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地域の歴史NO.11(コシャマインの戦い)その3 前回その2では(茂別館)攻撃までであり、また別動隊の西進までであった。 したがって今回はその後の戦いとなる。 勢いに乗ったアイヌ軍は茂別館を包囲しつつも西進し、中野館、脇本館、穏内館、覃部館、と次々に陥落させ、松前の大館を包囲する。大館の下国定季は茂別館城主(安東政季)の一族ではあるが、すでに 茂別館が包囲されていること知り、花沢館の(蠣崎季繁)に援軍を求める。蠣崎季繁もまた、その援軍要請を受け、大館に兵を派遣するが、その兵もアイヌ軍の伏兵により撃退されるのである。 結果(大館)は孤立し、後に陥落、城主、下国定季は捕虜となる。 勢いに勝るアイヌ軍はそこから北上し、禰保田館、原口館、比石館と攻め落とし、残る館は 蠣崎信広(武田信広)が守る花沢館と未だに包囲されている茂別館の2つの館だけであった。 なお、志苔館、箱館とアイヌ軍に追われるように敗走を続けた結果、花沢館には各館から逃れてきた館主や兵が多く集結することになり蠣崎信広(武田信広)には必然的に総指揮を委ねた。 これは各館主たちの協議の結果である。 ※康正二年夏より大永五年春に「迪」(いたる)まで、東西数十日程の中に住する所の村々里々を破り、 者某(しゃも)を殺す事、元は志濃里の鍛冶屋村に起こるなり。生し残りし人皆松前と天河とに集住す。 「新羅之記録」より。 ここに2つの館を残し10の館の落城となった。 この戦争の主な武器は双方共に弓であった。もとより、武士の世界においても鉄砲が普及するまでは もっぱら弓が支流を占めている。 これはまったくの余談ではあるが我が国に(ボーガン)や (クロスボウ)が普及しなかったわけは、農民戦と武士戦との違いである。 ヨーロッパや中国大陸の兵士はもっぱら農民であって普段(弓)に接していない。 だからこそ鍛練もいらぬ(ボーガン)が普及した。 一方武士の世界で弓は下級兵士の武器ではなく もっとも鍛錬すべき武芸の一つであった。 刀などすぐに刃こぼれする武器よりもはるかに優れている。 この時代はまだ武士の時代、したがって槍持ちはいても弓矢が支流なのである。 画像はアイヌの衣服及び弓など、(明治10年代の撮影)※北海道大学付属図書館所蔵 樺太アイヌは長弓を使うが、北海道アイヌは短弓である。また樺太アイヌと北海道アイヌでは鎧の 形状も違うがそれは省く。 この戦での弓戦、いったいどのうよなものであったのか? 和人(武士)の弓は長く、射程距離も命中率もよい。一方、アイヌ軍の弓は射程距離は短いものの、数で勝っている。だがそれだけではなく、和人とアイヌ軍の弓とでは決定的な違いがあった。それは(毒)である。 毒はアイヌにとっては神から授かった生活の知恵である。 通常(熊)や(クジラ)狩りには「トリカブト」の毒を使うが、狩る獲物によって、毒の種類は大きく異なる。 たとえば川魚を獲る場合、川に毒を流し魚を獲る漁法だが、この場合は毒性の強いトリカブトを使わず、オニグルミの葉樹皮果皮を砕いて川に流し、麻痺して浮いてきた魚を獲ったりする。 その他使用する毒。フグ毒、ドクゼリの根、エイの毒針、蜂の毒針など数十種類。それに加えて毒の効果を増強するためにさまざまな物を混入した。また矢毒の製法は各部族、各家々で違う。このことは狩りの成果を左右するから秘事であったのであろう。一子相伝だと秘法を自分の子の中の一人だけに伝えることだから、各家の秘伝だったはずである。 アイヌはこのように威力が少ない弓であっても毒を使用することによって威力を増大させることを普段の狩りから身についている。 画像はアイヌの仕掛け弓による熊猟の風景である。画質が悪く鮮明度に欠けるが弓が短いことが分かるはずである。この短さでであっても矢先にトリカブトの毒が塗布されており、その威力は莫大である。 ※北海道大学付属図書館所蔵 さて、このような戦闘の中、今や和人の総大将となった「武田信広」は大館に囚われの身となっていた 下国定季の救出に向かう。信広のとった戦法は夜陰にまぎれて花沢館を抜け出し、大館を正面攻撃。 また、それと同時に大館の裏山から逆落としに大館裏を急襲。つまりは兵を2手に分けていた。 これにより下国定季の救出に成功。ここから信広軍の反撃が始まったのである。 さらに信広は今やアイヌ軍の拠点となっている箱館をも急襲することを決め、そのまま休まず進軍する。だが、大館の奇襲は成功したにせよ数に劣る信広軍はアイヌ軍の敵ではなかったはず。 残る戦術は一つ! アイヌ軍総大将コシャマインを打ち、アイヌ軍を崩す! 一説では、武田信広がコシャマインに和睦を申込み、それに乗ったコシャマインをだまし打ちした旨の 話もあるが、それは僕は違うのではないかと思う。 今、力で押して数でも勝っているアイヌ軍が和睦に傾くとも思えない。仮に和睦があるとすればコシャマイン側から信広に対して行うのが妥当ではないか。 勿論それには一方的な条件を付ける。また当然でもある。 さて、箱館奪還を目論む信広はここでも策を練る。攻めるに難い要害の地である箱館を正攻法では失敗の可能性が大であるため、総大将であるコシャマイン父子を城外に誘き出して討つ作戦をとる。 このことが和睦説に繋がった可能性もある。 いずれにせよ信広は現北斗市(七重浜)辺りでコシャマイン父子を打ち取る策をとる。 まずは画像から。 今はまったくの自動車道であり、なんの痕跡もないが 当時は密林であった。 「北斗市七重浜自動車道」 七重浜の密林に伏兵を忍ばせ、残る軍で箱館を正面から攻め立てる! ある程度の攻防戦の内、信広軍は 敗走を始める。これぞ勝機と見たコシャマインはただちに追撃を始める。 追撃してきたコシャマインを七重浜の密林に誘導し、そこで強弓をもってコシャマインを討ち取ったのである。 矢を射ってしまえば、後は刀でも、また至近距離からとどめの矢を射ることができる。 画像は七重浜の海岸と函館山。 七重浜と言えば幕末でも戦闘がおきた地であり因縁深い? 右手、茂別館と続く海岸線 そして総大将を失ったアイヌ軍は箱館を捨て一斉撤退したのである。 個人的な考えではあるが、和人が北海道に住み着くことはアイヌにとって迷惑だったのか? 僕はそうは思わない。アイヌは古くから、日本本土と交易を持っていた。日本書紀にもアイヌのことが書かれていますので、本土との関わりあいはそれ以前となる。主な輸出品は毛皮、これにはアザラシなどの海獣も含む。食料品では干鮭(トバ)などの乾物、また猛禽類の羽などもある。 詳しくは分らぬが、たぶん弓矢の(ノウ)矢羽の部分の素材として使われていたであろう。 事実、鶏、鴨などの羽に比べて、猛禽類の羽は最上品として珍重され、中近世には武士間の贈答品にもなっている。 これはまったくの余談ではあるが、鷲や鷹など、その個体からは多くの羽が取れるであろうが、その中でも尾羽の一番外側の羽が最高級品である。 この部分のことを(石打)と言うらしい。 交易には津軽海峡を渡らなければならない。時には海流に流され帰らぬ者もあったであろう。 そんな危険な海を渡るくらいであれば、道南の数か所に和人が住み着いて交易の拠点となってくれたほうが好都合であったはず。問題は和人のおごりである。正当な価格で交易し、また評価していれば共に栄えたであろう。初めは友好を装っていた和人であるが、だんだんと支配を強め、価格のつり上げもエスカートし、またアイヌ側に渡す商品も良質なものから粗悪品へと変わっていったのである。 このコシャマインの戦いをきっかけに、さらにエスカレートの度合が増して行くのである。 これにてこの記事は終了します。 なお、デリケートな資料だけあって人物などの写真の許可は得られませんでした。したがって画像を貼ることはできなかったことお詫び致します。
当然、僕もこの決定に従います。 |

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