なんだか函館

函館山に残る要塞跡や西部地区の町並み、その他地域の紹介ブログです。気軽に見て下さい。

要塞の名残

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要塞の名残その3

本日時間があり千代台球場近くに出かけ写真を撮ってきました。 前に撮ったのは数年前であり、まだ存在するか心配でありましたが、見事に残ってました。 まずは、なんの説明もなしで画像を見てもらいたい。 なにを撮っているのか?


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後ろの建物は市民プールであり、この位置は市民プール正面から左側面ということになる。勿論プールを撮ることが目的ではなく、この看板を立てかけられた門柱を撮るのが目的である。


イメージ 2



側面


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ではなぜこの門柱が要塞の名残に結びつくか説明します。 函館要塞司令部は元々千代台にあり、後に
津軽要塞司令部となり谷地頭(今現在の谷地頭団地周辺)に移転。 この場所は函館重砲兵連隊があった場所なのです。戦後すべて取り壊されたはずが、どういうわけか門柱2柱だけが残っている。当然市の管轄だが、残っている理由までは分からん。 活用方法は多々あれ、看板取り付け用ならば寂しい限りである。


画像は昭和初期の同じ場所である。


イメージ 4



さすがは軍施設の門柱!長い年月にさらされても傾きはまったく見られない。


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門を固定していた鉄製金具 また、垂直に立っている電信柱と比べて欲しい。やはり傾きはない!
明治、大正、昭和と、いったい幾度の地震があったであろうか。 いったいどのような基礎なのか?


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門を固定していた鉄製金具と、びょう(拡大図)


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たかが門柱! されど歴史ある貴重な門柱である。是非、壊さず、保存して欲しいものだ。
要塞の名残(その2)

前回の要塞の名残の紹介では(立待展望台)(住吉水尺)(神社内の砲弾)の3つであり、それぞれ違う観点からの紹介でした。今回は標柱に的をしぼり紹介したいと思います。
まず初めに「津軽要塞」の標柱。場所は函館山西方(観音山)刻まれた文字が見えずらいのですが、これでも見えるほうです。この津軽要塞標柱は函館山に数本。麓の坂にも数本ありますが、すべて文字が見えにくくなってます。その理由を述べる前に画像を見て下さい。尚、赤い液体のようなものは、目印に付けたペンキである。 夏場はまったく見えなくなるので市が付けたのであろう。

イメージ 1


次の画像は同じく観音山に残る「海軍用地漂」7号であるが、こちらのほうが文字を読み取りやすい。
ちなみに、手持ちの水筒の水(ポカリ)をかけたので、なおさら見やすくなっている。
だが、本来であれば逆でなければならない。なぜなら海軍標柱は明治のものであるのに対して、津軽要塞標柱は昭和に入ってからである。函館要塞がその守備範囲を広げ、津軽要塞に改名したのは昭和2年である。故に海軍標柱の方がはるかに長い年月を経過しているわけである。 では、なぜ津軽要塞標柱の方が古く見えるかという疑問が残る。 だが、実際は同時期のものであり、函館要塞の文字を削り、そこに津軽要塞の文字を刻んだに過ぎないのである。やもえなく、 彫りが甘くなったのであろう。


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海軍の単一標柱が多い中、主力である陸軍の標柱は少ない。画像の陸海軍並んだ標柱は有名だが、ではなぜ並んで立っているのか? その理由は地形にある。この観音山周辺では陸軍と海軍の担当持ち場が微妙に入り乱れている。 この近くに海軍水雷衛所があると思いきや、すぐ側に陸軍施設があるといった具合である。 このあたりの探索はもっとも頭を悩ました場所でもあった。

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この陸海軍標柱が立っている場所にはスペースが存在する。資料によれば、ここには海軍の兵舎や炊事場があったようである。 炊事場の名残であろうか? 2〜3小さな痕跡が残る。

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次は標柱とはまったく関係のない、いわば記念碑であるが、これもまた要塞の名残と言えよう。
碑に刻まれている文字は「皇太子殿下御野立所」とある。皇太子殿下とは後の大正天皇である。
(明治44年)8月20日から23日まで後の大正天皇が函館を訪れている。函館要塞もまた視察先の1つであった。要所に休憩所を儲け万全の体制でお迎えしたわけであるが、その休憩所の1つが千畳敷であった。
この碑は千畳敷砲台入り口付近の広場に現存する。

イメージ 5

要塞の名残

函館要塞の紹介をする上で、欠かせないのが要塞の名残である。その名残は以外に多く存在する。
順次公開していきたいと思いますが、 まず初めに主砲の砲弾を紹介します。
画像は函館山麓にある(船魂神社)地域の歴史を調べるにあたり図書館と神社の資料は大変重要である。    


イメージ 1



神社の境内に入ると小さな池がある。その前に無造作に置かれている砲弾がある。大きなものは28センチ榴弾砲と思われるが、小さな砲弾は不明である。これからは想像でしかないのだが、戦後、函館山を整備した折に出てきたもと思われる。根拠はないのだが、仮に明治、大正期だとすれば奉納という形式を取るであろう。 どのような経緯でここにあるのかは不明だが、これは明らかに置かれているだけに過ぎない。この手の砲弾は他府県の神社にも存在するが、奉納の形で置かれている為固定してある。


イメージ 2



大きさを比べる為、ライターを置いてみた。

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さて、明治時代、この砲弾を函館山から撃つのであるが、現在のようにデジタル化されていない、当然目視である。目視するうえで大変重要となるのが海面の高さ。汐の満引きである。その干満の差を測るのには、なにか目印が必要となる。そこで数箇所の海岸に(水尺)を備えたのである。 これは遠くになればなるほど大きな水尺が必要となり、また近い所では、それよりもはるかに小型になる。 今現在、原型が残っているのは(北斗市矢不来)の海面に立つ水尺。かなり大きなものである。 残念ながら函館市内(根崎水尺)は今は存在しない。 だが、もっとも近い住吉漁港にはかすかに残っている。
干潮の時にははっきり見えるのだが、この画像は干潮時ではない。

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水尺上部。 残念ながら長い間の波の浸食により原型をとどめていない。

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このように要塞の名残は多数存在するのである。 まだまだあるのですが、今度は視点を変えて現存する名残を紹介したいと思います。 まずは画像ですが、ご存知立待岬(駐車場)画像上部に立待岬展望台が確認できると思います。あずま屋になってますね。

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拡大図になりますが、この展望台の正体は(45式15cmカノン砲の砲座跡)それを戦後平和利用で改造して作ったものなのです。この砲座跡は戦後米軍が写した航空写真にはっきり写しだされている。
資料(米軍航空写真アーガイブ)

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