飢餓、重労働、酷寒の三重苦

 捕虜収容所に送られた日本人はまず住むところを確保することから生活が始まった。既存の施設を利用できたところもあるが、自分の手でバラックや半地下小屋(ゼムリヤンカ)を建てたり、幕舎(テント)でしのいだところも多かった。劣悪な住環境だった。

 ソ連は官僚社会なので様々な基準や規則が定められており、捕虜用の給食基準もあった。帝国陸軍の基準と比べると品目により一割から三割ほど少なかったが、それでも基準どおり支給されれば、栄養失調という名の餓死でバタバタ斃れることはなかっただろう。

 問題は当初、実際の給食がこの少ない基準の半分にも満たなかったことである。黒パン三百㌘に雑穀の粥(カーシヤ)、中身のない塩水のようなスープが一日の食事だった。ソ連は独ソ戦で農地が荒廃し、飢饉もあってソ連国民自身が飢えていたのだから仕方ないというが、それならポツダム宣言どおり日本へ直ちに送還すべきだっただろう。スターリンは捕虜の労働力がどうしても必要だったから、飢えさせてでも酷使し続けたのである。

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 スターリンが日本兵を抑留したのは戦争で荒廃した国民経済を復興するための労働力として使役するのが目的だったことは明らかである。日本人をシベリアと中央アジアに多く配置したのは、そこの労働力が不足していたからだ。

 日本人はあらゆる作業に従事させられたが、主な作業は伐採と鉱山労働と建設(建物、道路、鉄道)だった。とりわけ伐採と鉱山労働が重労働で危険な作業でもあった。各作業に厳しいノルマが課され、達成できないと超過労働が強いられたり、減食されたりした。給食は基準(ノルマ)以下なのに労働はノルマの達成を強要された。それでいて賃金はほとんど支払われなかったから、まさしく「奴隷労働」にほかならなかった。

 シベリアとカザフスタン、モンゴル高原は温暖な日本の気候とは比べられないほど寒い地域だ。ロシア人は寒冷な気候に慣れていたが、日本人はこの酷寒(マロース)に悩まされた。多くの人が凍傷にかかり凍死した人もいた。関東軍の軍装はシベリアでは役に立たなかったが、ソ連側から支給された毛皮外套(シューバ)、フェルト製防寒靴(ワーレンキ)の保温力は優れていた。

 作業停止となる限界気温は収容所長の裁量に任されていたから日本人には耐え難いマイナス三十度から四十度くらいに設定された。時には限界気温以下でも作業出動させられた。
日ソ国境紛争ではソ連の衛星国としてモンゴル軍が日本と戦い、日本軍捕虜を監視した=昭和14年のノモンハン事件 日ソ国境紛争ではソ連の衛星国としてモンゴル軍が日本と戦い、日本軍捕虜を監視した=昭和14年のノモンハン事件
 これがシベリア三重苦である。この三重苦に耐えられずに多くの人が犠牲になった。ただ、抑留者によってはこの三重苦よりも、後述するシベリア「民主運動」による吊し上げなどの同調圧力の方が苦しかったという。また、抑留者にとって最大の関心事は帰国(ダモイ)だったが、その見通しが立たないことも三重苦に匹敵するほどの不安と苦しみを与えた。

 シベリアでは三重苦で一〇%を超える日本人が亡くなった。そのうえ、死者を鞭打つような屍体の扱いや埋葬方法が横行した。死体は死体置き場に運ばれるとすぐにカチカチに凍った。それを墓地に運び裸のまま埋葬する。ただでさえ凍土に穴を掘るのは並々ならぬ作業だったから、死者が増えると十人、二十人とまとめて埋葬することになる。深くは掘れないから薄く盛土すると狼や野犬が食い荒らした。

 国際法が定める「丁寧に」「尊敬されるように」とはかけ離れた杜撰(ずさん)で冒涜(ぼうとく)的な埋葬である。ここにも共産主義が現れている。宗教を阿片だとして否定する無神論からすると屍体はただのモノにすぎないし、悼み弔う宗教的儀式も必要ないのである。