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地域の歴史NO.11(コシャマインの戦い)その1 伝説とも言われるアイヌの仕掛け弓などの資料請求、及び読みたい論文もありますので今回その1では志苔館跡の画像を中心とした記事になります。 なお、記事の性質上(アイヌ)の呼称が度々でますが、アイヌの呼称は悪い意味ではなく、むしろ尊敬語に値するとご了承ください。 事実アイヌという言葉は本当に行いの良い人にだけ使われていたようです。逆に体が丈夫でありながらも働かず、生活に困るような人をウェンペ(悪いやつ)の意味 そう言ってアイヌとは呼んでもらえなかった。 まずこのことをご理解ください。 まずは画像をもって志苔館跡を紹介したいと思います。 函館市志海苔町 昭和9年国の史跡に指定。 この史跡の歴史を語るより画像を見たほうが早い。 クリックで拡大します。 コシャマインの戦いは実に広大な範囲での戦闘ではあるが、発端はこの志濃里の地である、なお今現在の町名は志海苔(しのり)ではあるが史実に従い当時の地名である志濃里とします。この戦いのきっかけとなったのはアイヌの少年が志濃里の鍛冶屋に小刀(マキリ)を注文したところから始まる。 そして少年が注文した小刀を受け取りに来た際、その品質と価格をめぐって口論となり、鍛冶屋が商品であるその小刀で刺し殺したのである。 付け加えますが、この場合の価格、代金とは銭のことではなく毛皮となります。要するに物々交換となる。資料の一つに、この少年は何度か足を運んでいるとありますが、仮にそれが事実ならば、鍛冶職人は最初の契約を無視し値を釣り上げたことになるでしょうね。 画像は志苔館跡の空壕 この館の特徴は四方に土塁が巡らされた短形であり、地形を利用した空壕が掘られている。北側の土塁は4〜4.5m、南側は1〜1.5m 西側と東側は土塁が途切れ、それぞれ出入口となっている。また、北側と西側の空壕は幅5〜10m、深さ最大3.5mの薬研(やげん)や箱薬研の形状で、特に西側は土橋を挟んで二重壕が掘られている。 この場所から函館山が見えるのは実に印象的である。 あらゆる資料で「蜂起」「乱」となっているが、コシャマイン率いるアイヌ軍にしてみれば止むに止まれず立ち上がった義の戦争。聖戦と呼んでもおかしくはないと思う。 画像をもってアイヌ軍が攻めし足跡をさぐってみる。 これからは地形を鑑みたものの勝手な想像である。東西南北から攻み、本隊は橋とこの道から館の正門めがけて攻める! 当時は橋を落とされている可能性もあるが、その場合空堀に梯子のようなものを掛けたであろう。 館下の沢地に伏兵を忍ばせ、海側に逃げる退路は弓隊でけん制しつつ、土塁高台に見張りを立てる。 今回はカモメに代役を務めてもらった。 まずはこの志苔館を落とすのが効果的であり、背後に箱館山を備え、攻めるに難い要害の地、箱館は後回しで良い! そして館正門前の急な坂道にたどり着く。腕に覚えのある勇者達が次々とに侵入する。 坂道上部に切株のようなものが見えますが、それが門の跡である。 土塁の上にはアイヌ軍が弓で館を狙い、選ばれし勇者が館に攻め込む! そして館が落とされたのである。 喉の渇いた者は井戸で水をたらふく飲み、歌いたい者は歌い、 そして神に感謝し、死者に祈りを捧げたのであろうか、 先に書いたとうり、これは僕の勝手な 想像にしか過ぎません。 画像は井戸の跡である。 この地にある慰霊碑、和人、アイヌ、共に同一座にお祀りしてある。 方向を意味するところ正確には分かりませんが、僕にはなんとなくわかる。2つの可能性として。 今回その1では、勝手な想像と、また十分な説明のなかったことお詫び致します。
まったく違った攻め方だったかも知れませんしね。てか資料にありそう^^; でもここに立つと勝手に想像をめぐらしてしまうのです。 次回その2では資料重視でいきたいと思います。 まずは志苔館跡の紹介と言うことでお許しください。 |

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Masaさま、コシャマインの戦いは短い文章では語れませんが、
この地が発端です。また各集落(部族)の利害を関係なくして
立ち上がったことは、アイヌ民族の団結力の強さのあらわれだと
思います。
2008/8/28(木) 午後 4:34
アイヌの人々は、平和で静かな民族というイメージでしたが、
和人の侵略によって、止むを得ずこうして闘ったこともあるんですね。
狩猟以外で武器を持つアイヌ人、ちょっと想像がつきませんでした。
2008/8/28(木) 午後 7:11 [ Kitaro ]
あつdesuさま、アイヌの写真はたくさん残されていますが
その中で僕がもっとも好きな写真があります。ただいま申告中ですから許可が下りればアップします。 その写真とはただ道端で寝てるだけなんです。ほんと無防備で、これこそ本来争い事を好まぬ民族のありようではないでしょうか?
2008/8/28(木) 午後 7:30
志海苔のコシャマインの戦いが手にとるように再現されていますね。
とても勉強になり、感謝です。
地主海神社との繋がりも、はじめてわかりました。
2008/8/28(木) 午後 7:41 [ バタフライ ]
バタフライさま、僕はまだ地主海神社に行ったことはありませんが、桜が綺麗な神社とは聞いております。桜の時期でしたら足を延ばして行ってみたかったな〜
2008/8/28(木) 午後 9:45
こういう史跡があったんですね。
知りませんでした。是非行って見たいな。
蝦夷は随分アイヌは非道な搾取をされてきた歴史がありますからね。
しかし今回のレポート、銀狐さん、力が入ってなりきってましたね。アイヌの勇士に。
2008/8/29(金) 午後 6:32
ひろたかさま、地域の歴史を語るいじょう、避けては通れぬ歴史の一つです。また是非調べてみたかった歴史でもあります。
悲惨な歴史ですが、こうやって同一座にお祭りしてあるのが
せめてのも救いです。
2008/8/29(金) 午後 6:51
志海苔のことは気になっていたので、いろいろと検索していたところでした。とても勉強になりました。
2008/8/30(土) 午後 4:33
はるばるさま、志苔館跡やコシャマインの戦いは検索するといくらでもヒットしますね。 でも肝心なのはそこから真実を見いだせるかだと思います。 たとえば少年、「新羅之記録」には乙孩(オッカイ)とあります。本来オッカイとは「男」の意味であり、成年男子だとも受け取れます。 この言葉の語尾に「ポ」を足せば、少年の意味にも該当する若い男になるのですが、その辺りがどうも気になります。
2008/8/30(土) 午後 5:12
きちんと許可を取った上で画像をアップされる姿勢はすばらしと思います。最近のブログではなんでもかんでも、画像を勝手に使いすぎる傾向が多いですものね。
2008/9/3(水) 午前 7:24
むにゅさま、ありがとう御座います。
自分の性格かも知れませんが、あたかも自分が所有しているような
画像の書き方は好みません。 また、資料も検索すればいくらでもヒットするものがありますが、それが事実とは限らないですからね。
函館要塞で経験済みです^^;
本来、申請し許可を得るのは「研究目的」に限るとあります。
ですのでその辺りが心配なのですが、僕の場合、地域の歴史
の紹介を自身のブログにおいて画像資料と共に、公開したく、云々です。
2008/9/3(水) 午後 0:08
私も古い書籍の図版をかなり転載していますので、少し気になる問題ですよね。
いちおう、タイトル名に使わせて頂いている建築家のご遺族からは、故人の写真・設計図なんかは使用の了解をいただいたんですが、それだけでは限界があり、やはり昔の書籍の図版を頼ってしまいます。
ブログでの非営利発表ですが、その辺りの点をもっと詳しく知らなきゃななどと思いました。
2008/9/5(金) 午後 11:38 [ ヨウタロウ ]
ヨタロウさま、さすがに今回の資料(写真)については
人物に限り許可は頂けませんでした。
ま〜ある程度予測してましたが、多少残念です。
2008/9/6(土) 午後 3:17
いろいろな歴史があるんですね。
「コシャマインの戦い」、初めて聞きました。
のんびり歩いているカモメが、在りし日の悲しみと、現代の平和を物語っているように感じました。
2008/9/8(月) 午前 0:46
kouetuさま、地元でも知らない人がほとんどです。
志苔館跡を縄文遺跡と勘違いしている人が多いことに
びっくりですよ。地元なのに^^;
2008/9/8(月) 午後 2:56
1457年には、渡島半島でアイヌの指導者コシャマインが和人と戦いました。和人の鍛冶がアイヌを殺したことが直接のきっかけでしたが、本州から北海道に移り住んだ和人とアイヌの間の対立が激化していたことが、その背景にあったとされます。
その後も、戦いは繰り返し起こっていましたが、アイヌとの戦いのなかで道南の和人勢力を掌握した蠣崎氏が、16世紀の中頃に戦争状態を終息させました。蠣崎氏は、交易で得た利益の一部を税として、アイヌの指導者たち二人に分配しました。また、アイヌと和人が交易を行う場所を、自らの城下である松前に限定しました。
蠣崎氏は16世紀末に苗字を松前と改め、徳川幕府からアイヌとの交易を独占する権利を認められました。松前藩は、渡島半島南部に和人の居住域である和人地を設け、アイヌの居住域である「蝦夷地」との行き来を厳しく制限しました。
2013/10/19(土) 午後 5:09 [ 歴史&環境&公徳心ツアー ]
歴史&環境&公徳心ツアーさま、訪問ありがとうございます。
そのことは僕も承知してましたがその際なぜ拠点が松前なのか疑問に思ったことがあります。函館近郊には大野平野もあり家臣を養うにはもってこいの土地! そして調べたて納得!
当時領民ほとんどなく、また北海道においては米も獲れない。
したがって広大な平野に意味はなく家臣が住む家を建てるに十分な土地さえあればOK あまつさえ人口比率は圧倒的にアイヌが多く、逃げるに有利な港があれば良かった。貿易と非難ルート!
この両方を備えた場所が松前であったのでしょう。
2013/10/27(日) 午後 4:03
はじめまして!
コシャマインを調べようにもなかなか資料がなく困っていたところ、こちらの記事に出会えました。とても参考になりました、感謝申し上げます。
北海道を旅行したらこのような史実を踏まえた見学をしたいです。
2015/7/10(金) 午後 4:41 [ ちぇすとー! ]
ちぇすとー!様、ずいぶんと更新していない当ブログにおいで下さりありがとうございます。この史跡は櫓等主だった遺跡はありませんが函館山の全貌が望め景色は良いですよ。
砦の機能としては籠城戦でしょうが、短期決着でなければ持たないつくりだと感じました。
2015/7/10(金) 午後 7:29
クナシリ メナシの戦い
1789年、クナシリ場所請負人・飛騨屋との商取引や労働環境に不満を持ったクナシリ場所(国後郡)のアイヌが、首長ツキノエの留守中に蜂起し、商人や商船を襲い和人を殺害した。蜂起をよびかけた中でネモロ場所メナシのアイヌもこれに応じて、和人商人を襲った。
松前藩が鎮圧に赴き、また、アイヌの首長も説得に当たり蜂起した者たちは投降、蜂起の中心となったアイヌは処刑された。蜂起に消極的なアイヌに一部の和人が保護された例もあるが、この騒動で和人71人が犠牲となった。松前藩は、鎮定直後に飛騨屋の責任を問い場所請負人の権利を剥奪、その後の交易を新たな場所請負人・阿部屋村山伝兵衛に請け負わせた。
一方、幕府は、寛政3〜4年、クナシリ場所やソウヤ場所で「御救交易」を行った。
事件から10年を経た1799年(寛政11年)東蝦夷地(北海道太平洋岸および千島)が、続いて1807年(文化4年)和人地および西蝦夷地(北海道日本海岸・樺太(後の北蝦夷地)・オホーツク海岸)も公議御料となった。
2016/9/27(火) 午後 9:11 [ 歴史&環境&公徳心ツアー ]