|
(谷地頭開拓)ここに1枚の写真がある。「函館移民取扱事務所前の移住民」とある。特徴としては子供が多い。やはり当時の家族構成は大家族であったことが分かる。故郷を捨て、食べるために新天地(北海道)に希望と夢を抱き渡ってきたのであろう。道民にとっては神様以上の人達である。 どうしても拡大すれば鮮明度が落ち、特定するに困難となる。いずれにせよ年代測定が本文の目的ではないので省略します。 (クリックすれば多少拡大になります) 北海道開拓における当時の窓口は函館であり、ここから北海道各地に渡ることになる。また、これよりも前、函館市内もまだまだ開拓途上であったのである。市内の開拓は明治以前から始まり、函館湾に近い方面から人が住みつき栄えた。函館山周辺の海岸線、及び麓から開発が行われたが難所もあった。 その難所とは谷地頭である。 画像は今現在の谷地頭電停 画像の地域の開拓は難航したのである。谷地頭の地名はアイヌ語の「シクサラべ 」(大きな谷地)の意味からきている。明治初期、谷地頭は湿地帯であり宅地に適さない土地とされていたのである。 だが、函館湾周辺の狭い地域に宅地が集中した結果、宅地不足が問題化となる。開事第2編では 「道敷地坪買上ヨリ宅地差支ヲ生スル者ハ懇致ニ説諭シ、谷地頭埋立地竣工ノ上、売下転居セシムヘシ」とある。この文章もみても分かるように明治初期には函館の人口が急激に増えていることが分かる。 画像は明治13年である。まだまだ大きな石がちらばってはいるが開拓の早さがうかがえる。 埋め立てと平行して、民家も確認できる。 人力ではあるが、資材、及び石運搬用の車、リヤカーであろうか? この埋立工事は、5万坪を買上げ2万3000余円を投じ、このうち3万坪が入札によって払い下げられた。 この払い下げによって谷地頭は様変りし、明治16年9月24の函館新聞では、谷地かしら公園抔へ散歩の人も多く浅田屋の七色・柳川の蕎麦を当込む女連中もあれば勝田の温泉に浴する人も多いとある。 画像は明治14年、谷地が平地となり宅地化がいっそう進む。 最後の画像は函館在住の方でなければ分からないと思います。 この画像は以前から気になっていた写真の1枚。今回も資料の古写真は「北海道大学付属図書館所蔵」のものである。ちなみに函館谷地頭ノ景の
中の1枚であるが、谷地頭、住吉、青柳、このあたりから函館山を望んだ場合、このような背景ではない ような気がするのです。 したがって?とします。 |

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- 練習用








