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母の退院祝いで寿司をとったのだが、僕の座る場所がない!
茶碗蒸しには見向きもせず、今や割り箸をわらんばかりの勢い!
母の手も気にならん様子! 先ほどまで二階にいたのだが
寿司レーダーに反応があったのか降りてきた。
猫を飼っているお宅にご注意!
寿司の出前を頼む際は必ず猫の寿司レーダーのスイッチを
切っておくことをお勧めします^^;
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こんにちは、ゲストさん
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母の退院祝いで寿司をとったのだが、僕の座る場所がない!
茶碗蒸しには見向きもせず、今や割り箸をわらんばかりの勢い!
母の手も気にならん様子! 先ほどまで二階にいたのだが
寿司レーダーに反応があったのか降りてきた。
猫を飼っているお宅にご注意!
寿司の出前を頼む際は必ず猫の寿司レーダーのスイッチを
切っておくことをお勧めします^^;
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函館東南端
函館東南端、つまり渡島半島の東南端は恵山である。
恵山登山道(左)に曲がらず真っすぐ進むと(御崎)に達する。
バスの場合、函館駅から2時間の場所。
カーナビ画像を見て下さい。函館は海岸線で一周することは出来ないのです。御崎から水無海浜温泉に達するは陸路しかない。そんな場所です。
道がないのでいつもなら真っすぐは進まない。
でも一度は行きつくとこまで行こうと思い車で行ける東南端(を目指した。
なにかあるか? もうすぐ端っこというとこで神社発見! 即ち渡島半島東南端の神社かな???? だと思うのですが。。。。。??
扁額には厳島神社とあります。
社殿彫刻は雲海に鶴
狛犬(獅子) 右側
狛犬 左側
奉納日
鳥居に刻まれし恵山部落舎の文字
さて、いよいよ渡島半島の東南端、嫌でも期待は膨らむ!
が、しかし、 な〜〜〜んもない! 普通っていうか、シンプルすぎるというか、な〜〜〜んか期待ハズレ!
しからば海じゃ、立ち入り禁止だが海に出ればなにかある!
まだ足場はある、この先になにか!
おいおい、そりゃ〜ね〜だろ! 渡島半島の東南端で見た物は
捨てられたテレビであった。
こんな岩や砂利の中でも植物は育つのですね。
渡島半島の東南端のゴミより、渡島半島の東南端の植物のほうが
心和みますよ................(@^^@)
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地域の歴史NO.19 陸軍マルレ特攻基地
終戦末期、陸軍は函館近郊の鹿部町大岩付近、及び現函館市南茅部地区岩戸に特攻艇約10隻を配置、舟を納める洞窟や連絡用トンネルも作られ敵の本道上陸に備えていた。
正式名は 四式肉薄攻撃艇 、通称マルレ艇である。
陸海軍共に類似の攻撃艇を保有するが、海軍では震洋(しんよう)がその特攻艇に値する。 陸海軍の違い ↓
海軍の(震洋)は始めから特攻用として開発され、艇内に爆薬を積んだ特攻兵器だったの対し、マルレ艇は本来水際防衛を意識して作られた艇であった。しかし特攻兵器として使うにあたりに艇尾に爆雷懸架する形式になっていた。 本来の目的は至近に爆雷投下して離脱するという生還の可能性をもたせる作戦であったが、技量もそれほど要らないということで体当たり作戦が採択された。
全長5.6m 全幅1.8m 喫水0.26m 満載排水量約1.5t
エンジン 日産自動車製トラックエンジン(70〜80馬力)
函館近郊の部隊の艇は七飯浜の日魯漁業造船所で造られた。
画像は海軍の震洋
ちなみに元参議院議員である(故)田英夫氏は海軍の震洋特攻隊の隊員であった。所謂学徒出陣である。(横須賀海軍航空学校入隊)
海軍の操縦者は元々航空学校及び予科練等の飛行兵出身者が多い。
理由は簡単、もうおまえらが乗る飛行機はない! このようなものであったらしい。 陸軍では戦車兵や輸送隊などのエンジンに携わる者が多かったようです。
攻撃方法
敵軍の上陸海面を予想して近くに洞窟などを利用した秘匿基地を作り、上陸船団が近くに来ると夜間に数十隻からなる攻撃隊で一斉に攻撃を仕掛け、体当たりもしくは至近への爆雷投下で艦艇もしくは輸送船を撃破するというものであった。 画像 米輸送艦に体当たり攻撃した特攻艇の残骸
(操縦者死亡)輸送艦、側面に穴があいたものの沈没には至らず。
今回、鹿部町及び南茅部に独自調査に出かけました。
この手の資料は極めて少なく、自分で確かめるよりない。
何人か尋ねた結果、ご年配漁師から有力情報を得た。
以下がやりとり。
すみません、この辺りに昔小型艇の特攻基地があったと思うのですが、ご存じでしょうか? あ〜それならここから約3キロ先だ、行けばすぐわかる。 お〜ラッキ〜♪
そして3キロ先、まさに該当するものを見つけたが、ぷぷぷ。これは間違えるのも仕方がないと思う物件でした。 いちを画像を
奥行きは20メートルもなく、一見して格納庫、海はすぐ下にある。
だが格納庫ならば入口は海に面してなければならない。
海上から発見されないために掩蔽の意味で横向きもあるが
この物件は「旧黒羽尻1号トンネル」であり格納庫跡ではない。
この辺りの海岸も築港や護岸工事が進み、もはや痕跡はないのかも知れない。 それはそれで良いのですが.......
唯一怪しいと思われる場所、格納庫から連絡通路を経て海へ繋がる。
もちろん未確認です。そこまで行けませんでした。
確率は低いかも知れませんが、違うとも言い切れない。
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軍川と書いて(いくさがわ)
誰しもが知る大沼国定公園、その大沼の旧駅名は軍川であった。
大沼はアイヌ語でポロトー(大きな沼)を意味し、軍川はイクサップ
(渡し守)に由来する。 本地開拓は相馬藩、野に至っては土を耕し畑を造り、山に至っては切った以上に植林し、川海に至っては水産事業も奨励 した軍川住人の先人である。
函館市史通説編2 4編序章3節2-2によれば
ただし嘉永2年(1849)、奥羽凶作の際に、窮民した数戸が津軽海峡を渡って11戸が入植した記録が残っている。
だが相馬藩函館附近開墾事蹟の記録では、石川郷45戸、軍川53戸とはっきりとした数字が記載されている。
いずれにせよ本格的な開拓は相馬藩士といえよう。
まずは画像を1枚、
写名は「軍川村農夫松之助宅」とある。 撮影年は明治5年
正面に座るは家主の松之助であろう。 右は妻か娘でしょうね。
開拓に至っては武士が農夫を連れてくることを期待するのだが、武士だけの入植もある。 明治5年で松之助の名は武士の出のようにも思えるが詳細まではわからない。 左に見える茅葺きは馬小屋でしょうか。
ん〜高さがなんとも..........ただの納屋かも?
軍川とは地名でもあるが、その名のとうり川もある。
軍川から見た駒ケ岳
ごらんのとうり川があっても水田には適さない土地! やはり火山灰地だからだろう。大沼では昔から何度か沼の縁に水田が作られた。
だが大雨が降ると水没し、旱魃(かんばつ)もあって成功はしなかった。
昭和25年移行は食糧難もあり水田は存在した。
しかし急速な宅地化が進み、また食糧難も解消したことから昭和45年に
解散、今は畜産業が盛んな地域!
元々 安政2年(1855年)の箱館開港時に、外国人への食糧(肉牛)供給のため軍川地区に牧場が開設された記録があり、畜産には最適な地域と言えよう。 大沼黒毛和牛の飼育場もこの軍川地区にある。
すきやき最高〜♪ このような牛舎がいくつもある。
まさに北海道〜〜って感じです。
こちらは牛乳提供組!
軍川と放牧場
薪の囲いから見た駒ケ岳
このあたりの神社の社紋(神紋)で九曜紋を確認できなかったのが
残念でならない。相馬藩の家紋である九曜紋を確認したかった。
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エゾリスの習性
エゾリスが高木に居てこちらを観察しているときは動かないことが多い。
それは本能なのだろう。 彼らは天敵が去るまで動かず待つ習性がある。これはその良い例だ! 右手を胸にあて、左手は下げている。
これは同じ写真をアップしたのではなく、あらためて望遠で撮影したもの。
しぐさがまったく同じ。 ようするに動いてない。
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