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地域の歴史NO.6 米軍進駐。画像資料の中に過去画像を使うことお詫び致します。 さて、まずは過去画像の1つである米軍上陸写真。「米第77師団第306機動砲兵隊」である。 上陸地点は函館市海岸町定温倉庫岸壁前。本道上陸の第一歩であった。 驚くことに舟艇から揚陸したブルトーザーや機械を持ってして岸壁北側の浅瀬の地均し工事を開始し僅か一時間で完了している。即ち上陸箇所が1つ増え、2ケ所となる。一時間で完了!旧日本軍であれば モッコとスコップ故、数十時間はかかるであろう。 尚、上陸日は昭和20年10月4日であり、これが函館上陸の日と思われがちだが、実際には9月に先遣隊がいて、旧金森百貨店などを視察している。 砲兵隊の主だった任務は函館山に残る要塞砲をつぶさに調べ上げ、それを破壊することであった。 また、函館山に限らず、汐首砲台、恵山砲台、白神砲台等も該当する。 上陸人数であるが資料がまちまちで、はっきりとした数字は出ない。北海道立文書館蔵の駐屯地別総兵力によればパーネル代将以下4,297名とあるが実際はそれ以上の軍隊が駐留していた。 また、代将とは准将のことであり後に少将に昇進している。 当時の函館には主だった軍事施設も、また軍用飛行場もないし、毒ガス製造のような特殊工場も存在しない。特攻基地としては鹿部に陸軍四式連絡艇の部隊があった。船に精通していない陸軍であるため、操縦者は戦車隊や自動車隊といったエンジンに携わる兵士の中から選りすぐりの者を選び訓練していた。 その程度である。次に進駐軍が駐屯するということは当然宿舎が必要となるが、その内訳を簡単に説明する。画像は函館西部地区(末広町)にある五島軒。創業明治12年。歴史ある洋食レストランである。 この五島軒こそ、函館における米軍進駐軍の司令部が置かれた所である。常駐兵員数は約40名。引っ越し料はわずか七千円、貸し賃は一ヶ月三千五十円と雀の涙ほどである。しかもコック、ボーイ、バーテン計8名を残すよう強要され、加えて部屋は造作を変えられたのである。付け加えるが進駐軍引揚げのときには備え付けの家具もだまって持っていかれ大損害を蒙るのである。これより先、本来の営業方針は適わず、函館市指定外食券食堂として再出発している。 それでも頑張り抜きこれより5年後、即ち昭和25年にやっと返還されたのである。そして10月には本来の場所にて再開したのである。 画像は函館新聞。昭和25年10月8日付けの再開広告。尚、当時の町名は相生町である。 (旧丸井今井百貨店函館支店)この丸井さんは3階より上の階すべてが接収され約350名の米軍が駐屯した。そしてここに憲兵隊(MP)本部を置く。350名の内50名は憲兵隊(MP) 後に憲兵は7〜80名と増員される。その他の接収と駐屯数を簡単にのべればおおよそ以下になる。 同じく306部隊が水産学校に約1000名(後の水産高等学校) 304部隊が千代台の函館重砲連隊兵舎に約600名 同じく304部隊が谷地頭の津軽要塞司令部に約300名(衛生担架隊)と思われる。 千北ビルデング。(函館信用組合仙北ビル)に約500名 部隊名? 金森ビルデング。(金森ビル)に約500名 部隊名? 共愛会社(総合社会福祉館である共愛会館)に衛生隊が約300名 函館競馬場に約100名。部隊名? その他将校用宿舎として旅館があった。約30名 学校は接収対象としては珍しいものではなく、むしろ好都合である。 余談ではあるが、戦争末期、即ち昭和20年4月においては遺愛高等女学校が函館連隊区司令部用に校舎を接収されている。だがこれも一例に過ぎない! 次の画像は日本軍需品リストを点検する様子である。中央の人物がバーネル准将その人である。 もっとも軍需品のほとんどは米軍が上陸する前に処分してたであろうが? 函館護国神社。 これは調査ではなく、観光気分の一コマである。水兵帽が目立つので兵士の休日の日であろうか? それにしても数ある神社の中でなぜ護国神社なのだろう? さて、このような能天気な米軍とは違い市民はすこぶる不機嫌であった。それにはまず米軍に対しての勤労奉仕があった。戦中の勤労奉仕ではお国のためと割り切れた部分もあろうが、こと米軍に対しては屈辱以外のなにものでもない。当初は無報酬であったからである。 接収物件については後に将校用住宅として民家が数件接収対象になっている。 当時の当家はお気にめさなかったようである。 雨が降ればバケツが必要だったからか?(母談) 敗戦となり進駐軍が来るとなれば、官庁の建物から日章旗が消え星条旗を掲げなければならない。 後にプットマン陸軍病院となる共愛会館は「社会福祉法人」理事長である大上真宏氏はなんと 進駐軍が来るまで堂々と屋上に日章旗を掲げていたという。 その日の夕方、米軍がピストルをつき付け 各部屋の案内を命ぜられたとある。 画像は先遣隊が視察した旧金森百貨店。現ウイニングホテル。当初は金森洋服店(大正10年) 後に増築し金森百貨店となる。(昭和5年)函館市末広町。 長年放置状態であったが大改修の後よみがえる。船を思わせる丸窓は当時と同じである。 電車道路側はまた趣が違い、より当時の面影を残す。1度宿泊してみたいホテルの1つである。 参考資料 北海道新聞該当記事 函館新聞該当記事 北海道終戦史 函館市史 地域史研究はこだて
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