なんだか函館

函館山に残る要塞跡や西部地区の町並み、その他地域の紹介ブログです。気軽に見て下さい。

幕末 箱館戦争等

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タイトルは権現台場(ごんげんだいば)であるが、その前に旧東照宮を語る必要がある。元治元年、亀田役所土塁、通称(五稜郭)が完成する。と、いっても完全なる完成は2年後の慶応2年、元治元年は業務を開始した年。
 
その際、五稜郭の鬼門、即ち東北の方向に五稜郭の守護神とするため日光様似の等樹院から東照大権現を分霊して、上山村(現函館市神山町)に一つの神社を建立する。 それが東照宮の始まりである。
 
また、上山村もこれ以降、神山村と改められた。
 
画像は神山稲荷神社参道である。
 
 
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この神山稲荷神社こそが箱館戦争で焼失した東照宮の跡地であり、周囲は要塞化した権現台場だったのである。 以下は函館市史(5月
11日の戦い)P254−P257内の一部を引用する。
 
四稜郭は五稜郭の北の備えとして脱走軍が急造したもので、松岡四郎次郎を主将に1連隊、衝鋒隊が守っていた。しかし神山村東照大権現の台場が長門萩藩の隊に攻撃されると、退路を遮断されるのを恐れて五稜郭へ退却、まもなく権現台場も落ちてしまった。
このページはとくに面白い。なんといっても桔梗野台場がでてくる。
この台場は知る人ぞ知るの三稜郭のことである。
 
 
画像は焼失当時の東照宮を思わせる唯一の名残である石鳥居
 
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社殿より参道方向を見ゆ。 神社は小高い丘の上にあることが分かる。したがって台場として活用するにはもってこいだっただろう。
加えて東照宮の名、これも一つ重要だったのではないだろうか?
 
狛犬ですが、僕が知る限り函館市内の神社で2例目となる子踏み
または子抑えの形状の狛犬が鎮座してます。
もっとも近代のものですから.........大量生産の可能性も否定できません。でも好きな形状です。
 
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土塁跡
 
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土塁の主
 
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現状は住宅街で視界が遮られているが、当時は敵が来るも、味方がくるもはっきり見えたであろう。
 
 
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実はこの権現台場、古地図で見れば位置が逆!五稜郭と四稜郭を
直線で結ぶ!そしてその線より左側になければならない。
だが古地図では右側! 
 
でも古地図はいい加減なものが多いし、また絵地図は抽象的です。
古地図と現代図の比較写真を載せようと思いましたが..............
やめときます。
 
すぐ先には四稜郭、当時は互いに見えたでしょうね。櫓でもあれば完璧です。ただし櫓は目印にもなりますから逆効果にもなる。

榎本軍作戦本部

 
箱館戦争縁の地、今回訪れたのは(旧幕軍作戦本部)※榎本軍作戦本部、即ち北斗市(旧大野町)にある稲荷神社・川濯神社(かわすそである。
 
ご承知のとうり鷲ノ木上陸から川汲峠峠下を経て五稜郭、この二手に分かれ進軍するのであるが、峠下の戦い、この峠の宿に宿泊中の人見一行を箱館府軍が砲撃、ここに箱館戦争火蓋が切って落とされたわけだが、これより先、即ち五稜郭への道のりには、ここ野村は避けて通れぬ進軍コースであった。
 
説明の前に画像を........鳥居の右横にある石碑には川濯神社稲荷神社とある。左に見える道は大野国道227号線、故にすぐに発見できる神社である。
 
 
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一度道路を挟み石鳥居をくぐる。
 
 
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石鳥居は安政6年建立、3月の吉日とある。
社殿も含め、当時のものはこの石鳥居だけである。
 
 
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そして神社となるが、そもそも道路拡張に伴い、稲荷神社川濯神社
は同じ社殿となっている。要するに合祀
 
狛犬玉抑えの形状
 
 
 
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当時を偲ぶものは石鳥居だけであるが、榎本軍作戦本部として2度使用されたは事実である。
 
次の写真であるが、左、高木に隠れてるのが神社であり、右に見える体育館は市渡小学校の体育館ということになる。
この小学校の校庭には良く知られている栗の木が2本ある。
 
 
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まずは一本目の栗の木! 立派な大木である。
 
 
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2本目の木は小学校校庭にある。 栗の木を眺めている女性、この学校の教師です。色々お話でき楽しかったです。
当初、怪しいおっさんとと思ったのか、ず〜とこちらの様子を監視していたような気がします。ま、登校時だったのでそれもやむなしですが。
 
でもここにいる理由と趣旨を説明し納得なされた。それで写真の許可も頂き、ついでに雑談を少しだけお付き合いして頂きました。
 
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想像するに、この栗は生徒はもとより教師父兄も食するのだろう。
本来の甘さと同時に歴史の苦さも味賞の一つとして。
 
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松前藩戸切地陣屋跡

箱館戦争縁の地、今回は北斗市にある松前戸切地陣屋である。
読みは(へきりち) そもそもこの陣屋は箱館戦争を意識して築いたわではない。当初の目的は1854年の箱館港開に端を発する!
 
徳川政権下(安政元年)アメリカ、イギリス、ロシアと和親条約を結ぶこととなる。その北方警備のため幕府は 前 軽 南部 
仙台 秋田 五藩に蝦夷地分担警備させ、防衛力の強化を図ったのである。松前藩は七飯浜より木古内までの警備を分担。松前藩にとっては、勝手知ったる道南の日本海側ということになる。
 
五稜郭と同様のオランダ式の築城法でつくられ、4稜の星型をしている。100〜150人の藩士が常駐していた。形式は稜堡式平城という。
稜堡とは即ち城塞の防御施設のことです
 
一つ付け加えるが、戸切地陣屋の名称は 昭和40年に国の史跡となった折に松前藩戸切地陣屋と統一されたもので、以前は、穴平陣屋、松前陣屋、清川陣屋など様々な通称があった。
 
まずは戸切地陣屋その正門!
 
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正門から正面、即ち来た方向を見ゆ。木々はである。
正門に達するまで約800mの桜並木は見ごたえ十分! 植樹は明治
も37年頃からである。 植樹者は函館の呉服商である岩船峯次郎
 
とにかく凄い人で函館市民なら誰でも知ってる見晴公園(雪園)も氏の所有とする大別荘! 規模は半端ないっす!!!日露戦争勝利記念、それがこの桜並木となったのです。 ものすごい財力!!!
出ました横道情報!!!! さて、本題っと.....................
 
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地陣内に入り、高台から写した1枚、説明板には17棟の建造物があり、足軽諸士備頭目付詰所馬屋道場武器庫大砲鉄砲などがあったとある。尚、2つは未だ不明だとか。味噌や米蔵もあり! そこに立ち人それぞれ残る2つの棟の想像をするも良し。
 
銀ぎつねは考える。では今でいう娯楽室の可能性は無きにしも非ずではと....................兵に必要なものは数あれど、兵に与えるものもまた、数ある。この時代、忠義の心は失われつつある。したがって兵をとどめ置くに必要なものに娯楽がある。 その最たるのものが
まだ言うと、チャバレーですな^^; 田舎だけに............

素性の知れた,,,芸者さん、または,,,,,,,,,,?????

察してね! あてずっぽうもあるけど出土品からも考えてます^^;
 
 
 
 
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周囲は堀などあり屈強に見える。ここからは説明なしで写真だけで見てもらう。そのほうがいい。
 
 
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周囲には土塁が高さ約3mで築かれ、深さ約3mの堀も掘られた。
そんな屈強とも思える地陣ではあるが、結局は箱館戦争の際に自ら焼き払ってしまうこととなる。 銀ぎつねは思った。横の守りは屈強でも正面の守りがおそまつすぎる!あの門では正攻法の正面突破も可能
ならば敵に宿泊設備を与えずやしてしまえ! 僕でも思う選択!
 
裏門も然りです。
 
 
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いや〜〜今度は絶対春に行く! が見たい! 妻に運転させ
銀ぎつねは呑む! 
 
 
おまけ画像、堀の末端! この景色、気に入りました。
 
 
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箱館戦争意冨比神の戦い。読みは「おおひ神社「冨」は、「富」でも構わず。要は俗字ですから。所在地北斗市本町16の1
神紋:菊菱に三つ巴 祭神「天照大日貴尊」(あまてらすおほひるめのむちのみこと)それにしても意冨比で、おおひとは読めなかったぞい!
 
ま〜いい。さてここでの戦いを簡単に説明しよう。明治元年
旧10月20日、旧幕軍が森町鷲の木に上陸するわけだが、本隊は一路箱館へ、さらに分隊は七飯峠下より五稜郭を目指す。
 
旧暦10月20日は新暦では12月3日この日の天候であるが風雪とあるのでかなり厳しい進軍だったと想像できる。そんな進軍の最中榎本軍大鳥圭介部隊を阻もうとする官軍藩兵とが市渡で遭遇戦になり意冨比神社境内を中心に戦闘になり白兵戦となる。
 
まずは意冨比神社境内の画像から。
 
 
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ついでに狛犬さん。狛犬好きな銀ぎつねの判断で玉抑えの形状と見ました。これが両足で乗っていれば玉乗りとなる! 玉遊びなんていきな呼び方もありますが.....要は、組み伏せよって遊ばせ、授乳
などとなります。
 
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いつもどうり記事の内容からすっ飛ぶのが銀ぎつね流である。
ここからは説明板を引用させていただきます。
 
しかし作戦に長ける榎本軍には官軍は相手でなく、敗走する官軍を南大野まで追撃し、約1時間の戦いであった。この間大鳥部隊の放った大砲の弾が、今の十字街や下町あたりの家にあたってもえあがり、強い北風にあおられて十数件が消失しました。
 村民は銃声や火災に逃げまどった。両軍の死傷者はかなりの数であっただろう。官軍の墓だけでも10以上になっている。
 なお、意冨比神社イチイの木弾痕がある。
 
不覚にもその弾痕の跡を見つけれなかった銀ぎつね、ここで一句!
我探すイチイの木肌さぐりいで通り過ぎたと笑う大神............
おそまつです^^;
 
 
さて市渡とはいったいどのような土地であるのか?記事より説明板のほうが早い。クリックで拡大
 
 
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この意冨比神社、正面社殿はどう見ても新しきもの。だが裏にまわれば古き匂いの痕跡あり!
 
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次の画像で映画砂の器を連想した方.....あなたは映画ツ〜〜です。
(神殿縁の下)
 
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冒頭の記事にもあるように、この戦いでは民家十数件が消失した。
当時の家々を想像することが少なからず読み取れる画像。
時代は分からぬが戦場跡から近い場所にある。
 
 
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新暦12月3日ともなれば真冬同然であり、さぞ住民は難儀したであろう。民家が燃えれば住民は神社仏閣に批難するのが常であるが、その神社仏閣が箱館戦争では戦場の舞台になることが多かった。ただ双方の兵がむやみやたらに住民に危害を及ぼさなかったのが不幸中の幸いといえよう。無論例外もあるが。
 
嬉しきかな戦場跡に咲く花々の中から1枚。
 
 
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いつもながらぶっ飛んだ記事で申し訳ありませんでした。
 
箱館戦争縁の地、今回は北斗市にある矢不来天満宮」である。
この神社、いや、厳密には土地は実に不運な運命にあった。
箱館戦争で幕府軍衝鋒隊(しょうほうたい)が布陣していたのは
明治2年のこと。その年の4月28日、新政府軍総攻撃で、この天満宮に布陣していた衝鋒隊は、永井蠖進斎天野新太郎を失って敗走した。 要するに守りし城を捨てたことになる。
 
 
がだ、これより先四百数十年前、すなわち康正2年(1456)函館「志濃里」(しのり)で起きたアイヌ少年の惨殺がきっかけで渡島半島東部の首領コシャマインが蜂起、そして道南にある12の館を攻めることとなる、世に言うコシャマインの戦い始まったのだが、どうしても落とせなかった館が2つあった。それは上ノ国、客将武田信広が守りし花沢、城主(蠣崎 季繁)そしてもう一つが安東家政の館である茂別館!そしてこの神社は茂別館の跡地である。なんという巡り合わせなのか......興奮します。まずは画像をもって矢不来天満宮を紹介します。
 
 
 
 
 
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天保十一年奉納の鳥居
 
 
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社殿
クリックで拡大、天満宮の参道には寝そべった牛の像が二体あるが、もっとも古いものもまた臥牛像である。即ち四体存在する。だが寄贈年は分からず、長年の風雪により刻まれし年号は読み取れず!新しいものは1902年と85年の建立。
 
 
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一番新しい臥牛像  天満宮の名に相応しく神紋に、管原道真が亡くなった時に亡骸を牛車に載せて進んでいると、急に牛 ... また、菅原道真が梅の花をこよなく愛でていたところから、各地の天満宮では梅の社紋が使われているちなみにですが函館山の別名は臥牛山、これは牛が寝そべってる形に由来してます。
 
 
 
菅原道真を祀る天満宮神紋社紋には梅の紋が使用されますが、その梅の紋にも数種類あり、ここの神社の梅の紋は{梅鉢}の形になってます。ん〜〜〜説明しずらいですが、真ん中が雪の結晶状態になっている??? そんな感じでしか説明できません。 それが形なんです。それがなければ星梅鉢!!! 
 
 
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いかん!記事の内容がごちゃごちゃでないか!申し訳ない。さて茂別館で考えてみれば実によく出来た守りだったと思う。画像では見えないが小高い丘にあり、また清流もあり水は豊富。後ろは山であり、下に降りれば川、そしてそう遠くない位置に海がある。当初は館後に神社
聖地の匂いがプンプンします。
 
川の上(斜面上方向)に矢不来天満宮が鎮座している。茂別館で考えれば天然の堀、そう銀ぎつねは考えます。アイヌの軍がここを攻めるのは容易でなかったことがうなずける。だが時代はそれを許さなかったのでしょう。近代兵器の前では。
 
 
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この由緒ある神社であるが、社殿の裏に古い社殿鳥居が存在する。
鳥居に彫られし年号だが文政十までは確認できる。すなわち1827年
永井蠖進斎天野新太郎、両名も参拝したであろう古き社殿鳥居
なんとも考え深くなる。
 
 
 
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矢不来,思えば地名はコシャマインの戦い,その後に出来た地名
説は一つではないが、銀ぎつねは以下の説を支持したい。
コシャマイン軍の主力兵器は!矢じりには猛毒が塗ってある。
そのでさえこの館にはない、要なである。
故に...............................の説!
 
なにやらごちゃごちゃの記事、及び説明で申し訳ありませんでした。
 
 
 
 
 
 

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