらない。己がその地平にないままで叫ばれる、“変革”を希求する現況のあらゆる言説は、はっきりいって何も言っていないに等しい。&lt;br /&gt;
せめて、『世界』に対し謙虚に生きることだけ考えろ！</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tumbling_dice64/19133303.html</link>
			<pubDate>Sat, 12 May 2007 00:20:16 +0900</pubDate>
			<category>詩</category>
		</item>
		<item>
			<title>「人間ノ戯言ニモ負ケズ」</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;「人間ノ戯言ニモ負ケズ」&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;人間の戯言にも負けず、&lt;br /&gt;
巨大な建造物にも&lt;br /&gt;
構築物にも負けず&lt;br /&gt;
竪穴式住居に住み、&lt;br /&gt;
動物たちと戯れ、&lt;br /&gt;
熊にまたいで森を駆けまわり&lt;br /&gt;
川に飛び込み&lt;br /&gt;
魚たちの群れにまぎれ&lt;br /&gt;
上下の感覚を満喫し&lt;br /&gt;
朝日に感謝し、夕日に涙し&lt;br /&gt;
西にため息つくものがいれば、&lt;br /&gt;
悩まなくてもいいんだよと言ってやり、&lt;br /&gt;
東に残飯を粗末にするものがあれば、&lt;br /&gt;
カラスを引き連れ&lt;br /&gt;
残飯に卵をぶっ掛け食ってみせ、&lt;br /&gt;
南に海に沈む故郷あるものがいれば、&lt;br /&gt;
怖くないからと言ってやり、&lt;br /&gt;
北に思想馬鹿どうしの喧嘩あれば、&lt;br /&gt;
ニヒリズムでつまらないから止めろといってやり、&lt;br /&gt;
「お前の世代はカスの集まりだ！」&lt;br /&gt;
「巨人ファンじゃなければ非国民だ（ふるッｗ）！」&lt;br /&gt;
「お前はしょせん少数派なんだよ!」&lt;br /&gt;
などと罵られ、&lt;br /&gt;
石を投げられ、&lt;br /&gt;
あるいは、&lt;br /&gt;
改造モデルガンで撃たれたとしても、&lt;br /&gt;
そんなものごとには微動だにせず&lt;br /&gt;
いつもニコニコしている、&lt;br /&gt;
さういう者に&lt;br /&gt;
私はなりたいｗ&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tumbling_dice64/18779133.html</link>
			<pubDate>Sat, 05 May 2007 19:45:30 +0900</pubDate>
			<category>詩</category>
		</item>
		<item>
			<title>ネコについて</title>
			<description>ちょっと放置してましたｗ&lt;br /&gt;
なぜかというと、ネコが家出したわけですよ。&lt;br /&gt;
ようするに、そのことでハートブレイクだったわけで。&lt;br /&gt;
うわさによると（笑）、よそのおばあちゃんのところにいるらしいｗ&lt;br /&gt;
昼間は、まったくかまってやれなかったので、なるべくしてなったという感じですか。&lt;br /&gt;
まぁ、しょうがないということでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・・・縁側で、おばあちゃんとネコがいる風景。&lt;br /&gt;
あまりにもベタすぎますが、&lt;br /&gt;
なかなかいいじゃないですか。なかなかステキじゃないですか。&lt;br /&gt;
よく知ってるネコがそこにいるって。&lt;br /&gt;
ヤツの第二の人生、ひそかに見守ってやろうと、&lt;br /&gt;
いまはそのような心境なんです。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tumbling_dice64/18385349.html</link>
			<pubDate>Sat, 28 Apr 2007 01:52:11 +0900</pubDate>
			<category>人類学と考古学</category>
		</item>
		<item>
			<title>これは動物愛護論か?</title>
			<description>今年の春は例年以上に気分を心地よくさせてくれる。勝手にそうなるのだから不思議だ。心ウキウキWhoa oh oh oh・・・ってな感じ。&lt;br /&gt;
そして、ネコたちもウキウキ発情期だ。ホンと外が騒がしい。うちのネコも雄ネコたちの動向が気になるのか、なんだかそわそわしている。耳をピンと立てて、外の様子を常にうかがっている。私はというと、そんなネコの耳をひっくり返したりヒゲをつまんだり、ちょっと意地悪して遊んでいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そういえば、雑草が気になってくる季節でもあった。そろそろ除草剤をまき始めるのだろう。この除草剤と猫の関係について、いや、ネコに限らず動物全般に対して、彼らに与える影響についての報告めいたものをなにも読んだことないのだが、植物が枯れるのだから、除草剤には生き物を殺す能力は少なからずあるということで、これが少々心配の種ではある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ネコは毛づくろいをするので、しかも、足の裏まで丁寧に舐めるので、その“毒”を体内にしっかり取り入れてしまうわけだから。ただ、除草剤をまいた土地からは翌年も雑草が生えてくるケースも多いので、これは土による浄化能力の賜物なのか（コレには天候とくに雨が関係しているだろう）、あるいは本当の雑草魂のなせるワザなのか、“毒”に関してよくわからないところはある。影響を残すという意味においては、もしかすると、たいしたことないのかもしれない。結局のところ何もなければよいが、影響がこれっぽっちもない、なんて事はないだろう？何とかなるだろう、の集積が、負の側面を助長していくストーリーはよくあることじゃないか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただ、影響云々もちろん大事だが、私にとってこのこと以上に気になるのは、除草剤をまいてまで人間に都合の良い景観を維持したいという、人間側の・・・なんというか、怠惰な側面とでもいうか、まぁ、そんなところ。・・・はっきりいえば、自分たちの手で草くらい取れよってこと！（ついでに、飯くらい自分で作れよ、は言いすぎか?）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
おあつらえ向きの景観を維持すると決めました。でも草取り、自分でやるのでは大変だしそもそも時間がない。民間業者に依頼するより除草剤の方が安くつく。他への影響は、仕方がないだろう。景観のほうが大事だ。草取りなんかより自分が“文化的”に過ごす時間のほうが大事だ。だから・・・まいちゃえ♪&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そもそも、景観を維持しなきゃならない街の風景とやらは、それするだけ大したものなのかどうかという疑問が浮かび上がってくるのだが、これはちょっと脇に置かせてもらう。いずれにせよ他への影響は仕方がないとする発想の背景には、純粋な怠惰、慣れ、もともと気にかける発想がない、そうした事情があるだろう。さらに、人間が何か特別な生き物であるかのような思想も背景としてあるのは間違いないだろう。だが、この“人間が他の動物に比べて特別”、まったく説得力がない。なぜならこのことの正当性を主張する言論は循環論法を根拠にするしかないからだ。自分たちで自分たちをほめている限り、たんなる循環論法だというのだ。まさに、自己言及性の罠にはまっている。人間の正当性の証明が人間の言説を根拠としている、このことの“くだらなさ”がわからないのだから、ほんと質が悪いというしかない。でも、動物の支配者として君臨しているじゃないか、あるいは、創造性は人間独自のもので、そうした精神面あるいは大脳皮質を持ち出し比較してそのように結論付けられる、などなど月並みな反対意見が噴出しそうである。だが、そもそも、他の動物と比較するなんてことやってるのは人間だけだし、その特別扱いしたがる土俵は人間が設定したものだろう。単なる比較優位であって、絶対優位などではない。むしろ、絶対優位になるような土俵の設定しかしていないのだ。実際その土俵での話、単に、人間の主観性に縛られた、人間が作り出す概念による説明に終始しているに過ぎないではないか。必要なのは相対的という言葉、使う場所はまさにココ。土俵の大きさを大きくすればするほどこの言葉の妥当性は明らかだ、けれど・・・。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そうであっても、いつまでも人間はすばらしい、そのように価値付ける類の言説は廃れそうもない。思想による影響はあるだろう。たとえばドイツ哲学、ヘーゲルの人間賛美、人間賛歌をうたう哲学はもちろん、日本でブームになったマルクスもそうだし、ショーペンハウアーは言うに及ばず、ニーチェにもその余韻を見出すことができる。主体神話のゆゆしき側面、といったところか。しかも、この手合い、概念遊びに終始していれば可愛いが、ある人間たちに主観的思い込みの正当性の根拠として使用されてしまうと、大哲学者たちの知見の“客観性”それ自体にもう”罪“はない。そしてこれが昂じて他の動物との比較のみならず人間同士の比較、とりわけ優劣の根拠付けに使用されてしまうと、なんだか終末観が漂う。こうなってくると、権力への意志の思うままに操られてしまうもともとの初期値に脆弱性を抱えた個人・社会の問題として捉えるしかない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうしたコトどもに対しては、謙虚という態度で対抗したい。まさに、この言葉の使いどころはココだろう。そのためには、現況の、対人関係のみに使用される傾向、何とかしたほうがいい。「人間語」だから仕方ないという面はある。だけど、古臭い人間賛美からいつまでたっても離れられないのは、謙虚の内実を知らないから、という面はあるだろう。この謙虚、実は、世界に対しての姿勢なのだ。人間関係で使用されるのみの話ではない。人間関係だけではそもそも謙虚とは言わない。それはいわば単なる迎合だ。巷で言われる謙虚にはこの手合いが多い。だが、そうはいっても、簡単には降りてはこないのだ、この謙虚は。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
降りてくる、というのは、「知る」に近い。この「知る」も取り扱い注意だが。&lt;br /&gt;
人間と名指しされることへの違和感、しかし、そうである側面からどうあがいても逃れられない、ゆえに・・・この続きは今まで述べてきたこととリンクしてきて、少々くどくなるのであえて書かないけれど、このことを「知る」のは、この世的ではあっても美徳の中の美徳の一つだと思っている。別に謙虚という言葉に縛られているわけじゃない。謙虚なる言葉は使わなくてもぜんぜんかまわない。そうした世界に対する態度を一言で言うと、謙虚が一番近い、ということだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・・・人間の目的への性急な営みに歯止めを掛けるのはほぼ不可能だとしても、こうした謙虚さは身につけておきたいなぁと、春で緩んだ気分がゆるす、俗な地平の謙虚な姿勢でしめくくるとしよう。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tumbling_dice64/17540561.html</link>
			<pubDate>Fri, 13 Apr 2007 00:09:41 +0900</pubDate>
			<category>詩</category>
		</item>
		<item>
			<title>酔者を救おう。</title>
			<description>湖面に映った月を取ろうとして水に落ちた酔者を「救い出す」遊びをしたいと思います。この物語に関しては、実はよく知りません。聞いたことあるんですが、anehakoさんがコメントしてくれるまで、忘れてました。いずれにせよ、詳しくはわかりません。原典からうかがい知ることのできる思想的な背景は抜きに書くわけですから、まさにお遊びなわけです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この物語は、月を夢に見立てその儚さを訴えているように見受けられます。また、説教、あるいは道徳として捉えられうる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは、無意識の奥深くに追いやられた、叶うことのない夢への、しかしながら消え去ることのないわずかながらの渇望が、酔いのどさくさに紛れて表出し全身を捕らえ、しらふでは考えられない、起こりえない行為を引き起こすこともある、つまり・・・日常の不足面にたいする不満が環境のちょっとした変化＝酔うことによって表出し不幸をもたらす原因になることもあるということで、ゆえに、与えられた、あるいは自らが置かれている現況に満足するよう、少なくとも日々の現実に満足を見出していくようにと、そのような生を送るようにと、よくありがちな道徳面をこの物語から拾い出すことができるということです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この解釈においては、水に落ちた酔者はどうあがいても救いようがない。しかし・・・この解釈から離れてこの酔者を眺めてみると、本来手にすることができるわけがない月がほんの少し手を伸ばせば届くところにある、この瞬間において間違いなく、日常の殻を、無意識の底から突き上げられた歓喜が破ったわけで、しらふであればまったく経験できないだろう経験をしたことになる。&lt;br /&gt;
・・・あくまでも、酔いによって「正しい」思考能力が働かなくなった、なんていう俗な解釈は無しですよ（笑）・・・&lt;br /&gt;
酒に酔うことのみならず、たとえば、いわゆる熱狂にはこれに近いものがある。その瞬間に得られた歓喜は、酔っていようと、しらふであろうと、確かなものでしょう。このいわば至高性は、日常での営みを重視する視点、あるいは道徳に重きを置く生からは現れ辛い、あるいは見えにくい、そして、日常をまさに日常としてしか見えなくさせる危うさがある。むしろ、至高性の探求を日常のこととして“やり過ごせる”者は、日常の中に、それに適応するばかりでなく、稀有なるものをそれこそ日常的に見出せうるのではないか。・・・この物語はその帰結を、このように捉えたほうが、私の趣味に合います（笑）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところが、ただそれだけのつもりだったんですが、やはり、最後に述べた至高なるものの危うさに関しても、述べずにはいられなくなりました。&lt;br /&gt;
というのも、解体を叫ぶ者に生じる、解体によってもたらされる歓喜の背後には、必ず危うさが付帯しているからです。何においての危うさか、それは、酔者が水に落ちる危うさ、すなわち、この歓喜は常に死と隣りあわせだ、ということです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただ、これについて語りだすときりがないので、酔者を救いだす遊びは、これで終わりにしたいと思います。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tumbling_dice64/16981854.html</link>
			<pubDate>Wed, 04 Apr 2007 01:34:14 +0900</pubDate>
			<category>詩</category>
		</item>
		<item>
			<title>書を捨て仙人になろう！</title>
			<description>春のせいだろうか、心うきうき状態が続いている。&lt;br /&gt;
・・・ので、何も書く気が起こらない。&lt;br /&gt;
というわけで、「標語」を一つ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;14&quot;&gt;書を捨て、仙人になろう！&lt;/font&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・・・以前教わった言葉のリメイク版、ぶっちゃけパクリです。今週は以上です（たぶん）。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tumbling_dice64/16632603.html</link>
			<pubDate>Fri, 30 Mar 2007 00:07:47 +0900</pubDate>
			<category>詩</category>
		</item>
		<item>
			<title>思うままに、いろいろと。</title>
			<description>断定的な表現、バタイユのそれというのは、欠点とは断じて言えない。&lt;br /&gt;
こうした表現に接して、私たちは、懐疑の念を抱かずにはいられないからだ。&lt;br /&gt;
受け取るこちら側には、そのことでなんのリスクも生じえない。&lt;br /&gt;
欠点でもなんでもないわけである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そもそも、バタイユのような“転向者”は、思想の類に十全の信頼など置くわけがない。&lt;br /&gt;
もちろん、己から吐き出される思想に対しても、である。&lt;br /&gt;
仮に「これを信じている」と述べたにせよ、である。&lt;br /&gt;
信じた思想を一度でも捨てた経験のある者は、どこまで行っても懐疑的である。&lt;br /&gt;
哲学のそれではなく、&lt;br /&gt;
再び裏切られるのを先回りするかのような、&lt;br /&gt;
あくまでもこちらから先に縁切り宣言できうるように&lt;br /&gt;
いつでもそのように身構えている。&lt;br /&gt;
言うなれば、屈折した懐疑である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そうした者による断定は、一見意図的ではある。&lt;br /&gt;
ただ、思想という樹海に身を潜めるものは、&lt;br /&gt;
そうせざるをえない者は、&lt;br /&gt;
意図せずとも、&lt;br /&gt;
樹海の木々がそれまでとは別様に見えた瞬間、&lt;br /&gt;
同時に舞い降りた歓喜が、&lt;br /&gt;
かような断定的な表現を行わせてしまうものである。&lt;br /&gt;
異なるのは、歓喜から懐疑への移行にそれほど時間を要しない、&lt;br /&gt;
ただそれだけである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・・・なーんてね、相変わらず分かったようなこと言ってますが(･ω･)♪&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
転向者に舞い降りた諦念、そういえば、埴谷雄高さんも転向者だったそうな。&lt;br /&gt;
「死霊」は第５章くらいまでしか収めてないヤツしか読んでないし、今手元にないので&lt;br /&gt;
なんとも言いがたいのであるが、&lt;br /&gt;
そういえば、先日亡くなられた池田晶子さんと対談してたんだっけ。&lt;br /&gt;
池田さんの本は、それくらいしか読んでいないのだけれど、&lt;br /&gt;
何年前かなぁ、７・８年位前、かな？&lt;br /&gt;
おしゃれで素敵な池田さん、挿入の写真にそんな感想持ったっけ。&lt;br /&gt;
たしか、死を、一度きりしか訪れないからこそ、その瞬間まで徹底的に見つめてやる、&lt;br /&gt;
と述べていたような・・・。遅くなりましたが、ご冥福をお祈りいたします。。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そういえば、本。&lt;br /&gt;
まるっきり読んでいない。ここ一年で、３，４冊くらい？だと思う。&lt;br /&gt;
読む時間がないというわけではなくて、&lt;br /&gt;
たぶん、もともと読書が好きじゃないんだと思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
読書より、ギター弾いているほうが時間的には多いだろうな。&lt;br /&gt;
読書より音楽聴いている時間のほうが長いだろうな。&lt;br /&gt;
読書より、風呂入っている時間のほうが長いだろうな。&lt;br /&gt;
たぶん読書より、野球のほうが好きだな。&lt;br /&gt;
読書より、だんぜん猫と遊んでいるほうが、好きだな、楽しいな(*´∀`)ｂ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そう、猫飼っているわけです。&lt;br /&gt;
住みついてしまった、と言う方が正しい。メス猫なんですが、&lt;br /&gt;
こいつがそこそこ面白い。&lt;br /&gt;
帰ると玄関まで出向いてくれて、そのあとダダダダッと家中を駆け回りだす。&lt;br /&gt;
玄関から台所周辺を一通り駆け回ったあと、着替え中のヒトの足もとにやってきて、&lt;br /&gt;
ひたすら体を摺り寄せてくる。たまに耳が裏返ってるんですけどね、おかまいなしで。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
部屋の中はいつも暖房使わず寒いので、ひざの上にいることが多い。&lt;br /&gt;
退かそうとすると怒るんですよ。手に噛み付いてくる。立ち上がるのも、おっかなびっくりですよ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
基本的に寝るときは一緒に寝る。&lt;br /&gt;
べつに、一緒と決めてるわけじゃないが、いつの間にかそうなっている。&lt;br /&gt;
その方がお互いあったかいし、私の足先で寝る習性があるので、&lt;br /&gt;
湯たんぽ（？）代わりになって、ヒジョーに助かる。&lt;br /&gt;
寝る時間までのちょっとの間、パソコンいじったりしてる時間、拗ねてどっかに消えちゃうんですが、&lt;br /&gt;
私が横になると、顔の近くに現れ「にゃー」と一声発し、&lt;br /&gt;
軽い猫パンチを頬あたりに２，３発見舞ってくる。&lt;br /&gt;
「入れてくれ！」って合図なわけで、布団の中に入ると足先まで直行し、ちょっと毛づくろいして、&lt;br /&gt;
伸びをして、寝るスペースを十分確保して、そしておやすみだ。そのまま朝までおやすみだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朝飯はもちろん私よりも先に食べる。食ったらお外にお出かけ。&lt;br /&gt;
基本的にふんぞり返ってますよ。&lt;br /&gt;
つまり、猫の家政婦として生きている、という近況報告なわけです。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tumbling_dice64/16284163.html</link>
			<pubDate>Sun, 25 Mar 2007 01:12:04 +0900</pubDate>
			<category>詩</category>
		</item>
		<item>
			<title>つづき</title>
			<description>今、人間中心主義が直面している最大の課題は「環境問題」なわけですが、これを引き起こしている要因に対する言及しづらさというのがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
というのも、この問題は自分のなかである程度の自覚によって思いのままになる、いわば社会性を考慮した倫理的な「善」や「悪」の問題のように単純には捉えられないし、また、科学技術の”暴走“を考えると、どうしても”善良な人間”に何の罪はない・・・もちろん皮肉の意味をこめて・・・ように思える。&lt;br /&gt;
だが一番の理由は、最終的に、「善」と「悪」がまさにぴったりと質的には分け隔てがたいもの、つまりその要因として立ち現れてしまうその“からくり”がある程度明らかになってしまえば、批判の矛先は自らに向かってしまうから、だろう。・・・まぁ、こんなところで気を使う必要はないのだが（笑）&lt;br /&gt;
	&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
からくりといっても話は簡単で、もう何べんも述べてきたヤツで、ようは、“幸せ”をもたらす豊かさを現状維持であれ貫徹しようと思えば、何かしらの不幸を生み出しつづけることもまた貫徹される、という構図のことである。&lt;br /&gt;
例えば、「生きて在る」＝「善」を貫徹しようと思えば、どうしてもＣＯ２を排出してしまう、すなわち、「温暖化」＝「悪」を促す結果となる（これに関する議論はまだ解決してないようであるが）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ミクロレベルでも、個人の手のひらで弄べるような「悪」の類を糾弾する”自律した“個人による「善」行為が仮に行われたとしても、「悪」の具現化はある意味予定されてしまっている、いずれは反動としての何かしらの“負債”を受け取ってしまう、ということになる。（具体的にはいずれまたの機会に・・・といってもたくさんありすぎる＾＾；）&lt;br /&gt;
人間自体の数が増えれば増えるほど、この受け取る負債も大きくなる。&lt;br /&gt;
いわば目的論的行為が機械論的帰結を導いてしまうという、あるいは一見矛盾に見えるこの無矛盾な景観に何も驚くことはない。基本的に、世界は矛盾性に立脚して無矛盾であるのを思えば当然ではある。そしてこのことは未来の不確定性にきちんと立脚している。「悪」として出現する際の様態が不確定なのである。&lt;br /&gt;
また、冒頭で述べた、批判の矛先は自らに戻ってくる、とはこういうことで、「人間」という看板を背負っている限り、それは避けようがない。たとえ、“優秀な”社会性をもつ人々からなる”優秀“な社会を今後実現できたとしても、おそらく、このからくりからは逃れられないだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いずれにせよ、「善」の具現化が「悪」のそれをもたらす、このことから、「善」と「悪」はもともと分け隔てるのが困難な、あえて誤解を恐れずに言えば、善悪はもともと質的に同じものだ、という見解がどうしても導き出されてしまうわけだ。もう少し謙虚に言うと、「悪」はあらかじめ「善」に内包されている、という言い方になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この、善悪一体論とも言うべき“思想”・・・「真理」としてはもちろん取り扱わない・・・は、善や悪としてそれぞれ名指しされてきた当のものたちの解体を、すなわち、これら概念が成立するための根拠を解体してしまう。もともと他人も含めた『世界』はその本質として「人間」の価値判断の対象として存在しているわけではないのだから、という当たり前の話が解体におけるツールである。&lt;br /&gt;
「人間」がそれぞれ好き勝手に、自己充足性に貫かれた自己愛構造と構築物等の社会性の限界から、言うなれば主観的思い込みによって、二項対立のいざこざを作り出している、ということである。また、ついでであるが、システムが無知の修正を何度も繰り返そうが、まったく”完璧なもの“は作り出せない、という”常識“の妥当性をこのことは根拠付けている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このような景観、言うなれば、“私たちの世界”の、無用な価値づけ行為の氾濫するニヒリズム世界としての解体は、文学あるいは哲学チックな人間（あるいは一部科学）に限らず、そして、実際解体を施すまでもなく、誰もが“情”との共存関係にある「冷たい心」を有している限り、その人の心に否応なく広がって観えてしまう可能性は大いにある。カフカなどを持ち出すまでもなく、俯瞰しさえすれば見えてしまうものかもしれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、この景観の前で呆然と立ち尽くしたその後で、それぞれの生きるための基準・尺度なるものの変更を迫られる者も少なくないはずである。また、厭世主義も頭を擡げてくるだろう。&lt;br /&gt;
だが・・・、私たちは、この景観をいつまでも眺めながら生きていくのが、ちょうどよいのではないだろうか。・・・そう、これくらいが、ちょうどよいのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした景観を眺めながら生きていくのがちょうど｢よい｣、このときの「よい」というのは、もちろん価値としての「よい」ではあるが、人間中心主義の“中心点”からもっとも離れた場所から語られた「よい」である。基本的に私たちは、「よい」を語らざるをえない「快」から逃れられない以上、人間中心主義から自由にはなれない。このことを踏まえれば、最も離れた場所からの言及が残されているだけなのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし、この『倫理』は、誰に対しても、もちろん、「私」に対してすら、命令しない。もちろん、「善」なるものとして、既存倫理の仲間としてしゃしゃり出ていくつもりもない。基本的には、“眺めている”のである。もちろん視覚による効果を意味するのではない。大事なのは、この景観を眺めらながら、生においてさまざまな場面において否応なく発動される知や情が、この景観の許容後に降りてきた諦念としっかりと結びついているのか、である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・・・人間中心主義批判においては、何もポスト・モダンなテキストを持ち出す必要はない。宗教戦争やマルクス主義、「市民社会」がもたらした“禍”をそれとして認識できる“目”がありさえすれば十分なのだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私の場合、その類がすんなりと違和感なく入ってくるのだから、そのまま受け入れているだけだ。もちろん、狙いは、これらをもたらしてしまう「人間」なるものを徹底的に解体する事である。これらをもたらしてしまう｢人間｣とされる概念から視線を逸らせるはずがない、つまり、思想の対象としてはずせるわけがないのであるから。自ら吐露する思想にこの「人間」の解体がまるっきり含まれていないのだとしたら、いったい何が言いうるのか・・・。相変わらずの人間賛美か？それとも、相変わらずの「私」中心主義か？それとも、相変わらず“超越”に縋りつくのか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・・・いずれにせよ、観念における遊戯の優劣を競い合うニヒルな“ある枠組み”に辟易とし、あるいは、「私」の存在の無根拠性をしっかり見出せている、あるいは、社会性のドグマに己の思想がなんら洗礼を受けていないかのようなしたり顔をしない、すなわち、中心点から最も遠い場所に自らを置くことを厭わない、つまり・・・・言ってしまおう、思想なるものを突き詰めていけば、人間中心主義批判は避けられないのである。あるいは、思想の終着駅といってもよい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、「人間」の解体後、観えてくるのは、あの景観である。この景観をいつでも背負い込んで、生きていける度胸があるのかないのか、なければもちろん、話にならない。ただ、一石を投じうるのは、この生き様をおいて他にはないのではないか・・・、今は、そう思っている。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tumbling_dice64/16152928.html</link>
			<pubDate>Fri, 23 Mar 2007 01:20:05 +0900</pubDate>
			<category>その他人文科学</category>
		</item>
		<item>
			<title>善悪についてちょっと考える</title>
			<description>付録：”渦中”について&lt;br /&gt;
          （書いていてよく分からなくなってきたので、付録にしました・笑）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「目的を持った」社会的営み全般からの後戻りを、おそらく「人間」は経験したことがない。ついには行き着くところまで行き着かないと気がすまない、その行き着く先を今まさに目指している、人間社会とりわけ「市民社会」以降の動向はそのように見受けられる。現況は、文化人類学が考察対象としたポトラッチ、これの、進行状況の見えづらい巨大化板を意図せずとも成し遂げてしまおうという営みの中に私たちはある、ということになるのだが、この道中でちょっとでも後戻りは前述どおり経験上“出来ない”わけである。というより、“未来”として捉えてしまう対象がある限り、そしてこれが目的論と結びついている限り、後戻りは不自然と考えたほうがよいのかもしれない。であれば、それは後戻りとは言わないよ、ということか。&lt;br /&gt;
「無知の修正」で何とかやってしまおう、つまり、未来において“禍”の規模が大きくなったとしても、その時点での修正でもってなんとかなる、と考えむしろ積極的に進んでいるという側面を考慮するまでもなく、そう言えそうなのであるが。しばらく進歩史観に支えられ後戻りなど考えもしない時期は確かにあったようだ。それに対する反省の声がよく聞かれるようになった現在、後戻りも選択肢の一つとして認められてきているようだが、まだ進歩史観の余韻は引きずられている、といったところか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もちろん、“禍”はその都度大問題にはなっている。ただ、その渦中にあるということは、言い換えれば、「渦中とともにある」ということで、この、付かず離れずの状況は、まさに渦中であることすら忘れさせてしまう、つまり、与件の忘却とそのからくりはまったく一緒であると思われる。ゆえに問題解決の対象としての、その都度の大問題は、共にあるがゆえに、近すぎて、見えづらくなっている、すなわち、いまいちピンとこなくなってしまう状況をもたらしてしまうのではないか。このことから、私たちのみならず過去の人たちも体験した「今」とは、そのような効果をもたらす面を持っている、と言えないだろうか。結局渦中にあるということは、渦中そのものを問題視し辛らくさせる、また、“禍”のあまりの大きさも手伝って、無力感を持って各人の最大の課題とは捉えにくくなっている、ということになるのではないだろうか（具体的には戦時中の状況などがあてはまるかもしれない）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だが、「人間」は反省する動物らしいので、歴史上の出来事に関して、いろいろとそれを行う。&lt;br /&gt;
もちろん、多くの人が無力感をもって過ごしてしまったことに対してだけではなく、それをもたらしてしまったその時々の諸事象に対してがメインだろうが、そうした事象を繰り返さないために、後からではなくまさに今反省していかなきゃならない、このことは、愛すべき「市民社会」を支える“自律した市民”にとっては明文化するまでもない当たり前の事、ということになっている“はず”だが、まさに今問題とすべき事象が存在しているにもかかわらず、反省は功を奏しているとはいえない。ということは、「自律」なるものは、はじめから期待された役割を果たすことができないのではないか、という疑惑も頭を擡げてくる。ついでに、自律した個人に支えられた「市民社会」なるものの儚さを見て取ることができる。いや、現況は理想から程遠い、という見方もあるだろう。だが、いくら「自律した個人＝人間であれ！」、このことを声高に叫んだところで、結局、「誰か待ち」、だれかが何とかしてくれる、という雰囲気は確実に伝わってくるのである。&lt;br /&gt;
そして、この「誰か」が、将来の人間理性によって構築された完璧を誇るシステム・・・もちろん幻想である・・・に開けた針の先ほどの小さな穴は、再び巨大な&amp;quot;禍“を招いてしまうだろうことは、容易に想像できてしまう。&lt;br /&gt;
今でも自律した個人たちが信仰する民主主義や市場のたった１回の”失敗“は、後世に長々とその余韻を残してしまっているわけで、無知の修正とやらもいずれは功を奏さなくなるのではないか。人間理性、その可能性を信じているヒトに対しては、絶望的な言い方ではある。だから、理性批判と名がつくものに縋りつく傾向が、ここ最近見受けられるのかもしれない。本来、縋りつくものではないはずであるが。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まさに”渦中“にある、この状況下において、なにかが優先的に選択されるのではあるが、その選択の基準自体に、実は、まったく根拠がないことも、おそらく影響しているのだろう。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tumbling_dice64/16015935.html</link>
			<pubDate>Wed, 21 Mar 2007 00:34:52 +0900</pubDate>
			<category>その他人文科学</category>
		</item>
		<item>
			<title>タイトル・・・後で考える、笑</title>
			<description>不可能性を明らかにしてから可能性を浮き彫りにしていく、なぜこんな回りくどいことをするのかといえば、既存の言論の多くは可能性という夢のみに“うなされている”からである。&lt;br /&gt;
絶望なるものに対する忘却がノーテンキな様を導き出す、このことに対する反省ゆえに、である。&lt;br /&gt;
ただ、このやり方は、必ず負けることになっている。というのも、現況の文脈におけるいわゆる&amp;quot;有用性“が、これっぽっちもないからである。&lt;br /&gt;
おそらく、&amp;quot;無謀”な印象のみを与えるのだろうし、常識人であればそのように解釈するのは妥当なところだ。ただ、発言者である私としては、この状況をもちろん快く思っており、だからこそ、いろんな意味で継続可能なわけなのである・・・（笑）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちは常に、いわば地続きでつながっていて、現状のように私たち一人ひとりが「私」を名乗り、そして、日常的に他者（主に他人）との距離が遠のいていると感じるとしても、この効果は単に精神の肥大化とこれから生み出された構築物とこれに依拠した行動様式がもたらしているのであって、私たちがその精神で生み出し引き継いでいくもの、例えば「市民社会」が、いつのまにかシステムにありがちな循環論法的に成立根拠を問えない代物として、あるいは、ある意味与件として、生に言及する際これがその地位の特権として言及対象として常に排除される存在にまでなってしまったにせよ、やはり、個として、そして類としての二面性は対立することなく私たちに普遍的に共有されているのであって、このように捉えられた&amp;quot;私たち“は、西欧的で理念的な「人間」概念とまったく異なる、といわざるを得ない。&lt;br /&gt;
これによって、異なる個が類としての同一性を保持しながら関係性を取り結び社会を構築していくとしても、そのために「市民社会」が最も”理にかなった方法“ではない、という認識が否応なく導き出される。また、これの存続に寄与する「人間中心主義」の私たちからの排除は原理的に不可能であるが、このいかがわしさを指摘し、効果を軽減させることは可能である・・・。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ようするに、一番面白くないのが、&amp;quot;私たち&amp;quot;が「人間」として一括りにして語られる、ということだろうね。「人間｣とはかようなものである、この見解は面白くない地位にいつまでもいてくれればよいのだが、これが終いには、“「人間｣はこのようにして生きなければならない”、こうして語られてしまうんだからね、こうした言論と結びついてしまうんだからね、市民社会チックに、極端な場合は。&lt;br /&gt;
これはちょっと、気をつけて回避したいよね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・・・話は突然変わるが(笑)、あらゆる無意識的なものたちでさえ、最終的には言葉として表出されうるという思想にも、そういえば、何かいかがわしさを感じてしまうね。&lt;br /&gt;
ここでは、多くの場合、フィルター、あるいは、言葉の表出の際媒介者としての「emotion・情動」の役割がすっぽりと考察から抜け落ちている。心理学はよく分からないのであるが。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この”曲者”は自由意志などまったくお呼びでない因果関係、言い換えれば、もの秩序の側にある。&lt;br /&gt;
また、これが発現してしまうこと自体が、世界は私たちに対し常に先行している事実の一端を示している。&lt;br /&gt;
もの秩序の側にあるにも関わらず、「emotion｣を自由自在に操れる人など存在しない、常に、ある特定の環境に遭遇するとき、ある特定の「emotion｣としてその都度発現してしまうがゆえに、つまり、私たちがその発現を取り押さえることができない困難さを根拠として、無意識的なものとしてのみならずカオス的なもの、との位置づけがこれに対してなされるようであるが、この理解の困難さを回避するために、仮にemotionの言語化のみならず視覚化が要請され実際”形あるもの“として表現されたとしても、その面白さに本来先立つ一回性の経験は、形あるものとして表現された後に、これと対立するものとして立ち現れてしまう、すくなくとも、一回性の”面白さ“に着目する視線を有するものにとっては、そのように見えざるを得ない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ちょっと突き離した言い方かもしれないが、emotionの類はまさに体感するその瞬間がいつでも「華」なんであって、どんな類のemotionが引き起こされたにせよこれへのその後の対処法は、それらとは“お友達にならない”選択がフラットな気分を持続させるには都合が良いのを思えば、むしろその体感の余韻を引きずることは避けたいのである。なぜなら再度無意識にそれらがバージョンアップされ格納されてしまう危険性があるからで、たとえそれらが喜びの色を湛えた類であったとしても、反復されない経験として経験することを、つまりは忘却を、多少の困難さはあるとしても意識に、その可能的な側面に呼びかけることを、私の場合常としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・・・効果はよくわからない（笑）。ただ、なぜそうしているのかといえば、私の傾向性、例えば“美”の効果は、「冷たい心」をあっさりと、いとも簡単に氷解させてしまうからだ。いつまでも我がもの顔で”心”の片隅に居座り続け、なかなかその場所から退こうとはしない。私たちの可能性を広げる他者との出会いが、これによって制限されてしまう危険に晒される。その瞬間が「華」である、つまり、一回性の”うまみ“を、その都度その都度味わい尽くせないはめになる。とにかく、引きずらないこと、このことを語るべき対象は意識しかないという頼りなさは、とりあえず無視している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もう一つの対処法として、先に述べたとおり、それらを言葉として、あるいは視覚化されたイメージとして切り取ってしまい、学術用にあるいは観賞用の“もの”にしてしまえばよい、という発想がある。意図はどうであれ、むしろこちらのほうが一般的である。&lt;br /&gt;
考察対象を曖昧なものとして放っておくことができず、「胸騒ぎ」（笑）あるいは知的好奇心を口実に、わが手のひらの上に、わが行動範囲の範疇にまさに“形あるもの”として留めておきたい欲求・・・所有欲・・・がこれを行わせているようだ。&lt;br /&gt;
ありきたりな言い方であるが、これを実現させるためには、まず、ちょっと離れて、眺めてしまえばよい。そして、規則性のある”もの“として認識の視点を変え、そのパターンを考察し、法則を導き出し記述あるいは視覚化を行えばよい。また、よく言われるところの「観察者の主観性の排除」を常に意識し、そうすれば、｢冷たい心｣は維持されうる、のみならず、有用性あるものとして何らかの”価値“がうまれる、というわけだ。これはこれでそれなりの技術的な難しさがある。思い入れも、経験もそれなりに必要だろうし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例えば、八つに分けられるユング心理学的タイプ論は、ユング先生自身が断っているように、いつでもどこでもタイプにぴったり当てはまる人などいないのだが、これまたユング先生が述べている通り、それらを単に羅針盤として活用すれば、すなわち、ちょっと離れて眺めるようにすれば「実用的」であるし、また、有用性の見地からこの見解に対して教条的理解に陥らずにすむ。&lt;br /&gt;
関連して、先の&amp;quot;美“あるいは恋愛感情に関して、これによる効果をこの心理学が言うところの「アニマ・アニムス」という集合的無意識の元型のなせる業として理解してしまえば、emotionに飲み込まれるのは避けられるかもしれない・・・この選択はあくまでも趣味の問題で、というのも、美や恋愛がもたらすあの甘美な効果に浸っていることも、別に「悪い」ことではないからで、むしろ、「冷たい心」と無縁な人は、そのように「ありつづける」ほうが、好ましいのだ（と思う）・・・、そういう意味での有用性である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし、こうした対処法は、処世術にきわめて近い。むしろ、イコールと言ってしまってもよい。実際、「市民社会」的“生”の概観はこうした行為の類でほぼ埋め尽くされている。「市民社会」がもの秩序を土台として成立しているからだ。常に、輪切りが要請されるからだ。そして、このようなスタンスが確立されていなければ、いっぱしの”大人”として扱われない場はそこかしこにある。&lt;br /&gt;
だが、このような世界の輪切り行為が、言語的な「私」をさらに決定的にするのも自明なことで、深入りは避けたいところである（個人的には）。「市民社会」と心中したいと思っている人たちはそうすればよいのであるが。&lt;br /&gt;
ただ、言語的輪切りは、それを放棄してもよい地平への階段としての役割を担っている、と、（百歩譲って）捉え直せば、それに対する違和感もわずかだが軽減される。この目的論の文脈において、言語的輪切りの限界性を知る必要はあると思う。&lt;br /&gt;
先に例としてあげた八つのタイプも、なぜ八つなのか、あるいは、グレーゾーンはどう処理すればよいのか、そうしたものもすべて言語化できるのか、いや、ありとあらゆるものは、はたして言語化しうるのか。そして、言語化されたもの達の「真性」を主張して、いったい何をしたいのか。そのことによって、わが手によって生み出された“有用性”の中に生が埋没してしまうのではないか。残るのは、単に、有用性のみではないのか。&lt;br /&gt;
そして、決定的なことに、このやり方は、一回性の「華」の“うまみ”が、あたかも永遠に味わい続けられるかのような錯覚を引き起こすのである。”割り切り“が下手な人ほど、確実にその陥穽にハマる。&lt;br /&gt;
ただ、視点を変えて、いくら言語化を施しても曖昧さから逃れられないのであれば、開き直って、徹底的に言語化を施す、というやり方もある。これにはこれなりの”うまみ”があると、開き直るのである。&lt;br /&gt;
じつは、最初から心配は無用だったのだ。というのも、私主義者たちにとって、「市民社会」は天国だからである。私主義者はそういう意味では、このやり方で、彼らの生をまさに「生き抜いている」のだった！&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「市民社会」は人類史上最強の「悪」だといっても、&lt;br /&gt;
すべての「人間」にとって「悪」であるわけではない。&lt;br /&gt;
・・・私主義者にとっては天国である！&lt;br /&gt;
ほら、ここにも、あそこにも、私主義者が！&lt;br /&gt;
私主義者たちの大行進が日常的に執り行われている。&lt;br /&gt;
彼らの歓喜の叫び声が、足踏みの音が、&lt;br /&gt;
昼夜を問わず鳴り響いている！	&lt;br /&gt;
もう、耳たこだよ・・・笑&lt;br /&gt;
そりゃ、ストレスも感じるだろうよ、静かに世界を観たいと思っている人にしてみれば。&lt;br /&gt;
「もっと、“私”を主張しなさい！」って言われるのは。&lt;br /&gt;
・・・いらない「かも」知れないんだよ、「私」なんて。&lt;br /&gt;
そんな人もまだいるんだぜ、&lt;br /&gt;
「私」なんてなくてもいい、そういう人。&lt;br /&gt;
「私」がしゃしゃり出てくると、気がめいってしまう、&lt;br /&gt;
そう思っている人。&lt;br /&gt;
静かに世界を観たいと思っている人間にとっては、&lt;br /&gt;
迷惑な話だろうよ。&lt;br /&gt;
「私」言葉の雨あられ、聞いてて疲れるんだよ、私主義者クン。&lt;br /&gt;
・・・いつまで言われ続けるのだろうか、&lt;br /&gt;
「私」にとっての幸福の最大化が、&lt;br /&gt;
「私」にとっての幸福の最大化が、&lt;br /&gt;
「私」にとっての幸福の最大化が・・・。&lt;br /&gt;
いつまでも言われ続けるんだよ、たぶん。&lt;br /&gt;
私主義者の天下が続く限り・・・。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
“狂人”めいた独り言。だが、”狂人“を「人間」としてのボーダーラインに近づけようとする営み自体、知の枠組みの奴隷と言えないだろうか。断っておくが、「精神病患者」を、そして、医療に携わるものを誹謗中傷しているわけではない。実際私の身近にもそのような人はいるし、”大変さ“をわが身でもって体験した。&lt;br /&gt;
言いたいのは、むしろ、プラトンが、「神の信託を授かった者」として彼らを捉えたように、そのような心の余裕は異なるものを各々の心に同居させる、という意味において”有用“と言えるのではないか、そういうことである。この辺のところを常に付帯させて“行為”すれば、言語的な生に飲まれずにすむ、と、とりあえず言っておくことにする。&lt;br /&gt;
ただし、言語的な限界はアプリオリにあるわけではない。誰のためにも“はじめから”用意されているわけではない。こちらがそれに『ぶつかって』、はじめてその姿を現</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/tumbling_dice64/15618219.html</link>
			<pubDate>Thu, 15 Mar 2007 00:13:39 +0900</pubDate>
			<category>その他人文科学</category>
		</item>
		</channel>
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