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2009(平成21).6.18(木) 旧暦5月26日
曇り
東北地方も梅雨入りした筈ですが、今ひとつ雨が少ないようです。
もう少し降って欲しいです。
本日のニュースで最も気になったのは、これ(↓)です。
「脳死を一律死にしないで」=慎重な議論求める−移植法A案反対の遺族ら
6月18日18時38分配信 時事通信
臓器移植法改正でA案が衆院で可決されたことについて、反対する遺族や
市民団体が18日午後、衆院議員会館で記者会見し、「脳死を一律に人の死と
しないで」などと訴え、参院での慎重な議論や廃案を求めた。
「わたしは死体と寄り添っていたの?」。中村暁美さん(45)は本会議場で、
長女有里ちゃんの写真を忍ばせ見守った。有里ちゃんは3年半前、
原因不明の急性脳症に襲われ、医師から「脳死」を宣告された。
しかし、「温かい体があり、成長する体がある」と、2007年9月に4歳8カ月で
他界するまでの約1年9カ月にわたり付き添った。(後略)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090618-00000127-jij-soci
※ ※ ※
私は“脳死”を“死”だとは認めていません。
『脳死は、死が避けられない状態であるが、死ではない』と思っています。
ですから上の記事と同様、私がA案で一番懸念を抱いているのが、
『一律に脳死を人の死とする』という箇所です。
そもそも『脳死』という難しい概念が取り沙汰されるようになったのは、
臓器移植を推し進めたいと要求する社会的力学が働いているからです。
特に問題になるのは、小児が重篤な先天性心疾患を持っている場合などです。
救命するには心移植しかないとなると、誰かの心臓を貰わなくてはなりません。
その心臓は、その子に合うサイズで、瑕疵のない、新鮮なものでなくてはなりません。
(すみません。あえて露骨な表現をしています。)
つまり『元気な子供』の心臓が欲しいのです。
しかしそれは、当然ながら、倫理的に許されるはずもありません。
そこで『脳はもはや機能を失ったが、しかし心臓は動いている(=脳死)』という
特殊な状態の患者さん(もしくは患児)に着目されたわけです。
まだ心臓が動いている人(子供)を、『死んだ』ことにしたいのです。
心臓を取り出すためにはそれが必要で、それを可能にするのが『脳死』です。
この『脳死』という死の概念が、いかに倫理的な危険を孕んでいるか、
感じ取って頂けるでしょうか?
※ ※ ※
念のため申し上げますが、私は臓器移植全てを否定するものではありません。
角膜移植・腎移植・肝移植・骨髄移植・皮膚移植…。
これらは技術的にも相当安定していますし、条件が揃えばとても有効な治療法です。
それを必要とする方が大勢いることも理解しているつもりです。
また、私の知人で『できれば腎移植をしてあげたい』と思う人もいます。
もっと身近なところでは、輸血(献血)も臓器移植の一種だと考えています。
昔教わった血液学の先生は『血液は“流れる臓器”だ』と仰っていましたから…。
しかし『脳死』という極めて不自然な概念を引っ張り出さなくてはならないような
移植医療は、私はこれを認めません。
何か大切なものを失ってしまう気がします。
※ ※ ※
現代社会に生きる人達は、医療というものにいったい何を求めるのでしょうか?
たまに理解できなくなることがあります。
(医療従事者自身が、自分を見失っているのかも知れませんが…)
もとより医療は万能ではありません。
万能などというものから、一番程遠いものが医療だと思います。
無理なものは、無理なのです。
出来るだけの治療、経済的にも倫理的にも無理のない治療をやって、
それで助からない(助けられない)場合は仕方ないではありませんか。
その場合は、申し訳ありませんが、諦めて下さい。
どんなに尽くしても、人はいずれ死にます。
私は仏教徒だから言うのですが、また生まれ変わってくればいいではありませんか。
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