なんだか函館

函館山に残る要塞跡や西部地区の町並み、その他地域の紹介ブログです。気軽に見て下さい。

地域の歴史

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地域の歴史NO.12 (函館遊郭)別名(大森遊郭)と大門

まずは画像から、画像は函館松風町電停付近の交差点である。この辺りを通称(大門)と呼ぶ。
今は五稜郭地区にその座を奪われたが、数十年前までは函館随一の繁華街であった。



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立ち位置が同じで左手を望めば函館山、元町方面となる。


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そして後ろを振り向くと大森浜、大森稲荷方面となる。


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この3枚目の画像の奥に信号機が確認できると思うが、その奥辺りが函館遊郭の門があった場所と思われる。今はまったく当時の痕跡はないが、昭和9年の大火までは実在したのである。


画像は函館遊郭の資料の一部 なお、資料は「富の函館」より抜粋。


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そして遊郭の門を拡大したのが次の画像である。クリックして拡大すれば見やすくなります。
前方に見える祠は大森稲荷と思われる。


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資料の一部である(いろは樓)の中から読みやすくすれば以下になる。
大森遊郭(一名宇賀の浦遊郭)明治二十九年十月  蓬莱町二十二番地に創業、三十三年中同町十九番地
へ引き移り、四十年の大火に類焼したるを以て四十二年中今の大森町二十二番地に仮屋を新築し営業を継続せり。而(しかう)うして四十四年七月新たに本屋を建築し今に至るとある。
また、いろは樓の(樓)の字(ろう)と読むが、この字の樓は牢屋のような囲う意味ではなく、
その建物の造りから樓の字があてられる。 これは遊郭全般に言える。
「樓」とは、木を組み重ねた建築物のことを言うのであって中身をさす言葉ではない。


この辺りは昭和9年の大火によりすべてを失い、当時の面影を残すものはないが、一つだけ古い蔵が存在する。いちを画像に収めたが、大火後の建築である可能性もある。もしくは門の後方にあり古写真で確認できないだけかも知れない。大火前の蔵である可能性も実は否定できない。なぜなら壁が修復された痕跡があるからである。蔵釘も大火で溶けるとは思えず、この辺りがわからない?


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先ほどの函館遊郭の看板が付いた門、あのことを大門と言い。建築物などの名残はないが、大門と言う名前だけが名残として今でも生きている。 またこの大門地区には映画館が多数あった。その一つが
画像の有○座である。映画館が密集する場所とは少し離れた場所にこのポルノ専門の映画館があった。
※ポルノ以外も上映していたようです。 

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銀ぎつね、お前も入ったんだろうって? はい、だいたい前列より10番目くらいの観やすい席で
鼻息荒くして観てたのが僕です。 おばちゃん、1,2,3,4、4人ね。あんた高校生じゃないの?
ドキ! うんにゃ〜違うって そんなキップ売り場です。


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来月の映画のタイトルと女優のチェック! 


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すっかり話が脱線してしまったが、遊郭もまた文化の一つであることには変わりはない。
今現代と当時を同じ物差しで図るには無理が生じるのではないか。僕はそう思う。
やたら昔のことを恥じり、今に重ねる輩がいるが、それは違うと僕は思う。
遊郭はなんら恥ずべきものではなく、その地域の文化の一つと僕は認識する。
遊郭もまた地域に貢献し、その街の発展の礎となったのには間違いはない。
したがって地域の歴史として紹介するはなんら恥ずべきことはないと思う。

「夜泣き石」

地域の歴史NO.10 「夜泣き石」 夜泣き石とは函館山(観音コース)に隣接する場所に存在するが、その説明の前に函館の地名から説明致します。 函館を旧名で書けば「箱館」になりますが、その由来は15世紀、河野政通の館が築かれ、その館が箱形に見えたことから箱館と呼ぶようになった。
一般的にはこう思われてはいるが、実はもう一つ説がある。 それはアイヌ語の「ハクチャシ」である。
意味は小さな砦。このハクの部分がなまり、後に箱になった、こんな説も存在します。
いずれにせよ18世紀には箱館の呼称が一般的になってます。

ちなみに箱館以前の地名は「宇須岸」(うすけし)であり、これもまたアイヌ語の「ウショロケシ」が
なまったものと言われてます。意味は湾の端、または西の端となる。 この宇須岸の呼称は15世紀半ばの「コシャマインの戦い」の記述の冒頭に記されていますが書物として始めて記されたのは17世紀半ばに書かれた松前藩の文書「新羅之(しんらの)記録である。
18世紀の書物では宇須岸も箱館も登場するが、同じく18世紀の松前藩「福山秘府」では宇須岸は
函館邑(村)のことであろうと述べられています。
余談ではあるが「函館」の文字が、「箱館」に代わり統一的に使用されるようになったのは、明治2年からである。

ま〜能書きはこれくらいにして画像を見てもらいますが、まずはルート説明からします。
今回のルートは、実行寺(函館市船見町)からのルートです。 画像は実行寺


イメージ 1



実行寺から入り矢印の方向へと進む。看板もなにもない。 ただただお墓の中を通り抜けるだけである。


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行けども行けどもお墓ではあるが、墓地用地が過ぎれば画像の小さな看板が見えてくる。
また近くに観音コースの看板もあるのでコース添いに進む。


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函館山ハイキングコースの一つである観音コースは道幅が狭い箇所が多々ある。
夏場はこんなんです。


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しばらくすると画像の場所に着きます。静かな場所でもあり、薄暗い日などはご機嫌である^^;
右側に見えるのが夜泣き石である。


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この夜泣き石、肝試しの場所ともなってはいるが、まったく意味がわかっていない!
この石には諸説ある。 まず、ある母子が悪人に殺され石の下に埋められた。
その後毎晩石の下から泣き声が聞こえるので日持上人という僧が供養し、その後声は聞こえなくなったというもの。 だがこの話は日持上人の生地である駿河の「小夜中山の夜泣き石伝説」をそのまま仮借したにすぎない。

また、鶏の鳴き声も発したということで「鶏冠石」
石を掘った石工が3人死んだということで、故事にのっとり「題目石」
大石の下に経文を書いた小石を埋めたということで「御経石」などさまざまな呼び名がある。


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いずれにせよ石碑には、南無妙法蓮華経が刻まれている。


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この多々ある呼び名の中でもっとも相応しいのは「鶏冠石」である。
函館山に鶏冠峰という峰があった。 函館要塞時代にこの鶏冠峰の石を切り崩しそこに要塞を設ける。
石工らが切り崩し、運搬屋が下まで石を下ろすのであるが、大きいほど運搬料が高くなるため
できるだけ小さく切り分けた。 この鶏冠石もその一つである。

鶏冠峰とは文字どうり鶏の冠のようであったらしく、その冠を切ったことで供養としてこの場に
置き、その後の安全を祈願して供養したものと僕は思う。
その根拠の一つに明治の要塞時代から戦前まで行われていた(鶏冠祭)がある。
山を恐れ敬うからこそ数々の伝説が生まれるのであるが、夜泣き石とは伝説にすぎない。
ただ、僕もはっきりとはわかりません。

「箱館通宝」

地域の歴史NO.9「箱館通宝」聞きなれない通貨名ではあるが、実際に流通した銭貸である。
蝦夷地においは銭貸の通用も充分行われて居らず、またあっても絶対量が不足していた。
そこで寛政十一年に一万貫の鉄銭を江戸から廻送した。寛政十一年というから1800年ころだと思う。
それから数十年後、当時の箱館の人口も増加し商業が盛んになると、また小額貨幣の不足という問題が起こる。そこで安政3年(1856)になると箱館奉行の「堀織部正」「竹内下野守」の請願により蝦夷地でのみ通用する銭の発行が許されました。これが「箱館通宝」である。

箱館開港後の貨幣不足は深刻で、物資の流通から日常の生活に至るまで不便が生じていた。
このことが発行許可の一番の理由と思われがちがが実は幕府はもう一つ心配の種があったのだ!
それは蝦夷地から正貨が外国に流出するという様な懸念があったためである。

その最たるものはイギリス船により中国に持ち込んだ銅銭がある。 元より我が国は銅銭の輸出を禁止していたが、一分銀(重量八.六グラム)は銅銭一文で一七00文替(一両、六貫八百文)になっているが、中国では同量の銀で銅銭はニ六0文から三三0文替であった結果、我が国の銅銭が中国へ渡ると、
六、五倍から、五倍の値段に跳ね上がる。 したがって鉄銭を採用したのである。
画像は銅の母銭である。鉄銭と違い希少価値も高い。 鉄銭ならば1000円程度、この母銭だと
状態にもよるが4万〜6万5千円するらしい。


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箱館通宝「枝銭」と箱館通宝銅母銭百枚サシ 百枚サシは(個人所有)ぬお〜金持ち♪


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箱館通宝の特徴は穴が四角ではなく、丸いものだが八角形のものもある。 内訳は以下 ↓

1、大型銅母銭     2、小型銅母銭     3、八角孔銅母銭
4、大型潤緑通用鉄銭  5、大型細緑通用鉄銭  6、小型通用鉄銭

このことから一般に使われたいた銭は6の小型通用鉄銭と思われる。 3の八角孔銅母銭は試験的に
作ったもので流通はしていない。 ま〜いずれにせよ幕府と松前藩は鉄銭に拘った。
「蝦夷地に於ける通貨の流通事情」より抜粋 ↓

当時の箱館奉行(羽太正養)は当初「蝦夷が故に、金銀は瓦石も同じと考え「抑も金銀銅等夷人(アイヌ)の手に渡す事を禁ずる所以は、海外へ洩れん事を恐るるが為也」と主張し、長崎で異国との通商で、金銀貨が外国へ流出するのを見て、蝦夷地にも起こる事を恐れたからである。
長崎の敵、蝦夷で打つとある。 これは余談ではあるが鉄銭はアイヌの方々も便利と重宝していたようである。
 

次の画像は「砂焼場」の絵ではあるが資料からのコピーをとって、さらにデジカメで撮ったもので
写りはよくありません。


イメージ 3



さていよいよ鋳造だが、鋳造所(銭座)を設けることとなる。場所は現在の谷地頭市営温泉近くである。
職人と鉄は南部の職人を呼び寄せとあるので南部鉄であろう。 先に紹介したように箱館通宝には丸い穴がある。裏には安政の「安」の字がありますが、丸い穴の性質上ヤスリの掛け具合が悪い。
質も悪いがこれは鉄銭特有のものか・・・・・ だが「箱館通宝と蝦夷地に於ける銭価の返還」の中に
面白い文章を見つけた 以下引用 箱館通宝の通用貨の鉄銭は、円のためにヤスリが掛けられず
仙台通宝の種銭と比べても見劣りすとあり、また、このようなことも書いてある。
(一級職人ではない)そりゃそうだろ〜 南部藩とて生きて帰れる保障もない蝦夷地になんで
一級職人ばかり送るかい! てなもんでしょうな^^;


次の画像ですが、いちを読んできた、、、いや、見てきた。「箱館風読書」ごらんのとうり読めません!
見てきたが適当だと思います。 この画像は函館市史からのものですが、内容の一部に当時の物価の記録が載ってます。 

豆腐1丁 24文   風呂代 大人7文、子供5文  髪結 32文
  大工手間料1日  358文 など


イメージ 4


函館通宝を調べるのであれば「箱館通宝と蝦夷地に於ける銭価の返還」と
「箱館通宝鋳造の顛末」がお勧めである。「箱館風読書」は所々しか読めない(僕はですが)
 

地域の歴史NO.8

地域の歴史NO.8(函館公園)サブタイトル「生き証人と今はなき記念の大砲」
初めに函館公園の成り立ちから簡単に説明しますと、明治12年に開園 北海道で最初の公園でもある。
公園建設では市民こぞって参加している。園内の樹木や灯篭など、市民の寄付によるもので、市民による市民のための公園である。 画像は園内正面入り口付近、御殿山(函館山を望む)


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正面入り口付近2


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もう見ごろは過ぎたが藤棚と旧開拓使博物館1号棟


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孟宗竹、見てのとうり孟宗竹にしては細いが函館公園の孟宗竹は北限とされている。


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園内白川橋 


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新しく見えるが実は古い。上の部分は新たに補強されたが原型はそのままである。
函館公園が北海道初であったと同時にこの白川橋もまた北海道初の洋式石橋(アーチ型の太鼓橋)
である。尚、浅田清次郎が実費で造って寄付したもので、開園式には同事業主任として出席している。
付け加えるが明治12年12月6日の大火では店も(廣島屋)住宅も一切なくし、甚大な打撃を受けた。
画像は斜め横の絵ではあるが、アーチと石垣がよく確認できる。


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この白川橋の由来は、明治14年、明治天皇が巡幸された際の侍従である北白川官能久親王が馬車でこの橋を渡られ、自ら「白川橋」と名付けたといわれています。当時の浅田清次郎氏の思いを鑑みれば
名誉であり嬉しくもあっただろうが、僕の中では「浅田橋」です。誰がなんと言おうと浅田橋です。
函館公園内の行きかう人々を見守ってきた生き証人の古き石橋。橋に、いや氏に報告したいものです。
今は北海道の土木遺産として大切にしておりますと。 

サブタイトルの生き証人の次は、今はなき記念の大砲ではあるが、その前に公園入り口付近にある
噴水塔と古い写真(明治30年代)噴水塔もまた寄贈されたものである(イギリス商社)


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噴水塔と屋台が見えるが「もち」って書いてあるんでしょうかね?


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こちらは噴水塔の前での子供の写真ではあるが、左側の子の帽子がよく分からない? 当時の支那の衣装(帽子)ではないでしょうか? 尚、支那の呼称は差別用語ではないことを説明しておきますね。
支那とは中国の一部をさして用いられる呼称なんです。国号としても使用可能であり、また固有名詞の
通時的な呼称でもあるんです。後に一部の人が差別語的であるとしましたが、それはまったくの誤りです。ですので指摘があっても受け入れません。 写真の子は下駄履ですから日本人でしょうね。
帽子は親がおしゃれで買ってあげたのでしょう。でも分からない、日本のものかな?


イメージ 10



最後に今は公園内に存在しないもの。それは大砲である。クリミア戦争記念の大砲ではあるが、昭和の鉄不足により供出されている。 函館には幕末からの古い大砲が数多く残っていたが、供出が盛んになるとその歴史的価値から隠されるものも多くあった。しかしこの大砲はいかんせん大きく、また4つ並んであったことから隠しきることが出来なかったのであろう。


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古写真、北海道大学付属図書館(許可済)

旧陸軍墓地

地域の歴史NO.00 (旧陸軍墓地)
旧陸軍墓地 函館市船見町、外人墓地が有名な墓地用地にあってひっそりと佇む墓地である。
墓碑の数は少ないが数イコール戦死者ではない。旧函館陸軍病院入院中の病死もある。
古くは明治初期、新しいもので昭和18年までは確認している。
ちなみに函館出身従軍兵士の戦死者は、昭和期だけで「陸軍3275人」「海軍1429人」計4704人。
日露戦争では「陸軍80人」+−1名、海軍2人 日露戦争の場合、ニ百三高地の激戦に多く投入された
ため多く、また昭和期では昭和17年のソロモン諸島ガダルカナル島、18年のアッツ島
20年の沖縄戦といった激戦地に投入されたため、これらの地区での戦没者が際だっている。
画像は旧陸軍墓地であるが、他の墓碑と違い花を供える者もなし。


 

イメージ 1



今回この墓地を記事にしたのは歴史的見地からではなく、オカルト的な噂を解明するためである。
なにやらこの墓地は心霊スポットとして有名であるらしい。僕もあるサイトで確認したがやはり
心霊スポットとして紹介していた。その内容だが墓地の中を兵士が歩いているという紹介が多い
ようである。では実際はどうであろう? 写真で確認できるとうりこの墓地は民家と隣接している。
また、角地にあり、いわゆる交差点であるからして人の往来は多い。上の坂道に民家が立ち並んで
いて、また小さな畑もあり住民がこの坂を歩くは当然である。

次の画像は坂道から撮った画像です。これで説明がある程度できると思います。正面から見ますと
まるで墓地の中にいるように見える。ましてや暗闇で恐怖心の中歩いたり、車の中から見れば
そう思いたくもなる。実際にあらゆる方向から試してみたが、この方向が一番誤解しやすい。




イメージ 2



この船見町の墓地用地はあらゆる宗教及び異人の眠れる地である。旧陸軍墓地は宗教にとらわれず、また寺用地ではい。現在の管理は函館市になる。この英霊が臥牛の麓に眠れる限りしっかり管理していただきたいと願うのみである。


イメージ 3



次にこの墓地とは関係がないがアッツ島の話を多少述べます。 この島での函館出身の戦死者も多い。
まずはアッツ島の位置から。


イメージ 4


イメージ 5



冒頭で書いたとうりアリューシャン列島のアッツ島は激戦地であり、また最初の玉砕の地となった。
旧日本軍がこの地を占領し島名を(熱田(あつた)島)と改名! これは未確認なのだがこの激戦の山々の中に「臥牛山」という山があると聞いたことがある。以前調べたが分からず挫折した山である。
兵士が通称として呼んだ山かも知れんが、もしかして函館出身の者が命名したかも知れない。
毎年7月には函館護国神社でアッツ島関係者による慰霊の儀式が行なわれる土地柄。
そう考えても不思議ではない。 次の写真を見てもらいたい。「横たわる遺体は旧日本軍兵士」


イメージ 6


イメージ 7


どこか函館山に似てるとは思いませんか? 仮に臥牛山があった、そう呼んだ山があるとしたら
この山ではないでしょうか? 僕はそう思えてなりません。 写真はアッツ島の激戦地!
当時の函館山にはテレビ塔がなく、この写真のように尖がった山であった。 左に鞍掛山、そこから
なだらかに下り立待岬へとつながる。故郷を思い、そう名ずけても不思議ではない。
尚、資料の写真は「東海大学教養学部人間環境学科社会環境課」(鳥飼行博研究室)

臥牛に眠る英霊も、またアッツ島の臥牛に眠る英霊も、今の臥牛山を見れば笑みが浮かぶであろう。
臥牛山は平和の山であり市民の憩いの場ですと墓碑に報告する、以上。

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