なんだか函館

函館山に残る要塞跡や西部地区の町並み、その他地域の紹介ブログです。気軽に見て下さい。

地域の歴史

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今回地域の歴史に選んだのは(元町配水場)函館市元町である。函館の水道は横浜についで2番目であるが、日本人による水道としては国内初であった。このことは有名であり函館の者らなば誰でも知っていることだろう。ではなぜ横浜水道の設計、監督をした英国人ヘンリー・スペンサー・パーマー氏に依頼しなかったのか? それは予算である。大工事が予想され経費削減を鑑み、高給な御雇外国人よりはと思案した結果であった。 そして抜擢されたのが日本人技術者の平井晴二郎氏である。

氏は、文部省の第1回留学生として渡米し、土木工学の学位を取得している人物であり、また、横浜水道ではパーマー氏のもとで建設に参加している。いわば弟子である。
次に函館にいち早く水道を設けた理由であるが、その前に函館の地形を説明しなければならない。
函館は波穏やかな湾に恵まれ交易には適した港ではあったが、その反面水の便には恵まれず、交易船により度々コレラなどの病原体がもたらされた。また川から取っていた飲料水を介して瞬く間に大流行し、多くの死者が出ていた。

加えて一度強風が吹くと遮る大きな川がなく、たちまち大火となる。函館に大火が多かったというのも水利に恵まれないことが大きな要因の一つとも言われ、人々にとって水道の創設は悲願であった。
これより平井晴二郎氏設計のもと、創設水道は、取水場、沈殿池、送水管、配水池の4つの主な施設が
完成することになる。


取水場は亀田郡赤川村を流れる赤川に置き、約700mの導水管で赤川の沈殿池までを結び、沈殿池で12時間沈殿させた後、上澄水が元町配水場まで約8.6kmの送水管を通って送られ、配水池の有効容量は4,386立方メートル。配水池から引かれた配水管には、飲み水などの生活用水を汲む共有栓が約100mから約120mごとに、消火栓が約120mごとに整備された。※函館市水道百年史参考
画像は元町配水場内にある復元された番人詰所。今もなお管理事務所として現役である。



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ここからみる風景はごく1部であり、敷地面積は約6.4ヘクタールと広い。それが函館山の中腹にあるのです。また左上に見える線であるがゴンドラ(ロープウェイ)用である。


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霧の中、真上をゴンドラが通り過ぎる。


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今は市民に開放しているので気軽に敷地内を散歩できる。敷地内には公衆トイレも完備してある。
画像は、配水所内に残る用途不明の建物。


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その他


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水道創設記念噴水塔


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噴水に刻まれた「清泉滾滾」(せいせん こんこん)の文字


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実はこの清泉滾滾こそ記事のメインである。辞書には滾々(水が)尽きることなくわき出るとある。
この施設が完成したときの函館市民の喜びようは半端ではなかった。
完成を祝う祝賀会は3日間に渡り、家々の軒先には灯籠が灯され、船では花火も打ち上げられるなど、
不夜の町が現出したかのようであったそうだ。
そして明治22年9月2日の函館新聞に祝辞が掲載された。 その新聞を実際に観覧しコピーもとったのであるが、なにせ字が小さく、また文章も長い。加えて内容が難しい....
アップしようにもデジカメでは無理! そんな中、このような言葉がある。

「幾多の財をなげうち幾多の心労を積み赤川の水流を導き来って当市を横流せしめ(滾々)たる
(清泉)茲に噴出するを見るに至る。このカッコ内の言葉を引用して、後に「清泉滾滾」と刻んだのである。この記事を掲載した当時の記者もきっと天国で喜んでいることであろう。

「祝辞後半」(滾々永く市街に流注せよ余輩い汝の笑を含んで来るを歓迎するものなり余輩い汝が此地に嫁するの媒妁たる有志諸君に感謝するものなり茲に新水を汲ん祝詞を述ぶ)で〆である。
 一部現在では使われてない字がありますのでわかり易く変えてあります。

 記者の願いである「清泉滾滾」これからも函館の水がかれることなく、永遠に街を潤して下さいの
メッセージを肝に命じ、水の大切さを再確認する時期にきているのかも知れないですね。

画像は裏面に載っていた広告である。 元町小学校 生徒募集 尋常科一年生ヨリ四年生マテ各級欠員アリ望ノ方ハ至急申込アレなど。 札幌ラガービールじゃなく、日本第一札幌ラガビールですよ^^;



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地域の歴史NO.6 米軍進駐。画像資料の中に過去画像を使うことお詫び致します。
さて、まずは過去画像の1つである米軍上陸写真。「米第77師団第306機動砲兵隊」である。
上陸地点は函館市海岸町定温倉庫岸壁前。本道上陸の第一歩であった。
驚くことに舟艇から揚陸したブルトーザーや機械を持ってして岸壁北側の浅瀬の地均し工事を開始し僅か一時間で完了している。即ち上陸箇所が1つ増え、2ケ所となる。一時間で完了!旧日本軍であれば
モッコとスコップ故、数十時間はかかるであろう。 尚、上陸日は昭和20年10月4日であり、これが函館上陸の日と思われがちだが、実際には9月に先遣隊がいて、旧金森百貨店などを視察している。



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砲兵隊の主だった任務は函館山に残る要塞砲をつぶさに調べ上げ、それを破壊することであった。
また、函館山に限らず、汐首砲台、恵山砲台、白神砲台等も該当する。
上陸人数であるが資料がまちまちで、はっきりとした数字は出ない。北海道立文書館蔵の駐屯地別総兵力によればパーネル代将以下4,297名とあるが実際はそれ以上の軍隊が駐留していた。
また、代将とは准将のことであり後に少将に昇進している。
当時の函館には主だった軍事施設も、また軍用飛行場もないし、毒ガス製造のような特殊工場も存在しない。特攻基地としては鹿部に陸軍四式連絡艇の部隊があった。船に精通していない陸軍であるため、操縦者は戦車隊や自動車隊といったエンジンに携わる兵士の中から選りすぐりの者を選び訓練していた。
その程度である。次に進駐軍が駐屯するということは当然宿舎が必要となるが、その内訳を簡単に説明する。画像は函館西部地区(末広町)にある五島軒。創業明治12年。歴史ある洋食レストランである。




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この五島軒こそ、函館における米軍進駐軍の司令部が置かれた所である。常駐兵員数は約40名。引っ越し料はわずか七千円、貸し賃は一ヶ月三千五十円と雀の涙ほどである。しかもコック、ボーイ、バーテン計8名を残すよう強要され、加えて部屋は造作を変えられたのである。付け加えるが進駐軍引揚げのときには備え付けの家具もだまって持っていかれ大損害を蒙るのである。これより先、本来の営業方針は適わず、函館市指定外食券食堂として再出発している。 それでも頑張り抜きこれより5年後、即ち昭和25年にやっと返還されたのである。そして10月には本来の場所にて再開したのである。 画像は函館新聞。昭和25年10月8日付けの再開広告。尚、当時の町名は相生町である。





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次の資料であるが、これもまた函館西部地区の町並NO,1で使用した過去画像である。
(旧丸井今井百貨店函館支店)この丸井さんは3階より上の階すべてが接収され約350名の米軍が駐屯した。そしてここに憲兵隊(MP)本部を置く。350名の内50名は憲兵隊(MP)
後に憲兵は7〜80名と増員される。その他の接収と駐屯数を簡単にのべればおおよそ以下になる。

まず306部隊が函館水産専門学校に約1500名。(後の北大水産学部)
同じく306部隊が水産学校に約1000名(後の水産高等学校)
304部隊が千代台の函館重砲連隊兵舎に約600名
同じく304部隊が谷地頭の津軽要塞司令部に約300名(衛生担架隊)と思われる。
千北ビルデング。(函館信用組合仙北ビル)に約500名 部隊名?
金森ビルデング。(金森ビル)に約500名 部隊名?
共愛会社(総合社会福祉館である共愛会館)に衛生隊が約300名
函館競馬場に約100名。部隊名?
その他将校用宿舎として旅館があった。約30名
学校は接収対象としては珍しいものではなく、むしろ好都合である。
余談ではあるが、戦争末期、即ち昭和20年4月においては遺愛高等女学校が函館連隊区司令部用に校舎を接収されている。だがこれも一例に過ぎない!


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次の画像は日本軍需品リストを点検する様子である。中央の人物がバーネル准将その人である。
もっとも軍需品のほとんどは米軍が上陸する前に処分してたであろうが? 


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函館護国神社。 これは調査ではなく、観光気分の一コマである。水兵帽が目立つので兵士の休日の日であろうか? それにしても数ある神社の中でなぜ護国神社なのだろう?


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さて、このような能天気な米軍とは違い市民はすこぶる不機嫌であった。それにはまず米軍に対しての勤労奉仕があった。戦中の勤労奉仕ではお国のためと割り切れた部分もあろうが、こと米軍に対しては屈辱以外のなにものでもない。当初は無報酬であったからである。
接収物件については後に将校用住宅として民家が数件接収対象になっている。
当時の当家はお気にめさなかったようである。 雨が降ればバケツが必要だったからか?(母談)


敗戦となり進駐軍が来るとなれば、官庁の建物から日章旗が消え星条旗を掲げなければならない。
後にプットマン陸軍病院となる共愛会館は「社会福祉法人」理事長である大上真宏氏はなんと
進駐軍が来るまで堂々と屋上に日章旗を掲げていたという。 その日の夕方、米軍がピストルをつき付け
各部屋の案内を命ぜられたとある。


画像は先遣隊が視察した旧金森百貨店。現ウイニングホテル。当初は金森洋服店(大正10年)
後に増築し金森百貨店となる。(昭和5年)函館市末広町。


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長年放置状態であったが大改修の後よみがえる。船を思わせる丸窓は当時と同じである。


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電車道路側はまた趣が違い、より当時の面影を残す。1度宿泊してみたいホテルの1つである。


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参考資料 北海道新聞該当記事 函館新聞該当記事 北海道終戦史 函館市史 地域史研究はこだて

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函館空襲」函館空襲とは終戦間際の昭和20年7月14〜15日間の戦闘である。函館空襲第一回の今回は、函館湾に沈んだ駆逐艦橘(たちばな)橘級駆逐艦である。この橘は本来、戦艦大和と共に沖縄戦に出動するはずであった。だが日増しに日本国内においても空襲が懸念され、本州と北海道を結ぶ青函航路の守りの船も必要となった。その白羽の矢に抜擢されたのが橘である。付け加えるが、青函連絡船の護衛任務についた駆逐艦は橘ただ1隻であった。もう1隻の駆逐艦「柳」は日本海側が担当であった。
鑑みるに、どれほどの激務であったであろうか!ここで簡単に橘の戦歴を載せるとおおよそこうなる。

昭和20年1月20日竣工 同年2月、横須賀から呉に向かい、ここで人間魚雷「回天」と合同訓練に従事。 4月、沖縄作戦発令!横須賀から出港するも、途中、壇ノ浦で待機。 その後5月になり駆逐艦
柳と共に青森の大湊基地に配備となる。配備目的は日本海側の(奥尻島〜男鹿半島)を航行する潜水艦の哨戒任務であったようだ。6月函館港に碇泊。7月13日(函館空襲前日)には函館西方、約10キロ地点に投錨碇泊。翌日14日は米機動部隊艦載機の集中攻撃を受け、多数の連絡船と共に函館湾に沈む。
この橘だが、単艦よく戦ったが評価は低いのである。 画像は僕の手持ちの資料「日本兵器総集」
(358ページからなる戦艦等の戦歴等が載っている本)なのだが、橘についてはたった2行、1945年
7月14日、函館湾において米空母機の攻撃をうけ沈没とだけある。

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駆逐艦橘は決して闇に葬る艦ではない!評価があってよいはずである。この橘は自由に航行できる湾外に出て戦わず、湾内と湾外を行き来しながら戦っている。それはなぜか? 数ある目撃証言の中から岡本産婦人科医院院長の証言、(岡本杏一)氏の手記よりを抜粋します。
氏は大学在学中に東京空襲を経験している。渋谷方面で被災にあい、その後、新潟にある高田の農業試験所をへて函館に帰省中、橘の交戦を目撃することになる。 以下は証言の1部である。 その当時私は、函館の市街地と港が一望できる弥生坂の頂上に住んでいたから始まる。



昭和20年7月14日早朝、空襲警報!津軽海峡のほうからズシーンズシーンと腹に響く爆音が聞こえ水柱を確認する。その時突然ラッパの音が鳴り響き橘が出港せんとしていた。 下海岸方面から敵艦載機数編隊が1本棒になり橘に攻撃を開始。 死闘の第一幕である。襲来したグラマンに対して橘は8の字を描きながら敵機に向かい砲撃応戦する。 私は橘が全速航行で敵機を迎撃したり追いかけたりするので、凄まじい速力のために艦が折れるのではないか、防波堤に激突するのではないかと憂慮した。
私は初めどうしてこの小型駆逐艦が行動の自由に出来る湾外から海峡に出て戦わないのかと不思議に思っていたが、それは湾内の船舶や湾外の2隻の連絡船を護衛するために湾内、湾外を行き来しながら戦っていることを悟ったとある。

この橘だが当時の写真を探すのは困難であった。 しかし昭和31年、12月24の北海道新聞に引揚げられた橘の姿を見つけることが出来た。 画像はコピーした資料をデジカメで撮ったもので鮮明度には欠けますが、資料の一部として載せます。橘と共に遺骨も確認できる。

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昭和31年と言えば、経済白書に「もはや戦後ではない」と言った時代である。戦後日本国政府が一番初めに行った事業は戦地に置き去りにされた兵士と民間人の復員事業。それともう1つが国内、国外に放置された遺骨の収集事業であった。僕は引揚げ資料を見て愕然とした。ここからは持論ではなく、資料を引用します。 ※引揚げられた理由は、残念ながら国の慰霊事業としての遺骨収集ではなく、あくまでも鉄鋼ブームによる企業側の利益遂行の一つとしてであった。 尚、企業名も調べて存じてはおりますが省きます。 結果的には遺骨は収集でき、ご遺族のもとに返されたのです。資料は膨大であり、書ききれるものではありません。画像は函館護国神社境内。 毎年7月14日には橘の生存者及びご遺族により慰霊の儀式が執り行われて場所である。

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この境内には「橘」の鎮魂の碑がある。有志の方々浄財により「橘鎮魂之碑」が建立されたのは平成3年7月。毎年7月には慰霊祭を執り行っているが、碑の大きさから戦死者全員のな名を刻むことが適わず、とても悔やまれるという。 画像は「橘鎮魂之碑」である。

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同碑裏側に刻み込まれた文字

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僕は戦争については語るつもりはない!ただ史実を載せることだけである。戦争の行動については賛否は必ずある。だがこの橘については悪いイメージはまったくない。生き残りの乗組員についても地域の漁師や住民があつくてあてをしている。重油まみれの兵士に貴重な真っ白な毛布も提供しているようである。
住民の目の前での戦闘!住民は見ていたのである。 青函連絡船を守るべく、割り込み自身を犠牲にしてでも船舶を守る意気込み。海軍の鏡である。単艦では守れるはずもなく、その護衛任務は果せなかったものの、住民には橘の奮闘が理解できたのである。 故に橘は名実共に優秀な駆逐艦であったと思う。

最後に駆逐艦橘戦死者140名。同じく駆逐艦柳戦死者21名。 また青函連絡船及び他の船舶に乗船勤務で犠牲になられた方々、加えて連絡船の乗客で犠牲になられたすべての諸霊の御冥福を祈りご遺族のご健康とご多幸を念じ併せ、「橘」の記事とします。 貴艦は優秀な艦である。

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地域の歴史NO,4

前回地域の歴史で紹介したのは「函館ドック」と工事写真である。今回はそのドックと因縁深い弁天台場(弁天岬台場とも言う)の名残である。弁天台場が当時の箱館湾沖に築かれたのは、安政3年〜文久3年
※1856〜1863である。それは外国船襲来に備えて、砲台の設置が絶対に必要だったからである。
ところが実際に使用されたのは内戦の箱館戦争であった。皮肉なものである。後に弁天砲台は廃止され跡形もない! だが名残だけは確認できるのである。 画像は函館ドック西門、左側に見える防波堤の下の部分。これは台場の石垣を再利用したものである。


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この位置から振り向くと画像の風景になる。

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反対方向より撮影

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函館漁港、さすがに古く痛みが激しい。手前の小さな階段を上がるとヨット類の停留桟橋となる。

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階段を降りれば風景は一変する。前方に見えるのが新しい防波堤である。

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画像は当時の護岸工事の写真だが、右手にまだ台場の一部が残っている。画質が不鮮明であり、動力の確認までは出来ないが、おそらく人力であったのであろう。

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元の位置に戻り、桟橋を歩く。そして行き着く先が画像の風景である。台場の石垣を再利用した防波堤の1部が対岸まで延びているのが確認できる。

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この防波堤、波の浸食等による被害の最たる箇所は先端部であるが、何枚かその被害状況写真を貼ります。(被害状況1)
 
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  (被害状況2)

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  (被害状況3)

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  (被害状況4)

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これが現状なのです。だが立派な部分もある! それはプレートです。
すみません、おもいっきり皮肉りました^^;

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地域の歴史NO,3(函館ドック) 一時期造船業界は世界に誇る産業であった。だがその地位は海外に奪われ、我が国の造船業は一部を除き不況の最たる業界の一つとなりつつある。 画像は函館ドックを望む絵ではあるが、遠目で見ても大型タンカー等が停泊していないことが分かる。

イメージ 1


拡大すると函館湾のシンボルともいえる巨大クレーン、高さ70メートル、幅110メートル、
重さ1基約2000トンの姿がはっきり見える。ちなみにレールの上を移動する2本の足の中が
エレベーターとなっており、そこからさらに横に伸びる連絡通路を歩き、最上部から斜め下に垂れ下がっている運転席へと入るのである。 

イメージ 2


さて、この函館ドックであるが、幕末に活躍した弁天砲台の跡地に建設されたのである。
弁天砲台は旧式化され無用の長物ではあったが、当時は陸軍省の管轄である。当時の函館船渠株式会社
は陸軍省を説得するために「明治20年に廃止されたので旧砲台と称されていた」と直談判!
函館区会の決議では、「本港ノ改修ト船渠ノ設立トニ就キ、屡之ガ調査ヲ為セシニ弁天砲台ヲ包含シ、燈明船ノ方位ニ向テ築出地ヲ設ケ、船渠ヲ設クルハ一挙両得ニシテ最良ノ計画ナリ」と道庁へ出願書を
提出! なぜ弁天砲台に拘ったか? 当然立地条件も良かったのであろうが、港湾改良調査委員の提出した第一文には(一 弁天町砲台函館区ヘ御下付ヲ請求スル事)があるからである。

                 埋立予定図

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さて、詳しい説明は省き、当時の工事写真を見てみよう。 船渠築造が活動したのは明治11年である。
念願の函館ドック建設まで、約20年の歳月が流れていた。参考画像明治30年頃

イメージ 4


参考画像2

イメージ 5


参考画像3

イメージ 6


最後に、この巨大クレーンは長年使用はしていない。維持にも解体にも相当な金が必要となる。
いずれは解体されるであろう函館湾のシンボル。 百数十年前、弁天砲台が無用の長物とされたのと
同じに、今、まさに同じ道を辿ろうとしている。個人的には残して欲しいが、こればかりはどうなるか
分からん。いつまでこのシンボルを見ることが出来るであろうか?

※参考資料 函館市史 函館船渠株式会社四十年史 参考写真 北海道大学付属図書館所蔵

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