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1945年、8月15日。
維新後、がむしゃらに突き進んで来た日本人のこころが折れた時・・私はそんな風に捉えている。
ポツダム宣言を受諾した天皇陛下は・・正しく日本人の総意であった。
実際に、その時代を、民意を・・自動的に現す個人を超えた鏡のような存在だった。
それは、今もってそうであると私は感じている。
1967年生まれの私も多くの先輩日本人同様、天皇陛下のことを愛さずにはいられない。
教育などといった要素では測れない何か、それは確かにこの国に存在し、また感じずにはいられないのである。
天皇家の日本国の象徴としての自覚の歴史が産む求心力。
武から離れる時代もあったが、常に尊重され純粋培養されて来たこの切り札は世界に通用した。
この時までは・・・
・・・・・・
世界ではあらゆるかたちでの国家というまとまりが存在するが、この国をまとめる核は民意によって創出された天皇制だ。
この国の歴史上の初期の何処かで、無条件で最高度に尊重すべき存在を実際の人物の血統に設定した。
それが天皇制なのです。
私はこの天皇の存在について随分と考え、またこの国においてあらゆる場面でその存在を感じることに感度を高く設定してきました。
だからここで言う内容はもしかしたら今現在の日本人一般の感覚からは離れているかもしれない。
しかし、私の観察ではこの国の今現在まで続く本質を最も色濃く反映するものが・・・
天皇です。
一般に知られる天皇陛下の言動の物議を醸す多くはこの日、この前後に集中されており、その意味で昭和天皇は特別な存在でした。
しかし、その昭和天皇の言動であってさえその全ては民意の正確な反映であったと感じます。
天皇家とは我々一般の個人とは全く違う日本民族の象徴としての自覚を背景をもち、またそれを自らの意思により受け入れた血族なのです。
そして、日本人は天皇を確認することに民意の反映を無意識にしています。
この特性は維新後の国家体制に大きく利用されたといった側面もありますが・・それ以前よりずっとあった、民意により特別に尊重されてきた存在なのです。
そして個人主義がベースの国々には理解しがたいだろうその構造は、ある意味この国の国柄でもあります。
ただ・・この先の日本国にあってはどうであるかはわかりません。
私は長期的にはどちらでも良いと考えていますが、今はまだあってほしいと思っています。
・・・・・
この国の民意はこの日に向かい、誤った道を過去に進んだ。
昭和天皇はそれを象徴し、世界に体現した。
その事に言及される時、昭和天皇が批判される時、我々は決してそれは人ごとだとは思わない。
天皇陛下は我々民の反映であると知っているから。
戦後に生まれた私ですが、そう思います。
そして、主にアジア諸国においては多く人道に反する行為があったことを、今も指摘されるたび心から申し訳なく思います。
・・この気持ちが今後どういったかたちで世代を超えた民意、そして時の天皇陛下によってどのように表現されていくのかは分かりません。
しかし、どうか読み取ってほしい。
今現在の天皇陛下の在り方はその一片でもあるのです。
戦後、そして平成の天皇は平和の言葉しか発しません。
それは紛れもなくこの国の国民の民意です。
それを確認できること・・・
我々にはそれが必要なのです。
確かに・・個人としてあることに未だ未熟な民族です。
それでも、それがこの国の民なのです。
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1945年8月6日、同9日、原爆が実戦で使用された日。
・・・・・
戦争は起こる、確かにそれは今の日本ではどこか遠い他所の国の事になっているが、この国でも過去あった・・実際に何度も起こった事なんだ。
人種問わず人間は有史以来ずっとそれが当たり前の世界でもがいているのだから・・戦争はある。
それが何処だろうとどんな関係だろうと・・国同士で何かの衝突があったなら、明日突然始まってもおかしくはない事なんだ。
そして、やるからにはお互い徹底してやる。
国民の総意として・・覚悟して始まる。
それが戦争だ。
この日は、そんな戦争のかたちの行き着く最終場面だった。
日本人は当時玉砕覚悟だったと聞く。
つまり、滅び行く民族としての覚悟が出来つつあったのだと・・
にわかには信じられない話ではある。
・・が、残された資料、伝え聞く話、それらからこの国の当時の総意としてのそのムードを読み取ることはさほど難しくはない。
しかし、この日の惨状はその心を折るには充分過ぎるほどのものだった。
原爆・・
それは、あまりにもえげつない新型爆弾だった。
わずか1グラムにも満たない物質エネルギーの解放は、一つの都市を一発で吹き飛ばし壊滅させた。
爆心地の建物、人々は一瞬で消え去り、その周辺は炎に焼かれる暗黒のまさに地獄絵図。
今もその惨状は広島、長崎の爆心地近くにいけば感じ取れる資料が展示され、それらは永久保存されるだろう。
この閲覧は人類の教育上必須だと思う。
人種、世代、年齢関係なく一度はこれら展示物に気持ちを重ね感じるべきだし、その感じたままで世界をもう一度考えるべきだと思う。
明らかです。
間違っているんです。
こんな事は・・・絶対にあってはならない。
今や、行くとこまで行くってことは国家単位ではこんな事になってしまうんです。
闘争状態時の人間の意識、それらが一体となった戦争。
対象の存在を否定し、殲滅せんとする。
そんな戦線の覚悟ある、訓練を受けた実行部隊を対象にした兵器ではない。
一つの都市、そこで暮らす人々の消滅を目的とした兵器。
それが原爆だ。
・・・・・
そんなもので威嚇し合っているんだ。
今の世界は。
いくら資源があったとしても、相手民族を核で滅ぼしてまで放射能汚染された地が欲しいわけもない。
強者にとってはもはや無用の長物。
今や弱者にとっての精一杯の威嚇にしか使えない。
・・・・・
知ってるよ。
・・みんな知ってるさ。
世界は望んだ方に向う。
私はそう信じてます。
世界の人々の総意に沿って世界は変わる。
だから、原爆はいずれは過去のものになる。
・・広島と長崎の教訓と祈りだけ残して。
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平和への道筋・・・
平和とは、戦争のない世界の状態。そして出来るならば世界の全ての人々がなんら争うことなく和気あいあいと暮らすこと。
おそらくは有史以来ほとんどの人々が望み、また目指してきたことだ。
現在・・いや既に古来よりずっと・・局所的に瞬間的にを除くならば、実際はおおむね達成されて来ているといっていいのかもしれない。
少なくともここ日本では今は、そうだ。
これをいかに捉えるか?
そこに・・語られるだろう道筋の本質が現れるのかもしれない。
この日本国の現在の国際常識からは逸脱した特殊な成り立ちを背景にもつ平和は、今やほとんどの国民にとっては当たり前の空気のようなものであり・・
また、ある種の人たちにとってはどこか後ろめたさを感じるようなものとなっている。
ここ日本で・・そういった文脈で語られる平和とは、どうしてもそんなどこか歯切れの悪さがつきまとうものだ。
ただ・・だからといって極端には振れない。
やはりそれは理性があるから・・そう、殺し合う準備とは本質的には狂気、理性の対極なのは疑い様のないこと。
平和ボケなどと揶揄されるかもしれない。しかし、何ら保証のない砂の城の中の話だとしても、それは平和が空気のように当たり前になった世界なのだから・・
それが当たり前の民意なのだ。
この国家としては一見ズレたような日本の感覚は、実は世界の民意にもっとも近いものではないだろうかと私は思っている。
平和への道筋・・・
・・・・・
この星の全貌はいまやほぼ明らかであり、そして星単位でのまとまりとして今後人間があるならば世界に軍備は不要だ。
それどころか明らかにその存在とその維持は単に多大なる負担でしかない。
平和主義者はみんなそう思ってる。
ただ、実際にはそうじゃないだけだ。
何故か?
世界の人々にあなたは平和主義者かと問えば、ほとんど全員が「そうだ」と答えるはずなのだが・・
それでも国家は軍備は怠らず、言い方は悪いが・・機が熟せばまたどこかで戦いは始まってしまう。
何故なのか?
・・・・・・
もうこれは、平和の定義、概念が間違っているとしか考えようがない。
結局はただ、最悪の事態を回避し続けることが今現在の世界の平和の定義なんだろう。
これが平和の定義である限りにおいてはいかなる方法論も本質的には無効と思える。
兵器、軍隊、国益、戦争、戦死、戦犯、賠償、後遺症、憎しみの連鎖・・・そして未だ単にその体験の反語としてのイメージでしかない平和。
本当の平和を望むなら、蒔いた種の実はきちんと刈取って、そして新しい種を蒔かなくてはいけないのだ。
真の平和とはいかなる状態を言うのか?
それこそがまずは語られなくてはならないはずなのだ。
平和とは・・・
・・・・・・
私は、それは全ての人々の全てのニーズが満たされた状態が維持されることだと思っている。
確かに今現在の世相、価値観に照せば荒唐無稽な話かもしれない。
色んな意見はあるだろう・・しかし、それは実現可能なことだと私は考えている。
条件はシンプル、だが我々には最難関・・・それは、個人の独占欲の放棄だ。
その上で、全ての人々のニーズが満たされることそのものが個人のニーズの最上位になればいいのだ。
制度やシステム、ましてイデオロギーの話ではない。
個人の意識の問題として、だ。
如何にするかでは世界は大して変わらない。
一人一人、私が如何に在るか?なのだ。
世界とはその反映なのだから。
ただ制度を、ルールをどうするか?それだけでは個人の価値観は変わるはずもない。
ただそれだけでは、所詮は既存の価値観に沿った目的をみた、それも達成効率だけの話でしかない。
結局は・・個人個人が如何に在るか、在ろうとするかでしか人間世界の本質的変化はなされないのだ。
そして、それは一人一人の自主的意識の変化によるものであってこそ意義がある。
制度やルールはあくまでそれを受けての補助的後押し。その域を出ては世界は人々の望む反映としての創出とはならない。
望むは真の平和の実現・・・
ただ・・本当に完全にそうなってしまえば世界は全くの別物となるだろう。
今の支配的な価値観で言えば、それはもはや人間社会ではないとする者もいるかもしれない。
・・しかし、私はその世界は間違いなく美しいと想像する。
勝ったり負けたり、得たり失ったりのドラマはもうそこにはないだろう。
戦争どころか・・野球もサッカーもオリンピックもきっとなくなる。
全く新しい価値観に基づく全くの新しいドラマがそこに展開されるはずだ。
・・・・・
それを我々は体験したいのか?
全く想像もつかない新しいその世界での体験を・・望むのか?
私は・・いつも考えている。
わからない、わかるはずもない・・想像もつかないその世界を。
我々がまだ棲む資格があるとは・・到底思ってもいないその世界を・・
いつも想い・・・
・・恋いこがれている。
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