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箱館戦争縁の地、今回訪れたのは(旧幕軍作戦本部)※榎本軍作戦本部、即ち北斗市(旧大野町)にある稲荷神社・川濯神社(かわすそ)である。
ご承知のとうり鷲ノ木上陸から川汲峠と峠下を経て五稜郭、この二手に分かれ進軍するのであるが、峠下の戦い、この峠の宿に宿泊中の人見一行を箱館府軍が砲撃、ここに箱館戦争の火蓋が切って落とされたわけだが、これより先、即ち五稜郭への道のりには、ここ大野村は避けて通れぬ進軍コースであった。
説明の前に画像を........鳥居の右横にある石碑には川濯神社、稲荷神社とある。左に見える道は大野国道227号線、故にすぐに発見できる神社である。
一度道路を挟み石鳥居をくぐる。
石鳥居は安政6年建立、3月の吉日とある。
社殿も含め、当時のものはこの石鳥居だけである。
そして神社となるが、そもそも道路拡張に伴い、稲荷神社と川濯神社
は同じ社殿となっている。要するに合祀
狛犬は玉抑えの形状
当時を偲ぶものは石鳥居だけであるが、榎本軍の作戦本部として2度使用されたは事実である。
次の写真であるが、左、高木に隠れてるのが神社であり、右に見える体育館は市渡小学校の体育館ということになる。
この小学校の校庭には良く知られている栗の木が2本ある。
まずは一本目の栗の木! 立派な大木である。
2本目の木は小学校校庭にある。 栗の木を眺めている女性は、この学校の教師です。色々お話でき楽しかったです。
当初、怪しいおっさんとと思ったのか、ず〜とこちらの様子を監視していたような気がします。ま、登校時だったのでそれもやむなしですが。
でもここにいる理由と趣旨を説明し納得なされた。それで写真の許可も頂き、ついでに雑談を少しだけお付き合いして頂きました。
想像するに、この栗は生徒はもとより教師父兄も食するのだろう。
本来の栗の甘さと同時に歴史の苦さも味賞の一つとして。
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いつも楽しみに読ませてもらっています。
私も記事を書いていたのでトラバさせてください。次記事もあったのですが、見つからないので後にします。よろしくお願いします。
2010/11/7(日) 午後 8:41
ドンティーさん、同じ箱館戦争の名残の地を歩く旅ですね^^:
さて、歴史もさることながら神社は神社で面白いものが沢山あります。狛犬もその一つでして僕は必ず神社の狛犬も見てまわってます。
時折レアなものもあり楽しいですよ。
今のところ函館住三吉神社の狛犬が一番好きな狛犬です。
2010/11/7(日) 午後 9:08
そうですか、今度探して行ってみます!!
2010/11/7(日) 午後 9:25
ふ〜っ、「誰も書かない函館戦争」ってかんじです。
全く頭が下がります。どこでどのように調べたのですか。
銀さまは神社に興味があるのですね。狛犬んもいろんな種類が
あるのですね。神社に行く度に注意して観察します。
でも神社ってあんまり行かないな〜ぁ♪
2010/11/8(月) 午後 2:28 [ candy ]
candyさん、狛犬の形状は色々ありますが、何を基準にして分類するかで違いが生じます。僕の場合ですと付属物による分類、それを重視してます。じゃ〜なにも付属物がないもの、そんな疑問も出ますと思いますが、その場合は神殿狛犬形で、なおかつ尾や目、あるいは毛並み、その他のものを比較してます。
2010/11/8(月) 午後 9:48
榎本武揚縁の地ですか?
変な小父さんがカメラ持ってウロウロですから教師も気になるでしょうね、盗撮か拉致かって…
で…美人教師の心の拉致は成功しましたか?
2010/11/10(水) 午前 11:32 [ テラノ助 ]
テラノ助さま、登校時でしたからね。警戒心を持つのももっともです。スーツ姿ならまだしも頭にタオル、そしてサングラス。
ま〜もっとも栗拾いのおっさんと間違えてもしかたがない。
いずれにせよ登校する子供たちは皆元気でしたよ。
美人教師の心は晩秋の景色に奪われ僕の出番はなかったです(笑)
2010/11/10(水) 午後 1:33
銀ぎつね さま いつも貴重な情報ありがとうございます。その川濯神社が、二股口の後方兵站拠点にもなっていたのだ――という把握で宜しいのでしょうか? ついでですが、現存の二股口の塹壕跡は、当時の陣地群の最後列の塹壕で、前縁の胸壁塹壕群は、もはや長年の雨などで、跡形も無いのだ――と思って可いのでしょうか。
2010/11/12(金) 午前 8:28 [ 兵頭 ]
兵頭さま、作戦本部の性質上、兵站拠点の要素も当然あったでしょうね。さて、二股口の胸壁等、各種防衛施設の跡形ですが、未だ自分の眼で確認していませんのでここでは申し上げれません。
ただし、煉瓦積みの掩蔽壕などとは違い、ただ身を隠すだけの簡単な塹壕ですから当然長年の風雪により全貌を把握することは不可能だと容易に想像が付きます。
2010/11/12(金) 午後 3:50
銀ぎつね さま 失礼致しました。小生のような余所者の目から見ますと、戸井要塞に戦時迷彩ペンキがまだ残っていることが驚きでしたが、二股と館城址に戊辰役当時の塹壕(後者はおそらく一聯隊が攻撃用に掘った立射タコツボ)がありありと遺されていることはもっと感動的でございました。残念ですのは、それが地元でほとんど広報されず、認知度も低く、全体像の究明が進んでいそうもないことであります。
2010/11/13(土) 午前 9:18 [ 兵頭 ]
兵頭さま、戸井の第一要塞砲側庫、その屋根にあたる部分のギザギザのウエーブは未だに持もって謎です。そうする必要がどこにも感じない。他に例もない。 さて、戊辰役当時の塹壕の研究ですが、やはり研究者にとっても難問なのかも知れませんね。これと似た例が函館山にもあります。 そのほとんどは観音山、高竜寺山方面、おそらく先の大戦のものと考えられますが、資料が乏しく未だ未解決です。考えられる一つに独立高射砲第31大隊の砲座跡、明治大正の要塞地図からは見出すことが出来ない場所です。
2010/11/13(土) 午後 0:31
銀ぎつね さま 仰る通り、波型意匠の意味は見当もつきかねますね。覆土をせぬので、直線が目立つのを嫌ったのか…? ところで古地図にも見あたらぬ地名につき、何卒ご教示をお願いし度く存じます。明治元年末から2年にかけ、渋沢成一郎率いる彰義隊が「湯ノ川、石崎、三里ヶ原」を警備したと、どこかで読んだのですが、この三里ヶ原とは、今の戸井あたりなんでしょうか?
2010/11/14(日) 午前 10:11 [ 兵頭 ]
兵頭さま、いま彰義隊の詳しい資料は手元にないので正確な答えは見出せません。しかしながら三里ヶ原の地名は聞いたことがありません。彰義隊の担当持ち場は(湯川)〜(石崎)この区間内に(原)を臭わせる村は該当しません。すべて漁村となり大きく拓けた場所ではありません。字から想像しただけですが^^;
ただし古川町から汐泊川を内陸に進むと事情が異なります。
豊原、米原、庵原などがあり、旧名を調べるに値すると思います。
この3町は、旧幕府のお抱え農業試験場でもあり歴史も古いです。
2010/11/14(日) 午後 3:17
銀ぎつね さま お忙しいところ、本当に有り難うございます。なるほど! 飛行場とも近い、あのあたりに可能性が…! おまけにパイロットファームですか…。継続して調べて参ります。すいません、詳しい方には次々とお尋ねをしたくなります。こんどは、大鳥圭介が大野村に進出する直前、鷲ノ木から峠下まで行軍したときのコースであります。日暮山から南は、湖畔沿いを進んだのでしょうか、それとも、じゅんさい沼から山道を南下し、大沼トンネル上から峠下…だったんでしょうか? 大鳥の『南柯紀行』からは、ここが読み取れぬものですから…。
2010/11/15(月) 午前 8:24 [ 兵頭 ]
兵頭さま、大鳥圭介が五稜郭に至る道のり、僕は調べたことはありません。知ってることは最短距離のルートを選んだことくらいです。
したがって当時の旧道を調べれば答えが見出せるのではないでしょか? 資料にあるのかな〜?
2010/11/15(月) 午後 3:33
この時代、子供関連の場所でカメラ撮影って難しいですよね・・ある程度、事情を説明した上でないと女性のアタシでも、不審者扱いされますから・・・
2010/11/30(火) 午後 6:21
むにゅさん、貴女が不審者扱いなら僕は変態と思われたかも^^;
でも本当ですよね〜 登校時の写真撮影は気を使います。
この時も子供たちがいっぱい登校してましてね、ですので全員校舎に入ってからの撮影でした。教師と有意義な話もできましたよ。
2010/11/30(火) 午後 7:00