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戦後70年になろうというのに、日本の戦後は終わっていないようだ。
いや、国民の大部分は戦争を知らない世代。
だが、戦後処理の拙さゆえか相互理解の欠如ゆえか、未だに謝罪や補償を求める声が止まず、多くの国民は戸惑うしかない。
「お互いに無言の合意があった」とか、「それは阿吽の呼吸で棚上げされた」とか、故人同士の信頼関係では、今は何の役にも立たない。
言い合っている双方が事実関係を知らないのだから、先人からの申し送りを頼りに論陣を張っているのが実情だろう。
故山本夏彦は、「論より証拠と言うが、実際は証拠より論なのである」、「証拠が無いままに何時までも自説を繰り返している限り、結論は決して出て来ない」と書いている。
現状を見るところ、彼の予測通りに事態は推移しているようだ。
あの戦争には、未だに様々な持説が展開されて来た。
「たら」や「れば」の仮想は論外としても、サンフランシスコ平和条約の受諾についても、賛否を唱える発言や文章が出て来ているようだ。
そして、終戦直後の東京裁判に関しても、裁判自体の是非すら論じられている。
「百家争鳴」は言論の活性化に役立つと言われるが、こうなると各自が勝手なことを喋り散らしているようにも見えてしまう。
私には、正直のところ、どちらが正しいのか分からない。
甲を聞けば成る程と思い、乙を読めばさもありなんと思う。
世の中の人たちは、ほとんどが同じようなものではないだろうか。
つまり、論議の始まりが遅過ぎるのだと思われる。
戦後10年以内にスタートし政府主導で傍証を固めていれば、もう少し建設的な論議が可能になったことだろう。
だが、悲しいかな、日本人の特性は「先送り」にある。
「誰かがやるだろう」方式ともいう。
「時間が解決してくれる」という言葉は幾度となく聞いたが、実際にそれで解決された事例は
聞いたことがないはずだ。
ほとんどの場合証拠が薄弱になり、権利受益者の言い合いに終始するのがおち。
曖昧な「落としどころ」とかいう策が現れて、不可解な手打ちになるのが通例だ。
そしてその手打ちの可能性すら見えないのが、日本の現状なのだろう。
終戦と共に、日本では戦争協力者の糾弾が始まった。
駐留軍の指示で、戦時中軍や産業界の要職にあった人たちは、「公職追放」という措置で社会から遮断され、逼塞を強いられている。
しかし、そういう公的なものとは別に、「戦争協力者」と烙印を押された多くの作家、画家、音楽家が、世間から疎外された生活を余儀なくされていた。
この「文化的戦争協力者」は、公的機関が摘発し指名したものではない。
戦時中の活動を基に、無言のうちにその社会から追放され、困窮の生活に追い込まれて行ったのである。
当然ながら、上手く立ち回ってその対象から逃れた人も多い。
対照的に、甘んじて非難を受け止め活動を停止した人もいる。
大木敦夫、という作詞家がいた。
「国境の町」という歌謡曲の作詞で名高い。
だが彼の作品で最も人口に膾炙したのは、詩集「海原にありて 歌へる」に載せられた「戦友別盃の歌〜言うなかれ 君よわかれを」であることは、衆目の一致したところ。
〜言うなかれ 君よ 別れを 世の常を また生き死にを
海ばらのはるけき果てに 今や はた何をか言はん
熱き血を捧ぐる者の 大いなる胸を叩けよ
満月を盃(はい) にくだきて 暫しただ酔ひて勢(きほ)へよ
わが征くはバタビヤの街 君はよくバンドンを突け
この夕べ 相離(あいさか)るとも かがやかし南十字を
いつの夜か また共に見ん
言うなかれ 君よ 別れを 見よ 空と水うつところ
黙々と雲は行き 雲はゆけるを 〜
向田邦子のテレビドラマの題名になり、故森繁久彌の朗読でも知られるが、それ以上に多くの若い兵士たちが、この詩を携行鞄に収めて戦地に向かったという事実に驚く。
大木敦夫が戦争協力者と名指されたのは、この詩に拠るところが大きいと聞く。
戦争称揚の詩である、と非難されたのだそうだ。
だが私には、この詩の何処が戦争を美化しているのか、さっぱり分からない。
確かに戦地を思わせる設定ではある。
だが本質は、死を目前に杯を酌み交わす若者の昂揚した心と、裏腹に未来を予知する悲愴を謳ったものとしか見えない。
それ故に、戦後でも密かに愛誦され続けて来たのではなかろうか。
本多顕彰という評論家は、1955年に「指導者 ー この人々を見よ」という本を書き、私は高校生の頃読んだ覚えがある。
戦後、軍の協力者という過去を隠しおおせて、戦時中と180度転換した言論を以って生き延びた人々を指弾したもの。
本多自身戦争協力者に堕そうとして適わず、心ならずも逼塞生活を送った人だけに、内容を100%信じることは出来ないだろう。
だが少なくとも、如何に多くの文化人や教育者たちが過去を塗り潰し、平和主義者という仮面をかぶって他を糾弾して来たか、は垣間見える。
画家藤田嗣治は多くの戦争を題材にした絵を描いたが、戦後掌を返したように彼を非難する画壇に耐え切れずフランスへ去り、2度と日本の土を踏まなかった。
大木敦夫は海外に逃げることは出来なかったが、詩壇から追放されたまま細々と校歌を作詞したり、 雑文を書いたりして糊口を凌いだと聞く。
「言うなかれ 君よ わかれを」は、私は傑作だと思っている。
恐らくそう考えている、同年代若しくは年長の人は多いだろう。
今読んでも、古さは感じられない。
若しこれが「戦争称揚」の詩であったなら、既に古びて滅んでいたに違いない。
図らずもこの詩自身が、その本質をして人々に理解せしめた、とも言えるだろう。
不遇に死んだ大木敦夫だが、この詩だけでも彼を不滅にしている。
と、私は考えているのだが…。
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1969年全国学園闘争、この詩が口遊まれていた。
2015/3/10(火) 午前 10:03 [ - ]
学園闘争に戦争称揚歌ですか。
まあ、若い人たちにも、詩の本質は伝わったということですかね。
ありがとうございました。
2015/3/12(木) 午前 6:14 [ Masterswimmer ]