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地域の歴史NO、22 勝手な推理 南硫黄島編 (みなみいおうしま)
南硫黄島は東京都小笠原に属する無人島である。
東京の南約1,300km 硫黄島の南約60kmに位置する。
砂浜がほとんどなく上陸するに困難な島である。
最高標高は916mは伊豆諸島及び小笠原諸島の中で最高峰である。
以下はウィキペィデア丸写しの編集から!
有史以来初めてこの島と人間が関わることになるのは、1885年(明治18年)末に函館を出航して青森県下北に向かった帆船「松尾丸」(一説には「松王丸」)がしけに遭い、83日間漂流して翌1886年(明治19年)3月に南硫黄島に漂着した事件であった。乗員10名のうち、1名は漂流中死亡し、9名が島に着いた。このうち佐賀喜作、金成広吉、遠藤とらの男女3名が島に残り、6名が島を去った。島に残った3名は3年半の生活ののち、母島の漁船「新栄丸」の吉村浅治船長によって救助された。3名は島で鳥や卵、魚介類を食べ、岩滴を飲んで生活した。この事件以降、小笠原・硫黄島航路の定期船が年に1回汽笛を鳴らしながら、島を周回して漂着者の有無を確認することが慣例となったとあります。
ウィキにあるように松尾丸か松王丸かはっきりしないようである。そこで函館が気になり少しだけ調べてみた。
明治6年時の函館における船舶所有は全体で937艘ある。
明治9年からは函館の好景気に支えられ新造船が次々と造られる。
あまりの発注の多さに函館市内の4造船所だけでは対応しきれず青森県下あるいは室蘭での建造するまでに至っている。
また、このころから和船ではなく西洋形帆船への移行が目立つ。
西洋形帆船の建造は9年から活発になり、毎年増加傾向を続け、12年には、実に39艘もの新建造あるいは購入により函館の定繋船が増えている。 船主であるが半数は函館以外を本籍とする商人である。もっともそれらの多くは函館を根拠に商業活動をしている。
開拓使時代の函館定繋の西洋形帆船数は百十数隻あるあが、その中で
松尾丸の船名があるものはただ一隻! ちなみに松王丸はない。
もっともこれ以降の造船の可能性もある。
そして松尾丸の製造人を調べてびっくり「統豊治(つづき とよじ)」であった。統は(はこだて人物誌) にもでてくる有名人!
また日本人発の洋式帆船(箱館丸)建造者でもある。
松尾丸の建造年は明治12年6月 ま〜あとは省略する。
したがって遭難した松尾丸は同船の可能性が高いような気がします。
もっとも先に述べたとうり勝手な推理ですが.....
統豊治は寛政10年3月松前城下の福山にて船大工の子として生まれる。
2歳の時、船大工続五郎治の養子となり、6歳にして箱館山上町に移住した。上町とは函館の古い町名の一つで現在の弥生町になります。
さて、函館港から南硫黄島までの距離はどのくらいあるのだろうか?
以下はキョリ側(ベータ)を使い直線距離と軌道を繋ぎ合わせたもの。
直線距離でさえ1954.4㎞ある! これが漂流となれば気が遠くなるくらいの距離であるのは間違いない! また平面な地図で見ると南硫黄島が
函館のほぼ真下にあるのがわかる。
ここで気になるのが男女3名が島に残ることです。
女性がいるということは貨物&客船でもあるんでしょうね。当時は貨物の他に人を乗船させ運賃を取るのは常識の範囲ですから客船でなくとも可能! この3名、性別ともかく年齢はわからない。
いずれにせよ船長命令で残ったとは考えにくい。
ま〜それはどうでも良い。問題は偶然発見された月日の長さにある。
明治19といったらノルマントン号事件と同年!
松尾丸がこの先どうなったのかは書かれてない。
したがって推理するにも4つの選択肢しかない。
1、松尾丸はこ後、函館及び内地には寄港できずシケにより沈没!
事件の詳細は島に残った3名の証言から
2、松尾丸は無事内地に寄港、遭難の詳細と3名の生存者がいることを
政府機関に通報! しかしながら政府は生存の可能性が低いとし
捜索しなかった。
3、政府機関は捜索にあたたったが未だ航行技術が未熟で島までは辿 れず、なんども引き返している。いわば捜索過程にあった。
4、松尾丸は無事内地に寄港したが島に残した生存者のことは言わなか った。
この中で4、の可能性は低いと思う。
僕が想像するには中途半端な捜索であったような気がします。
同島が正式に日本領となるのは明治24年のこと。
したがって政府の同島に対する責任感もあまり感じてなかったような
気がしてならない。 で、なければ3年半も島に置き去りにされることもないと思うのです。
この事件の詳しい資料はどこかにあるのかも知れないですが
今回勝手な推理だけで書いてみました。
さて、皆さんの推理は如何に! 事実を知る方は大歓迎!
なにせそこまで調べてないですからね。
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なんか、1のような気がする。多分、そこまで流れていったとは思ってもいなかったような気もするし。
2012/7/9(月) 午後 11:42
むにゅさん、どうせならウィキで詳細まで書いてほしいですね。
ま、これは他の調べごとをしている最中偶然知ったことなので
詳しく調べる気はないのですが^^;
1の回答ですが十分考えられます。
2012/7/10(火) 午後 0:07
この事件以降、小笠原・硫黄島航路の定期船が年に1回汽笛を鳴らしながら、島を周回して漂着者の有無を確認することが慣例となった>
素晴らしい事ですよね、最近は忘れられてる船乗りのロマンですね。
「とら」さん島でお子さん出来なかったのかな?二人の内どちらかと手を取って駆け落ちの途中だった様な…
勝手な想像ですがw
2012/7/12(木) 午前 11:34 [ テラノ助 ]
テラノ助さん、時代背景を感が見ますと函館に入植者がぞくぞくと入ってくる時期に重なります。 当然青森方面からの入植者もいます。したがって里帰り、または冠婚葬祭で内地に渡ったかも知れませんね。 ただし最終目的地がどこかはわかりませんが。
2012/7/12(木) 午後 5:45
こんばんわ
何度か付近を航海しましたがそんなことがあったんですね、船から簡単に上陸できるような場所は無かったような気がします、上陸するのも大変だったでしょうね。
いつもこの付近を通ってグアム方面に航海するときアメリカ領の無人島アナタハンに思いを馳せます。
私は直接知らないのですが先輩から聞いた映画「アナタハンの女王」の話、一度上陸してみたかったです。
2012/7/17(火) 午後 10:03 [ セールフォー ]
セールフォーさん、アナタハンの映画があるのは知ってますが
観たことはありません。 たしかに南硫黄島は上陸するには
厳しい場所ですね。画像で見てそう感じました。
2012/7/18(水) 午後 4:22