なんだか函館

函館山に残る要塞跡や西部地区の町並み、その他地域の紹介ブログです。気軽に見て下さい。

地域の歴史

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地域の歴史NO、2

(谷地頭開拓)ここに1枚の写真がある。「函館移民取扱事務所前の移住民」とある。特徴としては子供が多い。やはり当時の家族構成は大家族であったことが分かる。故郷を捨て、食べるために新天地(北海道)に希望と夢を抱き渡ってきたのであろう。道民にとっては神様以上の人達である。



残念ながらこの写真は明治期ということだけで正確な年代は分からない。拡大してヒントを探してみたが不可能であった。唯一のヒントは矢印の電信柱だけである。丸枠は外灯にも見えるが定かではない。
どうしても拡大すれば鮮明度が落ち、特定するに困難となる。いずれにせよ年代測定が本文の目的ではないので省略します。 (クリックすれば多少拡大になります)

イメージ 1


北海道開拓における当時の窓口は函館であり、ここから北海道各地に渡ることになる。また、これよりも前、函館市内もまだまだ開拓途上であったのである。市内の開拓は明治以前から始まり、函館湾に近い方面から人が住みつき栄えた。函館山周辺の海岸線、及び麓から開発が行われたが難所もあった。
その難所とは谷地頭である。 画像は今現在の谷地頭電停

イメージ 2


画像の地域の開拓は難航したのである。谷地頭の地名はアイヌ語の「シクサラべ 」(大きな谷地)の意味からきている。明治初期、谷地頭は湿地帯であり宅地に適さない土地とされていたのである。
だが、函館湾周辺の狭い地域に宅地が集中した結果、宅地不足が問題化となる。開事第2編では
「道敷地坪買上ヨリ宅地差支ヲ生スル者ハ懇致ニ説諭シ、谷地頭埋立地竣工ノ上、売下転居セシムヘシ」とある。この文章もみても分かるように明治初期には函館の人口が急激に増えていることが分かる。
画像は明治13年である。まだまだ大きな石がちらばってはいるが開拓の早さがうかがえる。

イメージ 3


埋め立てと平行して、民家も確認できる。

イメージ 4


人力ではあるが、資材、及び石運搬用の車、リヤカーであろうか?

イメージ 5


この埋立工事は、5万坪を買上げ2万3000余円を投じ、このうち3万坪が入札によって払い下げられた。
この払い下げによって谷地頭は様変りし、明治16年9月24の函館新聞では、谷地かしら公園抔へ散歩の人も多く浅田屋の七色・柳川の蕎麦を当込む女連中もあれば勝田の温泉に浴する人も多いとある。
画像は明治14年、谷地が平地となり宅地化がいっそう進む。

イメージ 6


最後の画像は函館在住の方でなければ分からないと思います。 この画像は以前から気になっていた写真の1枚。今回も資料の古写真は「北海道大学付属図書館所蔵」のものである。ちなみに函館谷地頭ノ景の
中の1枚であるが、谷地頭、住吉、青柳、このあたりから函館山を望んだ場合、このような背景ではない
ような気がするのです。 したがって?とします。
 
イメージ 7

地域の歴史NO,1

地域の歴史、第1回目は「尻沢辺村」と漁業権である。尻沢辺村とは今現在の函館市住吉町あたりをいう。画像は住吉町に近い海岸線であり、また、漁港は住吉漁港である。山は函館山であり左際突端は
立待岬である。

イメージ 1


そして極めて大雑把ではあるが、同一周辺での撮影。128年前(明治十三年)ではこうであった。
また余談ではあるが、この辺りをアイヌ語で、シリサンべ(函館山の出崎)であったことから
シサべ・シサビの別名を持つ。右側は開拓途上の谷地頭方面である。 

イメージ 2
 

この尻沢辺村は明治以前から人が住みつき、松前藩時代においては、松前藩士明石重兵衛の知行所でもある。また箱館戦争では、砲兵半小隊が守りについていた所でもある。 漁村であるからして、魚が主な現金収入である。当時米の収穫が期待できない北海道において漁業資源は米に匹敵する重要な資源であった。そしてその最たるものはニシンであった。 良質の肥料として本州へ運び、それを米に代える。

さて、それではいったい何処までが尻沢辺村の魚場だったのであろうか? 函館市史では、立待岬から通称赤石浜に至る地域とある。赤石浜とは現在の大森浜。 あまりにも大雑把である。 この手の資料はなくもない。函館中央図書館資料室で「蝦夷実地検考録」を閲覧すればおおよそは分かるだろう。しかしながら安政年間の記録ですから、これまた正確には分からんだろうと閲覧しておりません。だがヒントはある。 そのヒントとは画像の位置である。

イメージ 3
 

画像の位置は函館の温泉街である湯の川より手前に位置する(広野町)の海岸線である。アワビやウニが獲れる立待突端からここまでとすると、当時は豊漁続きであっただろうし、当時の人口を鑑みた場合、魚場としては十分だったのではないであろうか? 画像の位置から振り返れば石柱が確認できる。

イメージ 4
 

石柱側面。読み取りずらいのではあるが、「元治二乙丑年四月」とある。元治は二年四月までであるからして慶応元年でも通用しそうである。 だが、この位置もまた定かではない、幾度も位置を更ってるのである。加えて、なぜ西とあるのか分からん。古文で尻沢辺村の記載は確認できても西尻沢辺村なるもは見たことはない。またこの手の論文もないようである。したがって迷宮入りといったところである。

イメージ 5
 

「函館百珍」では、此碑を初めて知ったのは明治三十三年の春であったと書かれている。だがこれも明細までは書かれていない。数種類の資料で「西」という文章を見るが、それは尻沢辺村の西の意味であるが、尻沢辺村の西に位置する方向はここではない。 仮説を立てることも出来るが、調査不十分故、ここまでとしたいと思います。中途半端な記事で申し訳ありません。

※資料 函館市史 函館百珍 会津・斗南藩と函館開拓使など(函館中央図書館所蔵)など
古写真「北海道大学付属図書館所蔵」

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