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地域の歴史NO.18 幻の空港 (陸軍赤川飛行場)
昭和18年6月、陸軍は道南の八雲に航空基地を建設する。
これが道南初の本格的な軍用滑走路!(陸軍航空基地)
そして太平洋戦争末期の昭和20年4月、ここ函館、現美原1・3丁目、昭和1丁目の一部を造成し総面積50万7210平方メートル
滑走路、幅260メートル、長さ1900メートルの陸軍用滑走路を建設をすることとなる。一角には防空壕を附設!
説明の前に3枚の画像を貼ります。(グーグルマップ参照)
画像1 大凡の位置 (赤線)
画像2 拡大図
画像3 昭和23年4月、米軍が撮影した同滑走路航空写真
(馬鈴薯畑の中にある)
この滑走路建設に従事した作業員は延べ200万人を超える!
建設労働の主役は市民の勤労奉仕によって支えられた。
この時期、中高等学校も学業が本業ではなく勤労奉仕が主な授業となっていた。市民は町内会単位、学校は選抜、
生徒は飛行場建設に留まらず、徴兵により労働不足と化した工場、あるいは農家へと派遣されたのである。
函館西高等学校 学校日誌 昭和20年4月25日抜粋
「本日より赤川方面緊急工事勤労奉仕作業開始さる。そのため教職員勤労奉仕に出向く。本校生徒裏の校庭に於ける元町町会勤労作業に協力す。4年ホ組防空壕掘りに協力、塚原教諭指揮」とある。
画像函館市史 学徒の勤労動員より抜粋
労働に際し機械化されたものは皆無に近く、現場までの移動は徒歩
各自スコップを肩に、防空頭きん・水筒・弁当持参で隊列を組んで現場まで移動する。
次の画像は飛行場配置図であるがかなりいい加減な地図である。
だが注目するべきは滑走路周辺の土地がかなり広範囲ということがわかる一枚である。
滑走路右手の(Village office)は村役場の意味
いずれにせよこの基地も旧戸井線と同様完成を見ることはできなかった。仮に完成していたらどうだったか?
利点 周囲は馬鈴薯その他の畑であり、たとえ爆撃されても被害は最小限度に抑えられたと思う。
欠点 周囲に山や谷などの障害物がなく爆撃に際しては水平爆撃も
急降下爆撃も可能な攻撃しやすい場所であったと思う。
どの方角からも侵入は可能。後は高射砲の位置を把握するだけで問題はないし、またB−29等の爆撃なら高射砲もとどかない。
戦争終結後、この飛行場は荒れ地と化すのだが、函館市の人口増加と亀田町との合併により急激に市街化の波に飲み込まれる。
滑走路の一部は、現産業道路となり函館市の産業を支える動脈となったのである。
画像は産業道路、右側のフェンスは亀田中学校
今はもう飛行場の面影はない。ただ亀田中学校のグラウンドの赤土に
わずかな滑走路の面影を見るのみである。
その昔、ここが軍の滑走路だったことを知らずに練習に励む子供達。
参考資料
赤川飛行場配置図 資料番号 1811265485
函館市史 別巻 亀田市編 第4章 第9節 (戦争の影響及び赤川飛行場)
写真 国土地理院 アーカイブ 函館西高等学校 学校日誌
尚、陸軍基地ではありますが、資料を読むにあたり大湊海軍建設部の
印も確認してます。 戦争も末期ですから行く行くは陸海軍共同で
使用することも考えていたのかも知れません。
また、20年、4月には疾風が完成してましたので迎撃用として
疾風がこの滑走路に並んだかも?
※戦後この滑走路に2基の米軍機が着陸してます。
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