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館城 館の読みはにごらず(たて)である。
館は地名であるが現在館城跡の住所は
「北海道桧山郡厚沢部町城丘」 まずは地図にて確認してください。
画像でわかるとうり館城は山城ではない。 小高い丘陵地であるが平野に等しい場所である。 ではなぜここに城? という疑問もおこるだろう。
元々松前藩は魚業経済が支えてきた藩である。
だがそれまでの漁業経済一辺倒を改め、平野の多い厚沢部川流域を開墾し米作地を作ることを新たな藩の政策として考えた。
そうなれば拠点となる館が必要である。 それが当初の目的だったのであるが、奥州の情勢如何ともしがたく、また藩のクーデター等もあり結局はこの地に築城を決意するに至った。
厚沢部の中心部より城丘地区に向かえば画像の門が見えてくる。
次の画像で見てわかるとうり殺風景である。無論胸壁跡や土塁、小規模な掘跡はあるが、そこから全体像を把握することは出来ず!
天守閣はなく、陣屋の要素が強い。
画像は井戸の跡 井戸跡は二か所あります。
規模は121167.04m2 これは東京ドームの約2.6倍に相当する。
坪で計算すれば大凡36717坪 ちなみに一坪は銀ぎつねの書斎スペースとかわらない(笑)せま〜.......^^;
この館城跡も函館の四稜郭同様「突貫工事」であり天守閣はない。
だが知ってもらいたい、この館城こそが日本最後の和式築城であったということを。 思い起こせば武田信広が享徳3年(1454年)8月28日
生駒政季を奉じて南部大畑より蝦夷地に渡り、道南桧山にある上ノ国
の花沢館の蠣崎 季繁(かきざき すえしげ)に身を寄せ、そして気にいられ婿養子となってますね。 身を寄せた2年後には嫡男も生まれめでたいかぎりであったが、翌年の1454年にはコシャマインと戦いが始まる。
この負け戦に信広が武士をまとめあげて大反撃、そして勝利し信広は名実ともに蝦夷地の覇者となったわけだ。そして後の松前藩の基礎を築く
そんな蝦夷地の拠点である松前を捨て、この原野のような土地に館を
引っ越す藩主徳廣の気持ちは如何ばかりであったであろうか。
画像は「館城趾」碑 (松前家22世松前之廣氏筆)
同じく「三上超順力試之石」 三上超順は館城攻防戦で正義隊隊長を務めた人。また見方を逃がすため己は単身旧幕府軍の前に立ちはだかって斬殺されたお方である。
ちなみに右側の丸い石には以下の逸話がある。
山田某なる田舎力士が館城跡内にこの丸い石を見つけ自宅に持ち帰る。そしてこの石にて毎日トレーニング(力試し) その後、妻が病気になる。拾った石は館城で戦死した三上超順の力試しの石だから、元に戻した方がよい」とある人から言われ正定寺の住職に回向を願った。
その後、妻の病状は回復の兆しを見せ、石を同寺の境内に安置した。 時は流れ昭和43年10月、館城跡100年を記念して、正定寺境内から館城跡にこの石を移し、碑を建てて保存したのが真相のようです。(厚沢部町史より)
余談ですが山田某なる人物、僕が調べた限りでは太田原藩士に一人!
太田原藩は戊辰戦争では会津藩により城下もろとも城も焼失している。
ま、同一人物であるか否かは調べられなかったが、それはそれ逸話は逸話でよしとします。田舎力士は調べようがない。
最初の門から道路がつながっており、館城をはさむように横断している。
右側は栗の木公園となっている。 人が住めば食料となる木や武器、武具に使う木を植えるは当然のこと。
建設期間はわずか55日間の突貫工事で藩主を迎えたが、その2日後には松前城がおちる。その報を聞くとすぐさま江差方面へ脱出!
滞在期間はわずか9日間! ここで守る兵は60名あまり!
城は残らなかったが、藩の政策はその後受け継がれ、今では道南屈指の農業地帯となっている。
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