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海軍水雷衛所(視発室)まず初めに視発室の資料は僕の手元には御座いません。 詳しくは要塞探訪様のサイト(http://www011.upp.so-net.ne.jp/fortress/tsugaru/suirai.htm)を見て下さい。 詳しく説明されています。 僕が持っている資料は、その位置と付属施設の関連図だけです。 この(視発室)に達する連絡通路は実に季節に左右されます。当時は別と致しまして、現在の連絡通路の整備はまったく手付かずであるため、木々の密集度が高く、夏場の探索は不可能となっております。 11月の初旬ですら無理であった。春まで待とうか、冬にしようかと迷いつつ、6度目の挑戦でやっと到達できた施設でもありました。それはもう11月の末の事でした。 画像はその11月下旬である。視発室正面入り口が確認できる。この画像で見れば屋根があるように見えるが実際にはない。また、1歩中に入ると、トランポリン、あるいはスポンジの上を歩く感覚に似ている。 その原因は長年放置されている枯葉の層が原因である。 同じ位置からの冬場の画像 この位置から初めてこの施設を見たときの感想だが、てっきり施設の裏側だと勘違いしました。だが、間違いなく正面であった。資料を見て視発室があることは知ってはいたが、連絡通路を発見してから、この施設にたどり着くまで約2年の歳月が流れていた。その原因は自分の判断の誤りでもあった。2度3度、ルートを突破しようと試みたものの、あまりの木々の密集度の異常さに、この先にはなにもあるまいと一時期判断したためであった。 それだけにこの施設には特別な思いがある。 ただし、この施設の画像は他ブログの(カムイ)様がすでに画像投稿されています。またカムイ様の場合4月の投稿画像であった。やはり夏場は無理であろう。やはりあの時、強行突破しておけばと、一時、後悔もしたが、後先を争うわけでもなし、見つけたことにこそ意義がる。 入り口上部の段差壁。試験室の段差壁は4段あるのに対して、この視発室では2段であった。 だが、こちらも試験室同様、見事に原型を保っている。 入り口から内部を覘けば台座が確認できる。当時の水雷(機雷)を敷設し爆破するまでの段階は何段階もあり、ここで水雷に電流を送っていたようだ。 以下は要塞探訪様資料引用 ↓ (視発法(目視により任意に水雷へ電流を送り爆破させる方法)をとるための施設である。) 同じ台座の晩秋の画像。発見時の台座の上には枯葉の層と、コケ類の層があったが、それをあるていど 取り除き撮影した。内壁を見れば想像は容易だと思う。 次の画像は内部から右側面を意識して撮ったものだが、見てのとうり試験室内部同様、レンガの抜け落ちた痕跡がある。こちらも立横一定であるため、やはり故意に抜いた可能性が高い。 目線を台座に合わせてみれば石棺にも見える。 すぐに雪で消されるであろうが、自分の足跡を台座に残し、この場を去る。非公開施設故、人も来ない、この忘れ去れた要塞跡、ただただこれ以上朽ち果てないよう祈るばかりである。 |

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ここは、海に敷設した機雷を起爆させるための施設だったのですね。
砲台跡は全国数あれど、こういう場所が遺されているのは珍しいのではないでしょうか。
下関の彦島というところには、明治時代の水雷(=魚雷)を発射するための、
石積みの桟橋が今でも遺されています。
稚拙なレポですが、それを見に行った時の様子をTBさせていただきますね。
2008/1/29(火) 午後 6:17 [ Kitaro ]
彦根の水雷発射基地も函館要塞の砲台、及び敷設水雷(機雷)同様一度も発射されることがなかったようですね。関門海峡守るべしの命令だったと思いまが、 発射されない、イコール、ロシア艦隊が通過しなかったこということですし、それはそれで任務をまっとうしたと思います。抑止効果が十分働いたのではないでしょうか。
2008/1/29(火) 午後 6:47
日本の北と南、まだまだこのような施設が残っているのですね。
2008/1/30(水) 午後 1:16
明治の要塞で、なおかつ海軍水雷衛所(視発室)はたいへん貴重だと思います。完全な形で残されていないのは残念ですが、残すべき戦争遺跡と思います。
2008/1/30(水) 午後 7:50