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tar*p*jpさま、参考資料として「陸海軍」各4名(エース)機のカラー塗装を載せます。
クリックすると大画面になります。 でもプラモ作成する方ならご存知でしょうね。
(加藤建夫)言わずと知れた加藤隼戦闘隊(隊長)(昭和17年)5月22日、ベンガル湾上空でイギリス軍のブレニム爆撃機を追撃、撃墜したが、その時被弾し自領への帰還は困難と悟り、海面に突入し自爆戦死
死後2階級特進により陸軍少将となる。 なお、敵勢力地域への着地なら間に合ったとされるが、加藤中佐の自尊心がそれを許さなかったとされる。捕虜になるを良しとしなかったのであろう。
確認撃墜数(30機)
(黒江保彦)黒江は一時期、加藤隼戦闘隊にも所属していた。加藤亡きあと、加藤隼戦闘隊を補佐続けた人物でもある。のちに戦隊長に任命され、空中指揮を担当し長期間活躍した。戦後百姓に入門し、田畑を耕すが、自衛隊発足に伴いジェット戦闘機の搭乗員として再び返り咲く。第6航空団司令在任中の昭和40年12月5日、妻が止めたにもかかわらず悪天候の中を福井県の越前海岸に磯釣りに出かけ、高波に飲まれ水死。12月7日の部隊葬では飛行第64戦隊歌(加藤隼戦闘隊歌)で送られた。確認撃墜数(50機)
(樫出勇)確認撃墜数は32機であるが、内26機は北九州に来襲したB-29である。無論B-29の最高撃墜数レコードホルダーではあるが、樫出自身、木村少尉のB-29の撃墜数は22機であったが生きていれば自分を越す撃墜数を挙げていたと語っている。終戦時大尉
(小林照彦)この方は戦歴もさることながら、その後の事故が痛ましくて涙を誘う。
氏もまた航空自衛隊発足と共にパイロットとして復員しているが、訓練中いT−33練習機の事故で殉職。
なお、事故の際、前方座席の副操縦士を先に脱出させ、悪天候の中、制御不能の機体が市街地に墜落しないよう脱出せずに操縦し、浜松基地への着陸進入中に機体もろとも爆死。自らを犠牲にし市街地を守ったのである。
(赤松貞明)機種変更に伴い各種戦闘機を無事操縦した方だが、なんといっても雷電時代が有名である。
雷電を操縦して相模湾上空で米海軍グラマンF6Fヘルキャット戦闘機と渡り合い、格闘戦の末これを撃墜したあと燃料切れとなり、横須賀航空隊に不時着。その時の言葉が雷電はいい戦闘機だ。もう少し燃料が積めたらもっといいのだがと叫んだあと、補給をしてまた飛び去った。当時横須賀基地にあった撃墜王坂井三郎も、「迎撃戦闘機である雷電でヘルキャットと互角に渡り合える戦闘機パイロットは、後にも先にも赤松中尉のほかにはいないだろうといっている。 確認撃墜数27機
(坂井三郎)僕の好きな軍人の一人。確認撃墜数は64機であるが、数が問題ではなく、なんといっても
ただ一度たりとも列機を失わなかたったことである。彼の2番機、3番機に戦死者は存在しない。
このことが全世界でパイロットの鏡だとされる理由である。 そして戦記『大空のサムライ』は各国語に訳され、世界的ベストセラーとなった。
(鴛淵孝)昭和20年ともなると撃墜数などを争ってはいられない。落しても落としてもまた飛来する米軍機! そんな昭和二十年七月二十四日、大村基地の剣部隊に出動命令が下ったのである。
その数わずか21機。迎え撃つ米軍機は200機を超える。が、これも一部の艦載機に過ぎず、総数では
1700機! これでは無事帰れるわけはなく鴛淵 孝大尉以下、六名が未帰還となった。
(遠藤幸男)夜間戦闘機で活躍した遠藤であるが、戦局悪化で昼間の戦闘も余儀なくされ戦死してしまう。月光自体のエンジンの出力も弱く、防弾装備に乏しかったからこそ、厳しい夜間訓練を耐え、夜の戦術を磨いたのであるが、意味のない作戦により惜しい人を亡くしてしまった。
夜の攻撃であればこその月光である。 月光でのB-29撃墜数合計8機 まさにコウモリである。
さ〜しばらくぶりに大空の侍でも読み返してみるか^^:
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