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自由は生命に先立つ。
世界に生命があるという事は、世界を味わう意義があるということだろう。
味わう存在自体に意義があるのではなく、味わうことそのものに意義があるのだと。
世界を体験し、味わうことの意義は世界に対する選択的干渉によって成立する。
つまりは自由だ。
私の命よりも誰かの私を殺す自由の方が私にとって価値がある。
価値・・味わうことに意義があると前提する価値ではある。しかし、実際に世界はそういう構成になっている。
それぞれの選択は複雑に絡み合いながらも絶対的正確性をもって次の瞬間を生み出し続けている。
選択的干渉と、それ故に完全には予測できない結果。
それを味わうことが生命の意識体験であり意義なのだと・・
たとえ人類が滅んでも、それが人類個々の選択の結果、その反映であれば味わう意義はある。
少なくとも選択的干渉のない世界を傍観するよりは・・
我々の想像できる神、ある意味それ以上の意義を含む・・
それが自由の価値だ。
生命に先立つ価値・・自由。
世界を舞台に個としてどのように振る舞うかを選ぶ。
難しい・・だからこそ意義のある意識の発生理由、私。
それは思考し、選択し、干渉し、結果を体験する・・神の一側面だ。
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こころのぶろぐ
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所謂・・権威とは?
ふむ、それは追従者の作るムードのことを言ってるのかな。
その意味するところは実質時代によってかなりの開きがある、しかし本質的には同じだろう。
為政者によって与えられるものでも、コミューン全体の評価によってのものでもね。
つまりは、手本ということだね。
でも・・・権威と思うと何故か反発したくなります。
当然だよ。
私は私であることを深く創造したい。
だからこそ・・だ。
それに則った感情を君に送る。
イエスは権威になってしまった。
誰も成せないと認識された手本としてね。
だが、君の感じる感情に則って生を全うしたのだ。
君の感じるものは手本に対する反発ではない。
それを選択しろという声を君自身の中から聞いているからこその感情だよ。
全ては、いつも君自身の内側にある。
私はそれをサインとして送る。
それが私と君の・・体験だ。
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・・・・・ それでは・・宗教によって苦から解放されるのでしょうか? ・・・されるだろうね。 敬虔であれば、どのような宗教によってもその効果はあるだろう。 だが・・それで成す状態は個人の技術とは少し違う。 なんらかの戒律に従って生きるということは、実質自ら考えるという過程の大部分を放棄することに等しい。 つまり、ここで言う深く考え感じるからこその内的苦は、その発生自体が抑制されるということだね。 絶対的な戒律の前では考える事などもはや必要はないのだからね。 苦を徹底的に遠ざけるのならばそれもいいだろう・・ しかし、私の声からは遠ざかる。 魂である私と君をつなぐものは薄くなってしまうだろう。 君が君である所以・・感情だ。 それをそのままに体験するか、一部を分からぬほどに薄めて味わうのか・・ それも君の自由だよ。 |
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苦を滅する・・・??
いわゆる悟り?・・とは? ・・・うむ、それは生きる意識、つまり君たち精神にとっての一つの技術だ。 必要な者はそれぞれの歩調で習得に向かうだろう。 ただし、習得したとしてもその状態に居続けることは出来ない。 あくまで技術だからね、厳密には新たな刺激に対して発動し続けることで維持することになる。 ・・え?・・いや、それって悟りっていうか・・普通に我慢の進化形って感じじゃないですか? そうだ、我慢の進化形といってもいい。 苦とはなんらかの不満を源泉とするのだろう? それを意思で滅するというのなら、我慢を進化させるしかない。 個々に合った方法によりそれぞれ扉が開くようになっているのだ。 ただし、一般に思われるほどに特別に難しいわけではない・・単なる技術だ。 不満の解消というベクトルではなく、不満を我慢するベクトルの技術なのだ。 不満は際限なく湧くと思ったのならば、習得を意識するのは賢明な方向性ではある。 しかし・・それで楽しめるかどうかは君次第だ。 不満が悪いわけではないからね。 それを解消していくというドラマもやはり一興だろう。 私にすれば、君がその技術を習得することは奨励するが・・そこから再選択するもの。 それこそが重要だ。 魂が精神を経験するのだから・・ 存分に楽しみたいのだよ。 |
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備え有れば患い無し。っていうけれど・・どこまでが適正となるのだろうか?
うむ、その言葉自体の意は至極当然の生活態度を示すものではある。
が、現代人の多くのそれはお金に集約されることになるので注意が必要となるだろう。
・・・つまり?
金銭による備えは万能性が保障されるのだが、備えという意味でのそれには対象が必要だということ。
対象のない備えは備えとは言えない。
それをしてあえて備えと言えば、それはそのままその者の不安の大きさになる。
無論それがいけないという事ではない。が、それがその者の社会性の一面を表現する以上、その不安に沿った体験をする事になる。
・・・では、逆に大金を得るという事自体に問題があるのでしょうか?
そうではない。
個人が多額の金銭を得ることが何らかの全体に対する不具合をもたらすわけではない。
しかし、義務は生じる。
日々の生活と適正な備えの為の蓄え以上の金銭は、社会を評価することに使用する義務だ。
自分が社会から評価されて得た権利は自分が社会の中の何かを評価することに使う。
それは実は義務なのだ。
それが履行されなければ蓄えは自動的に失われる。
その者が過去に得た社会からの評価とともにね。
何も評価しない者の評価は取り消されるのだよ。
そして権利だけが誰かに渡り使用される。
社会からの評価の反映であったはずの権利は、社会からの評価の反映ではない者の使用に転換され全体の循環の歪みを増長する。
金融システムというのはそういった歪みを引き受けて緩和させているのだが、中和させているわけではなく単に個別のケースをわかりにくくして全体像を見せているだけなのだ。
結果を個人が明瞭に体験するという意味では不適切ではある。
・・が、それ以上にもはや金融の全体像を直視出来るものなどはいないだろうがね。
かように、備えという名の蓄財には精査が必要となるところなのだ。
それが、君を大きく表現する。
そしてその選択に沿った体験をすることになる。
備えをするのは当たり前のことであり、その事自体は人生の主要な体験とはなり得ない。
しかし時として、その選択は人生の主要な体験に大きく影響を与える。
知っておいて欲しいところだ。
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