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土方歳三のファンであれば必ずと言っていいほど訪れる聖地の一つ、それが碧血碑である。
碧血碑は多くの者が知るところであり、いまさら詳しい説明は致しません。
まずは画像から。 画像は先日に撮ったものです。
冬だと言うのに訪問者が絶えないようですね。花も折鶴も新しい。
尚、今現在、碧血碑下の休憩所(東屋)は工事中であるが、雪溶けを迎えるころには
新しい東屋になっていることでしょう。
次の画像は碧血碑の裏側に刻まれた碑文。写真では読みずらいが、横文字に直すと以下の文字となる。
「明治辰己実有此事.立石山上以表厥志.明治八年五月」
難しい読みですね。特に(厥)の字は現代は使わないでしょう。この字、音読みでは(ケツ)となり
訓読みでは(それ)または(その)となるのですが、この場合だと
「明治2年、此の事は事実であり、または実際にあったこと、山上に石を建てて悲しみの気持ちを表します」となる。 本来であれば建立した者の指名や団体名を同碑に刻むのであるが、この碑にはない。
明治7年になり、明治政府が正式に賊軍の汚名を負った者の祭祀を許可したとは言え、そのことを良く思ってなかった者も多くいたのであろう。したがって「柳川熊吉」「榎本武揚」「大鳥圭介」らの名をあえて刻まぬ方向で動いたのでしょうね。
そしてこの下には碧血碑最大の建立者と言えよう柳川熊吉翁の碑が存在する。熊吉もまた有名であるからして詳しい説明は省きます。説明板には、「柳川熊吉は、安政3(1856)年に江戸から来て請負業を営み、五稜郭築造工事の際には、労働者の供給に貢献した。 明治2(1869)年、箱館戦争が終結すると、敗れた旧幕府脱走軍の遺体は、「賊軍の慰霊を行ってはならない」との命令で、市中に放置されたままであった。新政府軍のこの処置に義憤を感じた熊吉は、実行寺の僧と一緒に遺体を集め同寺に葬ったが、その意気に感じた新政府軍の田島圭蔵の計らいで、熊吉は断罪を免れた。 明治4年.熊吉は函館山山腹に土地を購入して遺体を改葬し、同8年、旧幕府脱走軍の戦死者を慰霊する「碧血碑」を建てた。大正2(1913)年、熊吉88歳の米寿に際し、有志らはその義挙を伝えるため、ここに寿碑を建てた。函館市とあります。
また、この辺りには古い石灯篭や墓などがある。あるサイトで石灯篭は土方の首塚ではないかと言う
趣旨の記事を見たことがある。もちろん?ではあったが。 その石灯篭が画像のものです。
この石灯篭、詳しく調べていませんので詳細のほどは分かりませんが、時代は碧血碑建立以降と考えられます。少なくとも明治初期のものではない。仮に明治初期,またはそれ以前のものであれば後から補強した可能性が高い。 その根拠として上部に鉄筋が見られる。
碧血碑では約800人の戦死者を弔っているのであるが土方歳三の埋葬地については諸説あり、未だに解明されていない。その中で異国橋(栄国橋・永国橋)説がある。 あまり信頼性のない説であり詳しくは書かない。だが参考のために明治7年ころの栄国橋周辺の写真をアップします。
撮影者は洋装姿の土方歳三を写した人物。そう田本研造その人です。 まさに従軍カメラマンの先駆けと言ったところでしょう。彼の残した写真は後の研究に大いに役立っている。
「函館栄国橋ヨリ西方眺望(新道電信機建設ノ景) / 田本研造(函館)」
(北海道大学付属図書館所蔵)
当時はまだ民家の数も少なかったと思いますが、この街道に旧幕臣の遺体がそこらじゅうにあったと思うと切なくなる。
この説には島田魁日記などがあるが、これもまた長くなるので詳しく書かない。
さて、ここからはまったく根拠のない夢物語、ま〜ロマンですが、それを承知で読んで頂きたい。
島田魁は共に戦い戦死した土方歳三の戒名を常に懐に携えていた人物。 その彼はまた土方歳三への追悼歌も残している。「「鉾とりて月みるごとにおもふかな あすはかばね(屍)の上に照かと」」
この歌を謎かけと捉えて考えてみる。 まずは(鉾とりて)この場合槍を手に持つの意味であろうが
この(とりて)の部分を取り除くに解釈する。 そして碧血碑を鉾と解釈する。
碧血碑の先端は尖っており、まさに槍です。 碧血碑の前で胡坐をし、上を見ても碑があるため月は見えない。だが槍(碧血碑)を取り除けば月は見える。
次は(あすはかばね(屍)の上に照かと)の部分であるが、槍を取り除けば、あすには(屍)の上に差し込む月灯りがみえる。 そう考えてみると一か所だけ該当するものがある。それは碧血碑裏側の石である。 首塚があるとすればむしろこっちのほうではないか? これはあくまでそうあって欲しいと思う願いだけであって、ただのこじつけです。笑わないで下さいよ。
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