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「旧戸井線その1」戸井線とはいわゆる一般的に言われる廃線とは異なる。この路線は完成を見ずして廃止となった幻の路線である。 また、この路線の紹介に関する文章は必ずといっていいほど津軽要塞の要所である汐首岬要塞への軍事物資を運ぶことを主な目的とするといった内容である。確かに結果的には軍部の後押しで建設された路線には違いない。 だが、それより以前から地域住民によって建設要望があった。 函館市湯川町。ここから海岸線の町は下海岸と地元の人間は言う。 当時、この地域は度重なる土砂崩れに悩まされ、度々陸の孤島と化したのである。したがって住民にとって戸井線は悲願でもあったのである。ことことは他の軍事専用路線とは大きく異なるのである。 また、軍がこの路線に目をつけた理由がもう1つある。 それは船舶輸送の短絡化である。この戸井町は 青森県の大間地方とは海路で近い。余談ではあるが青森側の廃止路線である大畑線は大間まで計画されていた。つまりは大間線として、この戸井線と連絡する予定であったのである。 戸井線の名残は函館市街地にも多々存在する。その有名所が自転車・歩行者専用道である緑園通りであろう。本来ならばここから画像を載せるところではあるが、この通りは緑園の名のとうり新緑の季節がもっても相応しい。したがって順序が逆になるが、その先にある名残からの紹介となる。 画像は函館市、汐首川沿いに残る陸橋跡である。 このすぐ先が画像の橋脚である。建設時が太平洋戦争と重なり極端な資材不足であった。故に鉄は貴重であり、鉄筋の使用はない。明治の要塞の工法に逆戻りである。 橋脚全体像 この路線の建設にあたり、物資不足の他にもう1つ重大な問題があった。それは建設にあたる労働者である。若い労働力は戦地にありて、限られた労働力での建設を余儀なくされたのである。この路線は昭和 18年に廃止されたが、これより後、昭和20年4月からの赤川飛行場建設では延ベ200万人を超す市民の動員(勤労奉仕)があったと言う。 画像は戸井線とは直接関係がないものの、労働力不足を見るよい資料である。出征兵士を出した家の玄関先にはこの鉄板があるのである。右は慰問袋。 また食料事情も芳しくはなく、当然ではあるが配給である。ついでですので配給帳。 正式名(家庭配給物資購入通帳)の画像を載せます。尚、この2枚の画像は函館博物館(分館)所蔵である。函館市発行の配給帳であり、個人の住所と名がありますので修正して載せてあります。 さて、物資不足、加えて労働力不足の中、ちゃくちゃくと進められた工事でありますが、路線建設の性質上平坦地ばかりではなく、山や谷間、またトンネル等の難工事も多々存在したのである。 画像は汐首灯台付近のアーチ橋である。戸井線の情報は当然米国側も知っていたであろう。仮にこの路線が完成されていたのであれば函館空襲の際には確実に攻撃目標となったはずである。 アーチ橋上部。 上部を歩く危険性は少なく容易に歩けるのだが、なにぶん野生馬の通路らしく、馬糞の山である。また草木もあるため枯れ木状態の4月中旬までが見学するにベストと思う。ただし歩行にさいし馬の確認を忘れるべからず! それだけが注意するところである。 旧戸井線(その1)の記事はここまでとしますが、後に続きを書きます。 最後は橋脚上部に残る4つの十字型。1本の橋脚で4ケ所の固定部が分かる画像と思います。 |

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