還暦スイマー望郷日記

30余年のニューヨーク、今浦島の心境を…

全体表示

[ リスト ]

熊本県は、九州の中のひとつの県である。
何処の県でもそれなりの特色を持っているものだが、熊本はちょっと際立った部分がある。
別に旨い物が多いわけでも、偉人を輩出しているわけでもない。
強いて言えば、日本で一番人気の高い「熊本城」があることだが、他にも名城は多い。
この県がユニークなのは、他に無いものがありながら、それがほとんど知られていないところ。
例えば、「宮本武蔵」。
「剣聖」とも称され、幾多の他流試合に負けることが無かった彼は、熊本で生涯を閉じた。
剣名は高いが敵も多い武蔵を召抱えることを躊躇した藩は多かったが、細川藩は敢然とこの剣士を客分として迎え入れ、扶持米を与えて生活を支えた。
勿論知る人は知っているが、誰も声高には話さないようだ。
そして、藩主細川家に伝わる和歌の「古今伝授」。
「古今伝授」とは、勅撰和歌集「古今集」の歌の解釈を伝えるもので、当時の歌壇の中心と看做されていた二条家の秘事とされていたという。
実際のところは、「この和歌に詠まれた山は何処にある」とか、「この歌にある花は何の花か」といった、剣法の皆伝書程度のものだったらしいが、当時は非常に大事にされていたらしい。
この伝授が、後年三条西家に伝わり、後継者が未だ幼かったため、高弟である細川幽斎が継いだ。
1600年の関が原の戦いに、細川幽斎は石田三成の助力の要請を断り徳川方についたため、石田勢に攻められ京都の田辺城に立て篭もることとなる。
彼の息子忠興は、徳川家康の要請で上杉攻めに参加しており、城内の兵力は僅か500。
1万5千の兵に囲まれ、落城は必至と見られた。
だが幽斎が戦で死ねば、「古今伝授」を伝える者がいなくなることを懼れた後陽成天皇は、両軍に命じて兵を引かせ、幽斎の命を救った。
つまり、細川藩は「古今伝授」のお陰で生き延びた、というお話があるのだ。

最後の一つもまた、天皇が絡む「有職故実」の話だ。
鎌倉時代に、時の後鳥羽天皇の命で相撲に関する全権を委嘱され、宮中の節会相撲の行司を勤めたのが京都の二条家の家人吉田家次であり、その後代々「吉田追風」を名乗る。
彼は二条家から細川家に移り、以後明治維新まで細川藩に仕えたという。
この吉田司家(つかさけ)は、その当時の相撲のルールを設定し、行司の任免も司っていた。
江戸時代19代吉田追風が、当時最高位だった大関の上に「横綱」という呼称を拵えた。
この「横綱」は、相撲の勝ち負け以上に品格や取り口を重視して決めたそうだ。
「張り差し」や「かち上げ」なんかは、下の下だったに違いない。
必ずしも大関ではなくとも、関脇でも「横綱」に相応しいと認められれば推挙されたらしい。
また、「横綱」のあるべき姿を書き連ねた「故実」も吉田司家から著わされたともいう。
それ以降、「横綱」を張る者は、司家の「横綱」免許と「故実」を与えられ、江戸細川藩邸で土俵入りを披露する仕来りになった。
やがてこの方式は連綿と受け継がれ、司家の地位は不動のものとなったと言われている。
谷風、梅ヶ谷、常陸山、玉錦、双葉山ら多くの力士が「横綱」免許を受け、熊本の吉田司家に於ける奉納土俵入りを執り行う。

磐石に思われた相撲協会と吉田司家の関係に、軋みが生じ始めたのは戦後のこと。
いや恐らくそれ以前から、堰には小さな穴が穿たれていたのかも知れない。
協会が推薦する「横綱」候補に、司家がすんなり首を縦に振ることは少なかったという。
「横綱」の権威を高めようと考える司家と、人気力士を押し上げて客を呼ぼうと画策する協会。
協会にとっては、司家は「目の上のたんこぶ」のような存在ではなかったか。
力士を抱えて興行を打っているのは協会であり、司家は何の役割も果たしていない。
それでも「横綱」免許発行に関しては、結構な額の金銭が動いたことだろう。
昭和25年、吉田司家の当主、24世吉田追風が金銭上の不祥事から、引退に追い込まれた。
後継はまだ7歳の息子を25世として立てる、という。
これに協会は猛反発する。
大事な「横綱」推挙の可否を、7歳の童子に委ねることは出来ない。
これと並行して協会は「横綱審議会」を設け、委員長に姫路藩主の後継、酒井忠正を宛てた。
司家の後ろ盾、細川家に対抗出来る家格と見たのだろうか。
「吉田司家」外しは、決められた路線で着々と進んだようだ。

とは言え、長年に亘り「横綱」決定に携わって来た司家を、いきなり放り出すわけには行かない。
何といっても司家には、後鳥羽天皇はじめ豊臣秀吉や徳川家康から贈られた団扇、歴代横綱の起請文など、相撲史を語る上で欠かせない貴重な資料や文献が保存されている。
そこで先ず、「横綱推挙」を協会のものとし、司家は明治神宮での「横綱方の土俵入り」に臨席し、「横綱」と「故実書」1巻を手渡す、また、11月には熊本の司家で土俵入りを行うこととした。
然しながら暫く後に、25世吉田追風にも金銭の不祥事が起き、それをきっかけとして協会と吉田司家は完全に縁を切ることとなる。
1986年の60代横綱双羽黒が、協会独自で推挙した最初の「横綱」であるのは何となく皮肉だ。

その後吉田司家は建物も売り渡し、跡地には現在はマンションが建っているという。
だが相撲協会対吉田司家の闘いは、完全に終わったわけではないようだ。
司家は、阿蘇内牧に資料館を建設すると発表している。
同家が持つ、膨大な相撲関連の資料を一般に開放しようということらしい。
またそこには現在の相撲協会に対する批判や諫言が開陳されるのではないか。
相撲協会にしてみれば、いささか鬱陶しいことだろう。
「横綱審議会」のメンバーにはマスコミ関係者が多い。
批判勢力を押さえ込むための布石、と言われているが時代はインターネット全盛。
今日の新聞社で、そんな役割が果たせるのだろうか。

だが、相撲界には沈殿した澱のようなものが積もり重なっているはずだ。
「ごっつぁん」体質で、金の流通には透明性はゼロ。
数億と言われる「年寄り株」の売り買いは、不明朗のまま放置されている。
それが一掃されるには、大変なエネルギーが要求されるだろう。
一度誰かが口火を切れば、それこそ収拾がつかない状態に陥る可能性もありそうだ。
相撲の世界は、その封建性ゆえに体質を変えずに生き抜いて来た。
今でも、親方は絶対の存在であり、逆らえば相撲界から放逐される。
外国人は力士にはなれても、年寄りにはなれない。
いわばそういう「絶対矛盾」を牙城として来たのが相撲界。
現代を生き抜く智慧を、どうやって得て行くのか。

相撲界対吉田司家のリターンマッチは、果たしてどうなるだろうか。
そもそも、一応の勝負に持ち込めるかどうかさえ定かではない。
高みの見物だが、多少の興味はある。

この記事に

閉じる コメント(0)

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事