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地域の歴史NO.17 函館大火 昭和9年3月21日午後6時53分
郷土の歴史を語るいじょう函館大火は避けて通れぬ歴史的災害である。
郷土函館では1000戸以上を焼失する大火が実に10回以上あるが
ここでいう大火とは昭和9年のもっとも悲惨な大火のことである。
このたび画像を踏まえ検証をしてみたいと思う。
出火元は住吉町91番地 瞬間最高南南西39m/s(推定)の風が民家を遅い半壊する。冬の夕方、当然暖房は欠かせない。その暖房である囲炉裏の火が風にあおられ次々と飛び火、さらに強風による電線の短絡も重なり、木造家屋が密集 する市街地20箇所以上で次々と延焼したため、手が付けられない状態となった。
焼失区域 尚、青線はもっとも多くの被害を出した亀田川である。
赤丸は大凡であるが青柳町20番地、 検証出発地点!
焼失町および面積 全焼町22 半焼町18 面積416.39ha
焼失建物棟及び世帯数 11,105棟 22,667世帯
(内外国人86世帯)
死者 2,166人 重症者2,318人 軽傷者 7,167人
罹災人口 約102,001人
損害見積額 建物36,537,415円 その他87,380,612円
総計123,918,027円(当時)
大火による死亡調べ
焼死 748人 溺死 917人 凍死 217人
窒息死 143人 その他 29人
その他収容後死亡 112人 合計2,166人
ここで注目すべきは溺死の多さである。 その前に一部被害状況
繁華地十字街の惨状
停車場通りの惨状
函館市役所の惨骸
さて検証に入る。 設定は妻と子供3人、年老いた母との避難とする。
以下は昭和8年の函館地図であるが、確認した結果批難ルートは
今の車道でほぼ間違いはないと思う。
青柳町電停付近の飛火発火地点時刻が午後7時35分であるから
この辺りは7時35〜8時10分と考えられる。
青柳町電停付近火元からの距離727.9m
風向きは南から南西、それから西へと変わる、いわゆる時計回り!
したがって豊川方面への批難は考えにくい。
まずは青柳坂を下りる!
暗闇と強風の中、炎の灯りを頼りにとにかく走る。
そして坂を下りれば現宝来町11番交差点、(現)
右側、即ち谷地頭方面は出火元、左に行けば十字街という繁華街
群衆心理はともかく、ここで左に曲がるか直進するか迷ったでしょうね。
検証では真っすぐ進みます。
真っすぐ進むと現東川町5番地交差点
東川町護岸より十字街方面を望む
さらに進むと大森町の交差点があり、右が啄木小公園に出る海岸ルート。左は千歳町から高盛町〜金堀町に至るルート。
ここでも二つの選択肢があるが検証は千歳方面とする。
理由、まず大森町に飛び火したのは午後9時20分(2.575m)
このことは強い浜風が影響している。
今は民家や建物が密集しているが当時はすでに火がまわっており
海岸沿いは風避けもなく女子供は危険と判断!
さらに進み(左)新川、(中)千歳、(右)高盛と至る交差点があるのだが当時もこのような交差点であったかどうかは不明(大凡はあってる)
検証では高盛方面を目指す!理由ここに至ってはもうどこに逃げても同じと判断、かといって新川方面の安全は確認できない。海岸に近いルートは相変わらずの強風! ならば右にも左にも行けるルートが最良と判断!
そして問題の川(亀田川)につきあたる。
橋を越えれば高盛町(全町焼失)
問題はすでに橋が焼けおちていたことにある。当時は木造の橋
さらにこの亀田川、水量が浅いわりには川幅と高さがある。
なぜなら人工の川だからである。
元々の水域は亀田八幡軍の森を抜け万代町方面への海に流れる川であった。
1703年、元禄16年に大洪水があり、そのときの土砂で河口が埋まり船がつけなくなった。そして水害対策と函館への生活用水確保の目的で
安政6年に函館方面に分流させた。
後の明治10年、コレラなど伝染病が出始め、西洋式の近代的水道を作ることもあってオランダの土木技師(ローウェンホルスト・ムルデル)の設計により大森浜に転注するに至った。
市街地を流れる川故、洪水はもっとも警戒しなければならない。
したがって堀が深く作られている。 要するに城の堀を思えば良い。
そして暗闇と強風、及び有毒な煙の中川へ落ちてしまう。
川からあがれぬと悟った場合、やはり右方向、海へ逃げるであろう。
だが現実は厳しく、ここで息絶える者、またやっとの思いで海に到達しても高波のため海に引きずれこまれてしまった。
海に飲み込まれなかった者も大波をかぶり吹雪の中で凍死!
よく冷静な判断というが、ここで亡くなった方はやみくもに飛び込んだわけではないことがよくわかった。
冷静な判断でもここにたどり着く! これだけ風向きが変わればいったん決めた批難方向を変えることは相当な勇気が必要だったであろう。
ましてや妻や子、年老いた母をおぶっていては。
復興
これは有名な写真で「焦土と化せる市街を望む徳大寺侍従の一行 」
侍従は天皇の側近、徳大寺実厚のことである。 そこで詳しく人物を調べてみた。 以下の写真で説明
右から(藤岡警察部長)
(宮崎警察署長)
(徳大寺侍従)
(佐上長官)
(坂本函館市長)
復興には市民はもとより、消防、警察、軍隊が参加してるが
軍隊は函館駐屯部隊だけではなく、師団あげての復興体制であった。
画像は旭川第七師団工兵隊
昭和5年、函館市内防火水槽地図! 大火が多い函館にあって防火水槽は市内の至るところにあった。だがあまの強風その他でまったく機能しなかった。
高盛町に隣接する堀川町、ここが焼止りの場所となる。
現在の場所の特定が出来ず画像には撮らなかったが
競輪道路のような気がする。
まだ西部地区は煙がくすぶっているのか函館山がかすんで見える。
最後にこの災害で亡くなられた市民、及び外国人居住者、
そして殉職された方々に心からの敬意と哀悼の意を表するとともに防災の志を引き継がせていただきたいと思います。
亀田川での死亡検証写真は載せませんことご了承ください。
参考資料
函館市中央図書館資料室 函館大火資料 及び函館市史(通説編第3巻 第5編)昭和9年の大火概況
函館消防史 豊川町会(函館大火)臨時資料展示会場 |
地域の歴史
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まず石川藤助 (いしかわ とうすけ)とは誰ぞやと言うことになるので
先に写真を載せます。 ひらたく言えば井戸掘り職人である。
こんどは神社の説明に入る。函館湯倉神社 神紋は三つ巴、まずは画像を........
さてこの湯倉神社であるが、地域の守護はもとより、酒の神、湯の川温泉の守り神でもある。
古くは松前藩主高広が幼少の折に重い病にかかり、母の夢のお告げによってこの地の温泉に入浴したところ
快癒したという故事が伝わっており、湯倉神社にはこのお礼として奉納された鰐口(わにくち)が今も残っている。
また箱館戦争も無縁ではなく、当時このあたりは野戦病院があり、傷病者の温泉治療が行われていた地である。 また地理的にも函館市街地、
川汲方面、亀田方面等に枝分かれする分岐点でもある。
当然敵味方双方抑えておきたい場所であった。
当時の温泉は温く、湯治には効くが温まる効果は薄いと考えられる。
それを指摘した人物がいる。 誰あろう榎本武明である。
榎本もこの湯の川の温泉に浸かりましたが、その際こう言った。
この温泉を百尺、ですから30メートル程ですか......掘り下げたら熱いお湯が多量にでるだろうと....... そしてその言葉に触発され、源泉掘削に挑戦したのが井戸掘り職人である石川藤助だったのです。
明治18年にはこの湯倉神社近くで110℃近い源泉を掘り当てることとなる。後に藤助は浴場を開いて評判となり、温泉街も一気に活気にあふれ
料理屋、温泉旅館等が相次いでこの地に出店することとなった。
資性温良にして義侠に富み常に公共の事に努め、湯川村に温泉を開削し、現在の湯の川温泉街の礎を築いたのが石川藤助である。
また藤助に助言した榎本、もとより蝦夷共和国軍の野戦病院があった一帯は榎本武揚の遺徳をしのび、榎本町と名付けられ今もなお町名は変わっていません。
榎本も、そして藤助も参拝し共に湯に浸かったのがこの地である。
神社境内には3対(6基)の狛犬が存在するが、一番古き狛犬は小さき狛犬である、今は雪に埋まってはいるが裏口に鎮座している。
奉納大正9年
手水舎
神殿裏
境内日吉神社及び稲荷神社
神社近くには僕とはまったく無縁の函館ラサール高校がありますが、やはり合格祈願の絵馬もありました。
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地域の歴史NO.14(密航の窓口)「新島襄(にいじま じょう)」天保14年1月14日〜明治23年1月23日 (1843〜1890) 新島襄はご存じ明治六大教育家の1人であり、同志社大学設立者。 新島研究者も多く、PCで検索すればいくらでもヒットする人物でもある。函館にも縁があり、函館中央図書館フリーワード検索ですら80件ヒットする。 天保14年1月14日(1843年2月12日)、江戸の神田にあった上州安中藩板倉家江戸屋敷で、藩士の子として生まれる。 元服後、安中藩士となるが、元治元年(1864年)21歳のとき、国禁を犯してのアメリカ合衆国への渡航を画策する。その窓口となったのが当時の箱館である。 まずは新島襄本人の画像から。 新島は脱藩に際し、送別の宴も行ってもらっているようである。すなわち、家族、知人、友人がこぞって 新島に期待もし、また応援していたことになる。 そして渡航に向け箱館に潜伏中、当時ロシア領事館付の司祭だったニコライ・カサートキンと会う。ニコライは新島から日本語と日本の書物などの手ほどきを受け、また聖書に興味を持つ新島に自分の弟子になるよう勧めたが、新島のアメリカ行きの意思は変わらず、カサートキンはそれに折れ新島の密航に協力した。 画像は函館市大町にある「新島襄海外渡航の地碑」である。 そしてもう1枚が遊覧船桟橋の傍らにある銅像であるが、この姿が箱館出国時の服装とされる。 また腰に見える物は刀ではない! 写りは悪いがもとになった写真を参考資料として載せます。 もう一つ資料を載せますが、一番左下に写っているのが、同じ写真である。 全文でも述べたとうり、新島襄はPCでいくらでも調べられる人物。だからこそ詳しく書いてはいないのだが、僕には一つ納得がいかないことがあった。それがなにあろうこの写真である。 脱藩者である新島が箱館で潜伏するには目立たぬ行動が肝要である。 いつ命を狙われるか知れないからである。 だが、この写真には緊張感がない。 また写真館で撮ったような感もあり、これまた不思議! そのような余裕があるはずもない。 函館百珍と函館史実(デジタル板)の第一話も実は(函館脱出当時の新島襄先生)である。 そして同じ写真があり、そこにはこうある。 「 写真は函館脱走当時従者の服装を撮れるものにて魯西亜の写真師の撮影と言へば恐らくゴスケウヰツチ氏の事ならんか」と。だがこれは米国で撮られた写真である。 今回資料として選んだのは2つあり、一つは「新島研究95」そしてもう一つが同志社編集の 「新島襄その時代と生涯.一五〇年記念写真集」であった。 そして写真40、すなわち先ほどの 写真の説明書きにこうある。「新島の脱国紛装。アーモスト大学に在学中、旧友の求めに応じて再現したもの」と。 即ち米国で撮られたことになる。 画や書の才能もあり、とくに水墨画に長けている。画像は先ほどの資料を拡大したものだが クリックでさらに見えやすくなります。 新島 十二歳(1855.安政2年)の時に描いた仙人図 |

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地域の歴史NO.13 石川啄木と砂山 今回、啄木はメインではないので経歴は省きます。詩人でもあり、また歌人でもある啄木はこの函館の地で数多くの作品を残している。とくに啄木が好んで散歩した場所が大森浜と砂山である。 東海の小島の磯の白砂に、われ泣きぬれて蟹とたはむる。この有名な詩は啄木の墓碑に刻まれている。 そしてこの墓碑が見つめる先にはハマナスが咲き乱れる大森浜と砂の山があった。 今回その砂山の名残を探すべく探訪し、また調べても見た。啄木の詩に砂の文字がある作品は多々ある。 その代表的な詩の一つに「潮かをる 北の浜辺の砂山の かの浜薔薇よ 今年も咲けるや」があり 啄木小公園の座像(台座)に刻まれている。 ではこの詩は何処で詠まれたのか?場所をほんの少し移動してみるがなにもない。砂山の痕跡はおろか 名残もない。啄木が散歩した明治の時代、この辺りは小高い砂山とハマナスが咲き乱れる海岸線であった。砂丘は遮るものがなく、湯川まで続いていたのである。 同位置から左反対方向を見るが、これまた名残と呼べるものはなにもない。この辺一帯は現在は日乃出町だが、昭和6年から13年までは砂山町であった。今はこうやってグリーンベルト地帯となってはいるが 唯一ハマナスだけが当時の面影を残す。 さて、砂山の規模はどのくらいのものであったのであろうか? 砂山一帯の面積は東西に1キロメートル、南北に300メートルの35ヘクタールにも及び、高さは最大で30メートルと言うから相当な砂丘であったのは確かである。 画像は昭和23年ころの航空写真である。戦後3年経て、まだ砂山が確認できる。 「クリックで拡大」 だがこれとて啄木が目にしていた時代に比べれば規模が減少している。 詳しい年代は分らぬが 函館市の地質図の中にも「砂丘推積物」として記載がある。だがこれとて時代は新しい。 次の画像は是非クリックしてみてほしい。 昭和32年8月22日 北海道新聞の函館市民版に砂山の記事がある。今は無残な姿に変ぼうと題して、当時の砂山には似つかわしいとある。 画像が鮮明ではないが、砂丘の上に人の姿が確認できる。戦後12年隔てて、なおこの規模をほこっていたことになる。 この砂丘の規模は時代とともに減少してゆくが、戦争も無縁ではなかった。この砂山から砂鉄が採れるというので、戦争の末期には大量の砂が運びさられたのである。戦後になると国土の復興や開発という号令のもと、砂山の砂鉄堀りにはさらに拍車がかり、昭和28年に、砂山を横断する道路を造成するという条件をつけ、市が民間の会社に、砂鉄の採取を認めたのである。(砂鉄含有率は20パーセント) その他、港湾の埋め立て、ダムやビルの建設、道路舗装などいろいろなことに活用された。とりわけ中野ダムの建設には大量の砂が運び出されたとある。(函館市史)戦時中この辺りに高射砲の部隊があったと言う話を聞いたことがあるが、今回その存在の確認は取れず?とする。 護岸工事がなされる前の浜辺は強い季節風により、内陸300メートル以上に砂が堆積していたのであろう。そしてハマナスが咲き乱れていた。啄木でなくとも散歩してみたくなる風景であったのであろう。 アラビラ砂丘を散歩しているよだと言う話もわかる気がする。明治のこの辺りの美しさは啄木をこの地に留めるには十分すぎるほどの景色だったのであろう。 今回、砂山の名残を探すのが目的であったが、残念ながら見つけることは出来なかった。 だが一つだけ名残と呼べるものを見つけた。それは町名である。この砂丘に隣接する「高盛町」 の由来である。砂山の一番高い場所を「大高盛」と読んだことからこの町名がつけられた。 ならばと思い、高盛小学校の校歌を調べてみましたところこうある。 1.不断に響く 波の音を 学ぶ心の 戒めに 望みを高く 聳え立つ 臥牛の嶺に かけんかな 嗚呼 高盛 吾等が学園よ 2.積もれる砂に 芽ぐみたる ← 将来尊き 学び舎の 誉れを遥か 展ごれる 海路の果てに おかんかな 嗚呼 高盛 吾等が学園よ 不断は、常日頃、いつも、平生、絶え間がない、などという意味。 普段は不断の当て字 時間は心臓と同じでいつでも絶えず動いている。 その動きは断絶することなく、永遠につづく だから、不断は、断えない。したがって「いつでもという意味になる」 臥牛は函館山の意味 最後に啄木が愛したハマナスの画像と大森浜の海岸線を載せます。 ハマナスは立待岬にて撮影 「参考資料」函館市史 北海道新聞記事
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