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シャルルへの憎悪を募らせていたハミトに、意図したわけではなかったが、ディーンが更なる打撃を与えることになった。
アストレ・ジャーナルの増刷が正式に決まった週末、第2プログラム2日目の公演を終えたディーンの後を追うようにハミトが事務室に入った時、ディーンは届けられていた花束から蒼いリボンを解いたところだったからだ。 「…お出かけですか?」 押し殺した声に振り向いたディーンは、思い詰めた目をしているハミトを一瞥したものの、その問いに答えることはなかった。 ディーンはもう、個人的にハミトの相手をするつもりはなかった。 「貴方もお盛んですね。あのピアニストの次はモンマルトルですか」 「…何の話だ」 「これから行くんでしょう?」 「…」 「あちらとは随分長いようですが、確かに綺麗な方ですよね」 「おまえには関係ない」 皮肉混じりのハミトの声を遮るように短く告げたディーンは、解いたリボンをポケットに入れた。突き刺さるような視線が手元に感じられたが、ディーンは何も言わずにヴァイオリン・ケースを手に取る。事務室内の職員と二言三言交わすと、ハミトには目もくれず踵を返した。 「ディーン!」 追いかける声に振り返ることもなく、ディーンは真っ直ぐ駐車場へ向かった。 数年前、フルート首席奏者の交代に伴うオーディションに立ち合った際、ディーンはハミトの詳しいプロフィールを目にしていた。音楽的な背景もさることながら、ハミト・アルスランはトルコでも上流階級の出身であることが読み取れた。彼の実家は、かつてのトルコ帝国皇帝にも繋がる名士という話も聞いた。 そんな環境で育っただけにハミトには我儘な面も多く、これまでにも幾つかの軋轢を木管奏者達との間で生んでいた。 年上のフルート第2奏者が愚痴混じりに訴えてきたこともある。 『確かに素晴らしい音色を出しますが、音楽には心も大切でしょう?』 幸いと言うべきか、第2奏者は争いを好まない物静かな演奏家だったので、大きないざこざに発展することはなかった。 だが最近、木管奏者の中にはあからさまに不満を口にする者もいるという。 ディーン自身はそんなハミトに誘われるまま何度か相手をしたことがあるだけで、特別な感情は一切持っていなかった。 首席奏者として迎えられたフルーティストの青年は確かに魅力的な容姿の持ち主だったが、そこに恋愛感情などなかったことは確かで、それはハミトも同じはずだった。求めてくるのはいつもハミトの方で、ディーンとしては気が向いた時に相手をしただけであり、当初からそれ以上のものを求められることは拒否していた。なので、その辺りの乾いた関係についてはハミトも了承しているとディーンは思っていた。 だが、ハミトの方はそうではなかったようだった。 特に今季に入ってからは妙に執拗になり、面倒な恋愛沙汰はご免だと思っているディーンは、割り切った関係以上のものを匂わせるようになった青年に辟易していた。自分達はあくまでも身体だけの関係で、それ以上のものは無かったはずだった。それが今になって恋愛関係を求められても、応えることなど出来るわけがない。 最近はあまりにもしつこく迫られているため鬱陶しささえ感じているディーンであったが、ハミトの音楽的な才能だけは認めていることもあって、コンマスとしてはその才能を無下にすることも惜しく、結局頻繁な誘いを躱しながら過ごしているのが現状だった。 (ハミトの奴、ミカエルのことを知っていたのか…) 車のドアを閉めるとタバコに火を点け、ディーンは暗い車内で紫煙をくゆらせた。 ミカエルのことは別段隠しているわけでもなかったし、そもそも向こうは商売である。金銭を介した関係を秘密にする必要がどこにあるだろう。 花束とリボンを長年目にしている事務室内ではミカエルの存在は公然の事実だろうし、ディーンも自分の行動を殊更秘密裏にするつもりも、逆に公言するつもりもなかった。あくまでも私的なことなのである。 (わざわざ調べたのか?) あの口ぶりから察するに、ハミトはディーンが金を渡して相手をしている男娼を特定しているに違いない。 (厄介なことにならなければいいが…) ミカエルのことを探り出したということは、ハミトにはそれなりの情報網なり情報を得る手段があるということである。彼のバックグラウンドを考えれば、手先になる者がいるのかもしれない。 (気を付けた方がよさそうだな…) 適当に躱していれば諦めるだろうと思っていたが、ハミトの執着ぶりにいささか異常なものを感じたディーンは、ハミトの行動が常軌を逸したものになるかもしれないと気を引き締めた。 音楽が全ての世界で面倒なことだ…と思いながら、ディーンはタバコを揉み消すと車を発進させた。 続く |
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