
ソ連軍が攻め込んできた竹田浜
(写真提供:相原秀起)
火を噴く15サンチカノン砲
小田英孝(旧陸軍元少年戦車兵)は戦車前方の車載機関銃を握っていた。だが、周囲は低木のハンノキやハイマツが茂り、小さな覗き窓から前を確認しようとしたが、木々の枝が視界を遮り、何も見えなかった。併走しているはずの第四中隊の他の戦車の位置もまったくわからなかった。97式車載重機関銃は20発入り箱弾倉(カートリッジ)を使用する。撃発機構は単、連発を手加減で行う引金式を採用し、引き金を引きっぱなしにすると連射が可能だった。ところが、1回に発射する弾数を多くすると、照準線が乱れて次第に弾は狙いを大きくずれるという欠点があった。連続発射の限度は約300発とされ、それ以上の連続発射は銃身が過熱して焼けつく危険性もあった。このため、銃手は引き金を一度絞っては離し、一度に3〜5発ずつ発射する「点射」を心がけた。
伊藤は「弾薬は豊富にある。万一、戦闘になったら弾薬のことは遠慮せずに撃ちまくれ」と常に訓示していた。機関銃弾のカートリッジ75個は機銃の近くに並んで差し込まれ、床下に置かれたものも含めて、機銃弾の総数は約4000発にも達した。
小田にとっては初の実戦だったが、不安は感じなかった。戦車帽をしっかりとかぶった。
戦車第11連隊にとって初めての本格的な戦闘が、当初の「仮想敵国」のソ連軍と満洲の平原ではなく、この北千島で相対することになったのも運命のいたずらと言えた。
小田からはハンノキが遮って前が何も見えなかったが、一段高い砲塔にいた車長兼砲手の宮沢は周囲が良く見えた。軽戦車の車長には座席はなく、立ったまま指揮を執り、肩から上を砲塔のハッチから出して周囲をうかがい、操縦手の金谷に向かう方向を指示した。言葉だけでは騒音で聞き取れないため、右に旋回する場合は操縦手の右肩を足先で蹴り、左旋回は左肩を蹴った。急停止は後頭部を小突くのが合図だった。現在の戦車のような防音対策などもなく、小さな戦車内の3分の2はエンジンが占拠していた。
操縦手の左右には、現在の自動車のサイドブレーキのようなレバーがあり、「操向制動連動機」と呼ばれ、レバーはクラッチとブレーキに連結されていた。手前に半分だけ引くと半クラッチ状態となり、さらに引くとブレーキが掛る。左右それぞれが、左と右のキャタピラを制御しており、例えば右のレバーだけをいっぱいに引くと、左側のキャタピラだけが駆動するため、戦車は右旋回した。
軽戦車は通常の道を走るだけならば、操縦は難しくなかったが、戦闘中の操縦は高度の技術を要した。敵の砲弾を回避しながら、自車から発射する砲弾の命中率を高めるために安定走行をしなければならないからだ。
宮沢は中隊を代表する射撃の名手だった。37ミリ砲を肩に担ぎ、体を動かして砲に備え付けられた照準用の眼鏡を覗き込み、真ん中の十字に照準を合わせ、引き金を絞り、次々に砲弾を放った。「スターン」というかすかな音が砲塔内に響いた。「小田。なにやっている。撃て、撃て」宮沢は怒鳴った。
「敵が見えません」
「見えなくてもいい。前は全部敵だらけだ。撃て。どこでもいいから撃て。乱射せい」
その声に応えて、小田は車載銃を右から左へ、左から右へと振り向けながら機銃弾を放った。
「当たっている。当たっている。そのまま撃て、撃て」
宮沢の絶叫が聞こえた。
キャタピラによってずたずたに折られた枝が吹き飛び、戦車に踏みつぶされたソ連兵の体がちぎれて飛んだ。狭い軽戦車内は砲煙と機銃の白い硝煙が充満して、小田は喉がひりひりし、目も痛かった。足元には砲弾と機銃弾の空薬莢がバラバラとはねて転がった。
ソ連軍の小銃弾が戦車の装甲を削り、火花とともに細かな鉄粉が飛び散った。それが小窓から飛び込んで硝煙の煙と入り混じって目に入り、痛くて、小田は何度も目をしばたたかせた。
小田は「戦争とはこんなに息苦しいものなのか」と思った。
砲弾は、着弾時に炸裂して鉄片を四散させる歩兵攻撃用の榴弾と、対戦車用の徹甲弾との2種類を装備していた。砲弾は砲塔部の内側の砲弾収納スペースに1発ずつ格納され、榴弾が90発、徹甲弾20発だった。これらは、ばね仕掛けで砲弾の尻を押すと砲弾が飛び出す。各砲弾は通常、安全ピンによって暴発を防ぎ、戦闘直前に安全ピンを抜くことになっていた。
徹甲弾は地面に突き刺さって爆発しないため、宮沢は榴弾を選んだ。
戦車隊の猛攻にソ連軍は四嶺山からじりじりと後退した。突然の戦車の来襲にソ連軍は動揺を隠せなかった。この第一次攻撃は約40分間にわたって続いた。各戦車は四嶺山の山麓に戻ってきた。
その時、小田は雷が落ちたような豪音を耳にした。同時に地面が大きく揺れ、戦車が一瞬、地面から浮き上がったような気がした。
四嶺山の山麓に設置されていた日本軍最新鋭の96式15サンチカノン砲の砲声だった。
砲弾はロパトカ岬のソ連軍陣地に向けて発射された。
同砲の砲身は口径149ミリ、全長7メートル86センチ、重量6.781トンあり、93式尖鋭弾、95式破甲榴弾、96式尖鋭弾を発射し、最大射程は26.2キロにおよんだ。大阪造兵廠第一製造所が昭和17年10月に調査した完成数は計31門で、神奈川県三浦半島観音崎の東京湾要塞花立新砲台や、津軽海峡を守る津軽要塞汐首岬第二砲台、樺太南端の宗谷要塞西能登呂砲台など、国内や朝鮮半島、樺太の重要な港湾や主要海峡に置かれた。
対米戦を念頭に占守島と幌筵島にも、朝鮮半島の羅津重砲兵連隊から抽出して、両島に昭和19年夏に計4門が配備された。この最新兵器が置かれたことだけを見ても大本営が北千島の防衛をいかに重視していたかがわかる。
15サンチカノン砲は、狙いをロパトカ岬のソ連軍陣地に定め、担当の砲兵らは距離や所定の仰角、方位角などの数値諸元を割り出していたが、終戦時に秘密書類とともにすべて焼却していた。だがその数値を描き込んだメモが残っていた。
砲兵たちは訓練通り、カノン砲を整備し、砲身を高く上げて、砲弾を発射した。その砲弾は、3発目がソ連軍の弾薬庫に命中、ロパトカ岬の砲声はやんだ。小田はソ連軍陣地から黒い煙が上がるのを見た。
15サンチカノン砲に続いて、10サンチカノン砲も火を噴き始めた。高射砲は水平射撃でソ連兵をなぎ倒した。小田は「これは勝ったな」と思った。
2016年11月04日(金) 07時19分22秒
テーマ:自虐史観払拭!
おはようございます。
長谷川です。
ご存知でしょうか?
終戦直後の1945年8月18日に突如として
戦闘が始まり、そしてこの戦いに日本は勝ったことを…。
「占守島(しゅむしゅとう)の戦い」について
お話をします。
戦いが行われた占守島とは…
占守島は、北方諸島の最北端にあり
面積で言うと琵琶湖程度の小さな島です。
海抜200m未満の丘陵と沼地、草原が入り混じり、
樹高1mくらいの這松や榛の木が群生しています。
夏は15度で濃霧が発生し、冬にはマイナス15度で猛吹雪になる気候。
東西20km、南北30kmあまりの小島だが、北はカムチャッカ半島、
東はアリューシャン列島と交差する要所で、日本領の最北端でした。
日本はアリューシャン列島を西進してくるアメリカ軍の侵攻に備えて、
戦車隊を擁する精鋭守備軍2万5000をここに置いていました。
1945年当時、すでにアリューシャン列島のアッツ島やキスカ島は、
米軍によって陥落していました。
戦いは不意打ちから始まる…
1945年8月15日、終戦と当時に
大本営は日本軍に武装解除を命じます。
もちろん、占守島にもこの伝令が伝わり
未使用の弾丸などを海中投棄したり
爆弾の震撼を抜いたりと、引き上げる準備を始めていました。
そして夜は、早くから酒を酌み交わし、故郷の土地を
懐かしむ者もいたそうな…。
そして…
8月18日午前2時。濃霧が強い夜でした
司令部に監視所から報告が入ります。
「敵上陸、兵力数千人。国籍不明!」
占守島の北端、竹田浜に陣を敷いていた
北端の守備を任されていた歩兵282大隊の村上大隊長は命令を下します。
「軍使が夜中に来ることはない。射撃開始!」
対岸のロパトカ岬から砲撃が加えられます。
報告を受けた隣の幌延島の第91師団本部から下令されます。
「占守島の戦車連隊、歩兵73旅団は敵を海に叩き落とせ!!。
幌筵島の歩兵74旅団は占守島に移動、援護せよ!」
この戦車連隊‥・戦車第十一連隊は、「十一」を合わせて「士」、
通称「士魂部隊」と呼ばれた精鋭部隊で、
「戦車隊の神様」と言われた池田末男大佐が指揮していました。
18日午前3時半 敵主力部隊が竹田浜に上陸し、
日本軍の砲火をかいくぐって、四嶺山に到達します。
日本軍守備隊は敵に包囲されます。
見事な撃破!
この包囲された状況に対し「士魂部隊」の池田連隊長が訓示を出します。
「我々は大詔を奉じ家郷に代える日を胸に、ひたすら終戦業務に努めてきた。
しかし、事ここに至った。もはや降魔の剣を振るうほかはない。そこで皆にあえて問う。
池田末男少佐諸氏は赤穂浪士(あこうろうし)となり、
恥を忍んでも将来に仇あだを報ぜんとするか、あるいは白虎隊(びゃっこたい)となり、
玉砕もって民族の防波堤となり、後世の歴史に問わんとするか。
赤穂浪士たらんとする者は一歩前へ出よ。白虎隊とならん者は手を挙げよ!!」
全員が歓声を上げて両手を挙げます。
「連隊はこれより全軍を挙げて敵を水際に撃滅せんとす」
連隊長は先頭を進む戦車の砲身に日章旗を手にしてまたがります。
そこに30数台の戦車が…続々と
18日午前6時20分 戦車連隊はソ連軍が包囲する四嶺山麓に到達します。
6時50分 池田連隊長より師団指令部あて打電します。
「池田連隊は四嶺山の麓にあり、士気旺盛なり。
ゼロロクゴゼロ(0650)、池田連隊はこれより敵中に突入せんとす。
祖国の弥栄いやさかを祈る!!」
午前中いっぱい、四嶺山から竹田浜にかけて、激烈な白兵戦が展開されます。
竹田連隊長の戦車に敵の対戦車砲が貫通しますが戦闘は続行され、
午後にはソ連軍を竹田浜に追い詰めました。
ソ連軍は戦車部隊を持たず致命的なダメージを被ります。
通常の爆弾や対戦車用炸裂弾を搭載して攻撃を加え、
航空部隊の戦後も加わり
輸送船2隻、駆逐艦2隻、艦種不明1隻撃沈、輸送船2隻撃破
という大戦果を収めました。
戦いの後…
8月19日 ソ連共産党機関紙『イズベスチア』にてこのように書かれました。
「占守島の戦いは、満州・朝鮮における戦闘よりはるかに損害が甚大であった。
8月19日は、ソ連人民の悲しみの日である」
驚くことにソ連は占守島を1日で占領する予定でした。
しかし、4日間、日本軍の善戦により3000名以上のソ連兵が
死傷し、目的を達成することができませんでした。
8月23日、千島列島の日本軍は武装解除し
ソ連は南樺太と共に占拠します。
なぜ突如、上陸したのか?スターリンの分断計画
ここまで話を聞くと
「なぜソ連は攻め込んできたのか?」という疑問が沸いてくるでしょう。
大戦終了間際、
スターリンは、日本分断という卑劣な計画を遂行しようとしていました。
1945年、フランクリンルーズベルト、チャーチル、スターリンの間で
かわされたヤルタ会談の際、ソ連は千島列島にみならず
北海道の北半分も手中に収めるという密約も結んでいたと言われています。
スターリンは北海道だけでなく東北も赤化するという
分断工作を企てていました。
アメリカの勝利が目前となったとき
ソ連は、その機会に一気に日本領土を奪おうと虎視眈々と狙っていたということです。
北海道まで自国の領土となれば、太平洋がすぐ眼前に広がり
その後の世界革命にも有利になると考えていたのでしょう。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
このような経緯もあり
終戦後すぐソ連は千島に攻め込んできたのです…
しかし、日本は、この占守島の戦いに勝利しということもあり
スターリンの計画は崩れました。
北海道まで占拠されることを免れたのです。
我々は、常に大きな世界の野望の中を生きなければなりません。
敵対する国家が、非道な手段で
日本を分断しようとする…これは戦略的観点から使われる手段です。
これは先の大戦のときだけでなく…
今でも分断工作というのは使ってきているのです。
しっかりとこの部分は見極めなければいけないと思います。
ロシア国家犯罪を検証せよ シベリア抑留は70万人、死者10万人だった
読了まで34分

飢餓、重労働、酷寒の三重苦
捕虜収容所に送られた日本人はまず住むところを確保することから生活が始まった。既存の施設を利用できたところもあるが、自分の手でバラックや半地下小屋(ゼムリヤンカ)を建てたり、幕舎(テント)でしのいだところも多かった。劣悪な住環境だった。
ソ連は官僚社会なので様々な基準や規則が定められており、捕虜用の給食基準もあった。帝国陸軍の基準と比べると品目により一割から三割ほど少なかったが、それでも基準どおり支給されれば、栄養失調という名の餓死でバタバタ斃れることはなかっただろう。
問題は当初、実際の給食がこの少ない基準の半分にも満たなかったことである。黒パン三百㌘に雑穀の粥(カーシヤ)、中身のない塩水のようなスープが一日の食事だった。ソ連は独ソ戦で農地が荒廃し、飢饉もあってソ連国民自身が飢えていたのだから仕方ないというが、それならポツダム宣言どおり日本へ直ちに送還すべきだっただろう。スターリンは捕虜の労働力がどうしても必要だったから、飢えさせてでも酷使し続けたのである。
スターリンが日本兵を抑留したのは戦争で荒廃した国民経済を復興するための労働力として使役するのが目的だったことは明らかである。日本人をシベリアと中央アジアに多く配置したのは、そこの労働力が不足していたからだ。
日本人はあらゆる作業に従事させられたが、主な作業は伐採と鉱山労働と建設(建物、道路、鉄道)だった。とりわけ伐採と鉱山労働が重労働で危険な作業でもあった。各作業に厳しいノルマが課され、達成できないと超過労働が強いられたり、減食されたりした。給食は基準(ノルマ)以下なのに労働はノルマの達成を強要された。それでいて賃金はほとんど支払われなかったから、まさしく「奴隷労働」にほかならなかった。
シベリアとカザフスタン、モンゴル高原は温暖な日本の気候とは比べられないほど寒い地域だ。ロシア人は寒冷な気候に慣れていたが、日本人はこの酷寒(マロース)に悩まされた。多くの人が凍傷にかかり凍死した人もいた。関東軍の軍装はシベリアでは役に立たなかったが、ソ連側から支給された毛皮外套(シューバ)、フェルト製防寒靴(ワーレンキ)の保温力は優れていた。
作業停止となる限界気温は収容所長の裁量に任されていたから日本人には耐え難いマイナス三十度から四十度くらいに設定された。時には限界気温以下でも作業出動させられた。

日ソ国境紛争ではソ連の衛星国としてモンゴル軍が日本と戦い、日本軍捕虜を監視した=昭和14年のノモンハン事件
これがシベリア三重苦である。この三重苦に耐えられずに多くの人が犠牲になった。ただ、抑留者によってはこの三重苦よりも、後述するシベリア「民主運動」による吊し上げなどの同調圧力の方が苦しかったという。また、抑留者にとって最大の関心事は帰国(ダモイ)だったが、その見通しが立たないことも三重苦に匹敵するほどの不安と苦しみを与えた。
シベリアでは三重苦で一〇%を超える日本人が亡くなった。そのうえ、死者を鞭打つような屍体の扱いや埋葬方法が横行した。死体は死体置き場に運ばれるとすぐにカチカチに凍った。それを墓地に運び裸のまま埋葬する。ただでさえ凍土に穴を掘るのは並々ならぬ作業だったから、死者が増えると十人、二十人とまとめて埋葬することになる。深くは掘れないから薄く盛土すると狼や野犬が食い荒らした。
国際法が定める「丁寧に」「尊敬されるように」とはかけ離れた杜撰(ずさん)で冒涜(ぼうとく)的な埋葬である。ここにも共産主義が現れている。宗教を阿片だとして否定する無神論からすると屍体はただのモノにすぎないし、悼み弔う宗教的儀式も必要ないのである。