なんだか函館

函館山に残る要塞跡や西部地区の町並み、その他地域の紹介ブログです。気軽に見て下さい。

幕末 箱館戦争等

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しばらく更新してませんでしたが、デジカメも新しくなったので久々の幕末記事をアップします。
 
今回訪問した先は「旧大野町」現北斗市にある光明寺である。
この寺には「旧幕府軍戦死者」である(永井蠖伸)(斎網代清四郎)の
墓碑も存在するが、ズバリ今回確認したかったのは(金子庫次郎)の墓ただ一つ!
 
まずは光明寺の山門からですが、門はもとより阿吽一対の金剛力士像が見事です。ちなみにですが、このように山門に阿吽像を蔵する造りを別名仁王門とも言います。 したがって仁王像とよんでもかまいません。由来は金剛杵(こんごうしょ、仏敵を退散させる武器
ですね。住職が持ってるものと同じです。 それを持ってますよ〜という意味であり、寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神としての性格を表わしているんですね〜
 
 
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この寺、本寺が函館の高竜寺となります。なるほど箱館戦争の痕跡があるのもうなずけます。 その他の施設を説明なしで。
 
風情がありますね〜藁ぶきの枯れ具合と苔がいい
 
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こじんまりとした鳥居は寺によく似合います。寺に鳥居があっても
不思議ではありません。一般的ではありませんが、ここに限ったものではありません。説明は長くなるので省きます。
 
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こちらは見事! 職人の技術()目、うろこ、爪とどこをとっても
素晴らしい作品だと思います。
 
 
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さて、ここで(金子庫次郎)に拘った訳を書きます。金子は大野藩
精技隊第二小隊に属し(明治元年10月24日)大野村にて戦死してます。享年42歳
 
その金子の墓は二つ存在します。一つは函館護国神社内「新政府軍」墓地に、そしてもう一つがここ光明寺である。
 
松前藩士、安芸福山藩士の英霊が眠る中で向かって右側の墓碑がそうである。やはり分骨したのでしょうね。でももう一度函館護国神
を調べたいと思う。
 
 
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次回は、やはり箱館戦争縁の地である松前藩戸切地陣屋跡
あるいは「意富比神社」のどちらかをアップします。
画像は収集済!

箱館戦争(川汲峠)編

今回幕末の箱館戦争でとりあげた記事は川汲峠(かっくみ)の攻防戦である。明治元年、旧暦十月二十日、旧幕府軍が噴火湾鷲の木に上陸! その内、土方歳三は「額兵隊、陸軍隊」など約500名の大隊長として川汲ルートより一路五稜郭を目指す。
 
画像は川汲温泉周辺の航空写真!まさに難所であることが分かる。
旧道も残ってますが大差がないので載せていません。
 
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ではまず額兵隊(がくへいたい)とはどのような部隊だったのであろうか。そもそも額兵隊が結成されたのは慶応4年4月、仙台藩によるものである。総員約800名、砲兵工兵の他に楽兵までいる近代部隊。
 
その最大の特徴は、イギリス式調練を受け、元込め式スナイドル銃を装備していたことである。いわば最新鋭の虎の子部隊である。
惜しまれるは東北戦争出陣前に仙台藩が降伏したため、その活躍の場は失われてしまった。 箱館戦争では、隊長である星 恂太郎(ほし じゅんたろう)以下250名が脱藩のうえ参戦している。画像は額兵隊の主力装備、スナイドル銃である。
 
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さて、鷲の木上陸後、ただちに南進する土方隊であるが、やはり敵の待ち伏せ攻撃は当然予想の範囲であっただろう。そして川汲峠付近で
峠に布陣していた箱館府兵隊と戦闘になり、これを撃退している。
 
画像は川汲温泉ホテル入口周辺 当時は鶴の湯中山旅館、さぞ当時は中山(川汲峠)の楽園だったであろう。当時の料理を食いたいものだ。三味線の音色とともに。
 
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この辺りの川は清流であり飲み水、ましてや食料となる魚も豊富!
だが、寒さは本州の常識をはるかに超えている。土方は川汲峠での戦いの後、峠に警備隊を残し、自身は引き返してこの温泉場に本隊を
野営宿泊させているが、これは当然であり逆にいえば、箱館府兵隊の警備、しいては旧松前藩の作戦があまりにも貧弱、弱腰だったと僕は思う。
 
ここでの戦闘!季節は晩秋、新暦だと12月初旬になります。
旧松前藩であれば北海道の冬場の寒さは身をもって知ってるはずです。そう思えば温泉場は絶対に死守するべき要所だったと僕は思います。だが警備は手薄だった。到るところに哨所を設け、哨戒等を行っていたであろうが、最低でも中隊規模以上の兵を配置するべきだったと思う。川汲温泉以外、夜に寝られる場所はなし、当時、近くに民家もない。しかも敵の進軍路であり、退路でもあり、また補給路ともなる。
 
画像は川汲温泉、当時は中山旅館、前方の山を見てもらいたい。
低い山であるが、当時はこのような山が次から次と連なっていた。
 
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上の写真、その左側に祠が確認できる。屋根は近代のものだが
彫刻等は古さを感じる。 その祠が画像の祠となる。
 
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温泉場に祠、仮に土方がこの地に来る以前からあったとすれば当然
土方をはじめとする士官、兵に関わらず、参拝し、心の拠り所ではなかったであろうか。 だが社殿名はわからず!
 
そこで調べたところ(函館市指定文化財)の一覧に次の記載があった。有形文化財(絵馬)川汲温泉薬王殿奉納絵馬「竜の図」現物は函館博物館所蔵のようである。 そこで誰がなんのために奉納したか
また調べてみた。 するとこうあった。
嘉永4年(1851)に奉納されたもので、松前藩士新井田新兵衛の妻が療養のため川汲温泉へ向う旨、町奉行所へ届出されたものだと
この祠がそうであるかどうかの最終的判断はできないまでも、限りなく近いものだと確信している。 土方も参拝したのであろうか?

画像は川汲を流れる清流である。 魚影も濃い! だが泳ぎが早すぎて撮れなかった。
 
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画像は川汲温泉ホテル敷地内に設置されている説明板
 
 
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この説明板の下に小さいながら慰霊の碑が建立されている。
画像では確認できないですが、のお供えものがありました。
 
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ここでの戦い、賛否はありましょうが、僕は完全に箱館府側は戦う意志などなかったと思います。無論、ここでの大規模な戦闘のことです。総力戦といかないまでも、こんなところで冬を迎えるは死を意味します。補給に馬車も荷車も使えず、ましてや人力で物資を運ぶには無理があります。仮にここで大規模な戦闘を考えていたのなら要塞的な備えとなったでしょう。
 
春夏でさえ、敵の他にマムシヒグマも警戒しなければならない。
ならば五稜郭の守りを固め、援軍のくるのを待つ! そう思ったかもしれませんね。これより先、野営できる場所は当時では湯の川、現、湯の川温泉街、当時土方軍もこの湯の川温泉街で野営してます。
 
この地を訪れる方はくれぐれもマムシに注意してください。
 
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土方歳三の埋葬地は?

土方歳三の埋葬地は未だ諸説あり確定的なものはなにもない! ただ一つ一つの候補地を検証することは可能だ!ま〜これとて推理の域を脱っすることは不可能なのだが。以前島田魁日記をほんの少しだけ読んだことがある。正直そのときは必要な情報を得るためであって、とても読んだとは言えない。
したがって中身(内容)は把握してない! そんな島田魁であるが諸説の中で「亀田七重の念仏堂の縁の下に歳三の遺体を隠した」というものがある(念仏寺?無縁寺?閻魔堂)説 ???

いずれにせよその寺とは旧吉川村、現函館市吉川町にある極楽寺のことであるようだ。
まずは極楽寺の画像から


イメージ 1



次に境内にある石灯籠であるが説明の前に画像を!


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そして説明となるがそれには説明板を見たほうが早いだろう。(クリックで拡大)
正直灯籠云々の話ではなく、肝心なのは赤枠を読んでもらいたい。灯籠が推測であってもこの寺が箱館戦争、または戦争終結後になんらかの関わりがあったことがわかる。  
また七重村閻魔堂説も当時七重村に閻魔堂はなく、やはりこの寺となる。


イメージ 3



さて、ここからが本題となるのだが今回は詳しい資料も読んでいないし、しかも酔っ払っている^^;
だが記事は真面目に書きます。 まず初めに、この説によれば島田魁は一本木関門で戦死した歳三の遺体を同寺の縁の下に隠したことになっている。詳しくいえば念仏堂の縁の下。 そして明治20年になって歳三の遺体を改葬したというもの。

ちゃんと読んでから書かねば指摘を受ける要因ともなろうがあえて書きます。まず島田魁の守りし場所は弁天台場であるため、歳三の死は伝令による報と思われる。また弁天台場での降伏であるため直接歳三の遺体を運ぶのは無理と思われる。 ましてやこの説では明治20年、島田は歳三の遺体を改葬したということになっているが函館に来た記録はあるのであろうか?

ま、今回は無責任にも資料を読まずに書いてますから指摘があれば存分にして下さい。
すなをに聞きます^^; ま〜それはそれとして酔いながらも簡単な地図、おおよそですが見て下さい。
黒の波型模様は当時は海である。


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簡単な地図だが、仮に遺体を運ぶとあらば海岸線に近いルートを進むことになる。この道は厳しいだろ〜と思うと同時に単純にこの寺はすぐにも敵の手中に入ると想像でき、遺体を隠す場所としては不適切とも思える。茶の矢印は新政府軍の進軍ルートであり、この道を進むことは敵の大軍と遭遇する危険性があまりにも高すぎる。これだけ見れば要所に見方がいるため五稜郭に運ぶほうが無難な気もするな?

最後にほんとすみません。資料なしで書いてますので、ほとんど想像のみです。島田が歳三の遺体を運んだ事実があれば是非コメント願います。そしてあらためて記事にします。

おまけ画像


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前回の記事では函館護国神社内「新政府軍」墓地に眠る英霊の墓碑であったが、今回はその続きとなる。
前回は(松本喜多治)(梅田小太郎)(長瀬且馬)(寺田竹次郎)の4名である。
今回は判明した中から数名紹介したいと思います。

まず1枚めであるが大野藩と 金○庫○○郎が読み取れる。したがって該当するのは
(金子庫次郎)大野藩精技隊第二小隊に属し大野村にて戦死。享年42歳
尚、参考資料としてより照合しております。

ちなみに箱館戦争関係墓碑 覧では「大野藩金子庫次郎光義霊魂」(明治元戊辰年十月廿四日於大
野村戦死行年四十二才)となっており簡単に分かりやすく書いてます。
なお、部隊名その他は独自に調べてますが、分からぬ場合が多々あります。


イメージ 1



(吉田留五郎)「大野藩」箱館戦争激戦地の一つである矢不来にて負傷、矢不来には新政府軍の伝習歩兵隊、遊撃隊、杜稜隊等が布陣していたが所属までは知れべていません。 矢不来台場内での負傷か、それとも台場外での負傷か? いずれにせよこの矢不来の地で負傷し戦線を退き青森に搬送されたが、明治2年5月22日青森で死亡。享年19歳。 この地に墓碑があることは後に遺骨を運んだことになる。
(明治二己巳年四月廿九日矢不来負庇同五月廿二日津軽青森ニテ死行年十九才)


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(山本太三郎)「大野藩」部隊名がはっきりしなく自信はないのですが、おそらくは第4小隊所属と思われる。享年34歳の資料も存在するが享年24歳が正しいと思われる。
(明治二己巳年四月十三日於木古内戦死行年二十四才)



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向かって右側が大野藩(和田実之助)左は読み取れず!和田の資料の一つに大野藩城代組軽卒第四小隊
であり享年30歳の記載もあるが、箱館戦争関係墓碑 覧では享年35歳とある。(矢不来にて戦死)
(明治二己巳年四月廿九日於矢不来 戦死行年三十五才)


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渡辺忠蔵(大野藩)明治2年4月13日木古内で戦死。享年31歳


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判明した墓碑はまだまだありますが、資料がまちまちであり載せることは控えます。

碧血碑

土方歳三のファンであれば必ずと言っていいほど訪れる聖地の一つ、それが碧血碑である。
碧血碑は多くの者が知るところであり、いまさら詳しい説明は致しません。
まずは画像から。 画像は先日に撮ったものです。


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冬だと言うのに訪問者が絶えないようですね。花も折鶴も新しい。
尚、今現在、碧血碑下の休憩所(東屋)は工事中であるが、雪溶けを迎えるころには
新しい東屋になっていることでしょう。


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次の画像は碧血碑の裏側に刻まれた碑文。写真では読みずらいが、横文字に直すと以下の文字となる。

「明治辰己実有此事.立石山上以表厥志.明治八年五月」

難しい読みですね。特に(厥)の字は現代は使わないでしょう。この字、音読みでは(ケツ)となり
訓読みでは(それ)または(その)となるのですが、この場合だと
「明治2年、此の事は事実であり、または実際にあったこと、山上に石を建てて悲しみの気持ちを表します」となる。 本来であれば建立した者の指名や団体名を同碑に刻むのであるが、この碑にはない。
明治7年になり、明治政府が正式に賊軍の汚名を負った者の祭祀を許可したとは言え、そのことを良く思ってなかった者も多くいたのであろう。したがって「柳川熊吉」「榎本武揚」「大鳥圭介」らの名をあえて刻まぬ方向で動いたのでしょうね。

 
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そしてこの下には碧血碑最大の建立者と言えよう柳川熊吉翁の碑が存在する。熊吉もまた有名であるからして詳しい説明は省きます。説明板には、「柳川熊吉は、安政3(1856)年に江戸から来て請負業を営み、五稜郭築造工事の際には、労働者の供給に貢献した。 明治2(1869)年、箱館戦争が終結すると、敗れた旧幕府脱走軍の遺体は、「賊軍の慰霊を行ってはならない」との命令で、市中に放置されたままであった。新政府軍のこの処置に義憤を感じた熊吉は、実行寺の僧と一緒に遺体を集め同寺に葬ったが、その意気に感じた新政府軍の田島圭蔵の計らいで、熊吉は断罪を免れた。 明治4年.熊吉は函館山山腹に土地を購入して遺体を改葬し、同8年、旧幕府脱走軍の戦死者を慰霊する「碧血碑」を建てた。大正2(1913)年、熊吉88歳の米寿に際し、有志らはその義挙を伝えるため、ここに寿碑を建てた。函館市とあります。


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また、この辺りには古い石灯篭や墓などがある。あるサイトで石灯篭は土方の首塚ではないかと言う
趣旨の記事を見たことがある。もちろん?ではあったが。 その石灯篭が画像のものです。


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この石灯篭、詳しく調べていませんので詳細のほどは分かりませんが、時代は碧血碑建立以降と考えられます。少なくとも明治初期のものではない。仮に明治初期,またはそれ以前のものであれば後から補強した可能性が高い。 その根拠として上部に鉄筋が見られる。


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碧血碑では約800人の戦死者を弔っているのであるが土方歳三の埋葬地については諸説あり、未だに解明されていない。その中で異国橋(栄国橋・永国橋)説がある。 あまり信頼性のない説であり詳しくは書かない。だが参考のために明治7年ころの栄国橋周辺の写真をアップします。
撮影者は洋装姿の土方歳三を写した人物。そう田本研造その人です。 まさに従軍カメラマンの先駆けと言ったところでしょう。彼の残した写真は後の研究に大いに役立っている。

「函館栄国橋ヨリ西方眺望(新道電信機建設ノ景) / 田本研造(函館)」
 (北海道大学付属図書館所蔵)

当時はまだ民家の数も少なかったと思いますが、この街道に旧幕臣の遺体がそこらじゅうにあったと思うと切なくなる。

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この説には島田魁日記などがあるが、これもまた長くなるので詳しく書かない。
さて、ここからはまったく根拠のない夢物語、ま〜ロマンですが、それを承知で読んで頂きたい。
島田魁は共に戦い戦死した土方歳三の戒名を常に懐に携えていた人物。 その彼はまた土方歳三への追悼歌も残している。「「鉾とりて月みるごとにおもふかな あすはかばね(屍)の上に照かと」」

この歌を謎かけと捉えて考えてみる。 まずは(鉾とりて)この場合槍を手に持つの意味であろうが
この(とりて)の部分を取り除くに解釈する。 そして碧血碑を鉾と解釈する。
碧血碑の先端は尖っており、まさに槍です。 碧血碑の前で胡坐をし、上を見ても碑があるため月は見えない。だが槍(碧血碑)を取り除けば月は見える。

次は(あすはかばね(屍)の上に照かと)の部分であるが、槍を取り除けば、あすには(屍)の上に差し込む月灯りがみえる。 そう考えてみると一か所だけ該当するものがある。それは碧血碑裏側の石である。 首塚があるとすればむしろこっちのほうではないか? これはあくまでそうあって欲しいと思う願いだけであって、ただのこじつけです。笑わないで下さいよ。
 


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