なんだか函館

函館山に残る要塞跡や西部地区の町並み、その他地域の紹介ブログです。気軽に見て下さい。

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地域の歴史NO.11(コシャマインの戦い)その2 1457(長禄1)年5月14日、長万部の首長コシャマインを大将とするアイヌ軍と、松前藩の藩祖・武田信広率いる和人との戦い。
なお、今回その2では史実にのっとり、できる限り資料を読み書いてるつもりですが、間違いがあるかも知れまん、そのときはぞうぞご指摘ください。


ここでもう一度戦いの発端となった事件を「新羅之記録」より引用します。新羅之記録によれば
志濃里の鍛冶屋村に家数百有り、康正二年春、乙孩(オッカイ、アイヌの男)来て、鍛冶に刀(まきり)を打たしめし処、乙孩と鍛冶と刀の善悪、価を論じて、鍛冶刀を取り乙孩を突き殺すとある。
なお、新羅之記録は函館市中央図書館においても貴重資料の一つであり、閲覧にあたっては事前申告が必要である。また、借りたとて読めるわけでもなく、僕の場合「新北海道史、第7巻」の中にある、読みやすく編集された新羅之記録」を参考にしてます。 また通説ですので少年としますが、新羅之記録にも、編集されたものにも少年の記載はなく、ただ乙孩とだけあります。 

まず始めに前回の画像で紹介しました志苔館の成り立ちから説明します。
もともとこの道南地方に住み着いたのは奥羽の戦乱に敗れし小豪族。これら蝦夷地に逃れ渡った者たちは渡島半島の東西にわたる沿岸の要所に館を築き、地域の支配を目論む。これら豪族によって道南に建造された12の館の一つが志苔館である。館主(小林重弘)  分かりやすく12の館の位置、おおよそではありますがアップします。なお、ピンク色で識別されている館はすべてアイヌ軍によって陥落した館である。青の2つの館だけかろうじて陥落はまぬがれた。クリックで拡大

イメージ 1


事件が起きたのは1457年の春であり、その年の夏にはこの志濃里での事件が発端で、各地でアイヌが和人を襲撃する騒動があった。志濃里においては鍛冶屋村が襲撃される。その後志苔館を襲撃するも秋には鎮静化する。これは和解ではなく、季節的なことである。季節は秋、アイヌにとっては狩りの季節である。エゾジカの出産期は5〜7月。したがって親を狩っても小鹿は自力で成長できる。 そのうえ川には鮭が遡上し、山には木の実が豊富である。この時期はアイヌにとって、もっとも諸々のカムイに感謝をする次期である。 だが、志苔館のことは忘れてはいなかった。 これがコシャマインの第一次反乱である。

「コシャマインの第二次反乱」

明くる年の1457年5月14日、オシャマンベの首長コシャマインを大将とした、アイヌ同盟軍が蜂起!
西部、東部、北部の道南アイヌ合わせて約9,000〜10000の兵で南下、目指すは志苔館。
総兵力300人の志海苔館を圧倒的兵力で落とすが、館主である(小林良景)は箱館に落ち延びる。
アイヌ軍はこれを追うようにして箱館に進軍、そしてすぐさま攻撃し、箱館も落ちるのである。
ここにアイヌ軍は箱館と言う大きな拠点をものにすることになる。 なお、小林良景は箱館館主である
河野政道と共に茂別館に逃げ込む。 これが3日後,即ち1457年5月17日である。


ここでもう一度「志苔館跡」の画像を貼ります。画像は志苔館跡内から函館山を撮ったものです。
この日はあいにくの曇り空でしたが、晴れた日にははっきりと見えます。


イメージ 2



ここに立ちますと小林良景がよく箱館まで逃げ延びれたと関心もし、また疑問も残ります。
四方に土塁が巡らされた短形、高さは北側の土塁で4〜4.5m、南側は1〜1.5m
しかも二重壕。東西の土塁は途切れ出入り口となっているが、当然そこはアイヌ軍が待ち構えているはず。なんらかの方法で館下の海までたどり着いたとしても船は抑えられてるであろう。
そうすれば残る脱出方法は馬による強行突破だったのだろうか? この館、守る分には使えるが
いったん守りがくずれ、攻め入られ、そのうえ大軍で包囲されれば退路がないような気もする。
が、しかし逃げ延びた。

箱館に逃げ延びた小林良景だが、箱館も長くは持たず、すぐさま陥落する。
箱館の特徴は東西92m、南北115mで同じく土塁を要し、空堀を巡らしている。唯一志苔館と違うのは
背後を山に守られていることだけである。最悪の場合夜陰にまぎれて山を登り、函館山の裏手、
寒川から船での脱出もできよう。 が、これもまた脱出方法は分からない。

画像は箱館跡。なお、箱館は通称であり、宇須岸河野館が正しい。

イメージ 3

イメージ 4


考えて見ますとコシャマインがとった戦術は理に適っていると思う。まず道南の最南端を抑え、本州との退路を断つ! 火を放った形跡はなく、「(資料)が見つからない」仮に火の手があがれば、青森側から見え、援軍が来た可能性もある。 しかし、これはあくまで想像!火の手の有無は分かりません。

箱館を拠点としたアイヌ軍は、小林良景、河野政道らを追うようにして西へ進軍する。
これより茂別館の攻撃に入るが茂別館は天然の要害に守られた居館であり、難攻不落。
コシャマインの戦術は数々あろうが、その中の一つで進軍の早さがある。茂別館がなかなか陥落しないと見るや、茂別館を包囲しつつもすぐさま別働隊を編成し、さらに西へと進軍させる。
この辺りも戦術に長けている。 少なくとも、茂別館落城にこだわり、そこに兵を集結させたままでは
他の館に戦支度の時間を与えるだけである。

画像は、それぞれの城主(館主)とアイヌ軍の進軍コース。ごらんのとうり、いかに茂別館が難攻不落と言えども孤立しているのが分かる。 ※クリックして拡大

イメージ 5


話は飛びますが、僕はなぜこの事件が発端でこのような大戦争が起こったのか疑問でした。確かに
殺人は大問題ですが、それまでにもイザコザはあったはず。なのにどうして? 考えられることは一つ
殺された乙孩の身分。そして一つの資料を見つけた。資料の一つの中にこうある。近くのコタンの首長の子と..... 近くとは志苔館の近くの意味、だとすれば恵山のコタンではないであろうか?
仮にこれが事実とすれば第一次世界大戦の構図と似ている。 また、ここまでの大戦争ともなれば
信じずにはいられない。 これは大戦争となるべくしてなった事件でもあると。
加えて、小林良景が鍛冶職人を処罰した形跡もない。てか、資料が見つからない。
しかし、近くのコタンの首長の子の文字を見たとき鳥肌が立った。 あまりにも十分なきっかけである。


次回コシャマインの戦い その3に続きます。

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