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今回紹介する建物は地味なコンクリート建築である。
函館市豊川町に今もなを企業として健在である(伊藤商事)
正確な建設年は分からぬが、おそらく昭和10〜12年であろう。
このあたりは昭和9年の大火で焼け野原になっている。
大火後の復興においてこの周辺に鉄筋コンクリートの建築群が多く
建つこととなる。それは防護壁の意味合いが強い!
要するに大火に強い街つくりを試みたわけだ!
まずは画像を,,,,, 立て長窓は明治の時代から続く西部地区伝統の
形状である。
左翼部に残る丸窓 この丸窓は当時の鉄筋コンクリート造に多く見られる。特に大火後の小学校建築には多く用いられてる。
出窓の作りも古い時代の作りであり、また上部建屋縁際の蔦が面白い。建物に這わせるのが通常であるがここは違う。 蔦は地から這うものであるからして、裏側の蔦の縁は切ってないのでしょうね。
正面右側に連立する建物も同時期のものと思われるが、隙間なく建っている。これぞ防護壁の最たるものだ! 柱の装飾に特徴がある。 どちらも地味な建物ではあるが歴史ある防護壁建築群の一つである。
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今晩は。
銀ぎつね先生久方の歴史的建造物記事ですね。待ってました。
函館の大火はとても悲惨な物だったようで、
現地でその史料を見たことがあります。
当時の港町、岩内や小樽でも狭い街並みに木造家屋、海に面した立地から風に煽られ一気に火が広がる構造があったと思います。
最近は大規模な火災の話も聞きませんが
往時の教訓を残す建築的記録ですね。
2011/7/18(月) 午後 7:33
ひろたかさん、この建物もそうですが震災後の復興の早さ。そしてなにより政治力の判断の速さと明確な画図面が示された賜物と思います。震災後ただちに「徳大寺侍従の一行」が視察し、政府、函館市、及び道、加えて軍、などなどで会議すぐさま立案!
今の政府と違って視察で終わりなんていうことはなかったようです。
長たる者は専門地域のある優れた人材を適所におき、また任せることが肝要です。 俺が俺がの管総理には出来ない復興処理と対策でしょうね^^; この大火に強い街作り後、大きな大火に結びつく火事は未だに皆無です。
2011/7/19(火) 午後 0:53
知らずに通り過ぎると、ちょっと古いだけの建物に見えますが、銀きつねさんの解説付きだと、いろいろわかって勉強になります。ポチ!
2011/8/9(火) 午後 11:57
kouetuさん、地味な記事へのお付き合いありがとう御座います。
この丸窓も少なくなってきましたね。当時の流行なのでしょう。
ちなみに僕の母校の小学校にもあります。いまだ健在!
2011/8/10(水) 午後 0:16
銀ぎつね様、ご無沙汰しております。要太郎研究室のまちだです。
この豊川町の鉄筋コンクリート製建築群は、昭和9年大火で銀座通りのコンクリート建築が内部焼失したのを反省に、防火用のシャッターなどが取り付けられた改訂番の耐火建築になります。昔のように大火も起きなくなり殆どは撤去されていますが、十字街電停前の洋品店などには防火シャッターが残っております。是非こちらにも注目して下さい。
あと最後の建物は、東京築地(明石町)に本店を置く和菓子メーカー・塩瀬の函館支店だったものです。羊羹とか美味しんですよ。個人的には函館で塩瀬の味を堪能したかったですね。
2011/9/9(金) 午後 8:24 [ 東京都下・まちだ ]
ほんとお久しぶろですね。いつもながらまちださんの研究熱心には頭が下がります。函館の西部地区も年々その姿が変わりつつあります。
そのうち歴史ある建物も画像でしか見れなくなる時がくるかもと思うと、ちと寂しい気持ちになりますよ。十字街商店街は職場から近いということもあり年中見てます^^;
2011/9/10(土) 午後 1:12
見事な建物ですね。学校っぽいっていうのもわかります。昔は復興事業の建物は結構ありましたが、どれもにわか突貫工事ではなく、何十年経ってもまだ、こんなにしっかりしてる建物ばかりでしたよね…予算ではなく、携わる人の意識が根本から違うんでしょうね…
2011/10/8(土) 午後 8:31
むにゅさん、今の建築法では引っかかるかもしれませんが鉄筋が多いのか地震にも強いです。
2011/10/9(日) 午後 5:31