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〜赤い靴 はいてた 女の子 異人さんに つれられて 行っちゃった〜
よほど若い人なら知らず、日本人ならば先ず知っている童謡である。
〜横浜の 埠頭(はとば)から 汽船(ふね)にのって 異人さんに つれられて 行っちゃった〜
大正11年(1922年)に、野口雨情作詞 本居長世作曲で発表された。
〜今では 青い目に なっちゃって 異人さんのお国に いるんだろう
赤い靴 見るたび 考える 異人さんに逢うたび 考える〜
これは「童謡」である。
言葉が口語体で書かれていることでも、はっきり分かるはずだ。
明治時代、政府は文部省に命じて学童向けの「唱歌」を数多く作らせた。
「故郷」「春の小川」「朧月夜」など、今でも唄われているものも少なくない。
ただ全て文語体で書かれており、子供には理解しづらいものもあったようだ。
それを不満として、民間から生まれたのが「童謡」ということになる。
作家鈴木三重吉が、「赤い鳥」という児童雑誌に発表したのが始まりという。
大いに流行ったようだが、鈴木の経営方針に不満な一派が「金の船(後に金の星)」を起こす。
「赤い鳥」は北原白秋作詞 山田耕筰作曲が中心で、「金の星」は野口雨情と本居長世のコンビ。
ひと頃は大いに人気を集めたが、やがて戦争の気配が高まると、「童謡は軟弱」という意見が強まり、戦争中は、公式に歌われることは滅多になくなった。
息を吹き返すのは、戦争が終結してからのことになる。
「童謡 赤い靴」は、実話を元にして創られた、というのが定説になっている。
確かに、この詩と曲の持つ一種独特の雰囲気は、他の創作童謡とは大きく異なるようだ。
先ず、何とも暗い印象が拭えない。
一読、赤い靴を履いた女の子が、外国人に拉致誘拐でもされたような響きさえある。
少なくとも、明るく微笑みながら旅立って行ったようには感じられない。
横浜の埠頭から、異人さんの国に向かうには、何か不幸な事象が背後にありそうではないか。
この歌は実は5番まであったことが、1978年に発見されている。
〜生まれた 日本が 恋しくば 青い海眺めて ゐるんだらう(いるんだろう)
異人さんに たのんで 帰って来(こ)〜
野口雨情は、この5番は発表しなかったのだが、どう読んでも幸せな外国生活とは思われない。
不謹慎なようだが、某国に連れて行かれた人たちを想起さえさせる。
この歌のモデルは、静岡県生まれの佐野きみであるとされている。
1902年生まれで1911年に死亡ということだから、9年間の生涯。
未婚の母岩崎かよが生んだきみは、かよが後に結婚した男性と共に北海道に渡るが、開拓生活の苦しさもあり、アメリカ人宣教師に託されることとなった。
やがて宣教師夫妻はアメリカに帰国することになり、きみを連れて行くべく手続きをするが、その時きみは既に肺結核に罹病していた。
已む無く、宣教師は彼女を鳥居坂協会の孤児院に預け帰国し、きみは9歳の時世を去った。
だが岩崎かよは、娘は宣教師とアメリカに移り住んだと思い込んでいたため、死に目に会うことも出来なかった、ということになる。
野口雨情は、このかよの夫と札幌で職場を共にしたことがあり、その折に「自分の連れ合いには女の子がおり、アメリカ人宣教師と一緒にアメリカへ渡った」、と聞かされていたようだ。
雨情は10年以上後の1919年に詩を作り、本居長世が1922年に曲をつけて世に出した。
その頃には、「佐野きみはアメリカへは行けず、孤児院で死んだ」ということは既に知られていたらしい。
それから60余年後の1978年、新聞に「私の姉は『赤い靴』の女の子」という投稿が載せられた。
かよの3女(きみの異父妹)が書いたものだが、これに北海道のテレビ局の記者が飛びついた。
この記者菊池寛は5年の歳月をかけて取材し、記憶の埋没しかけた部分も引っ張り出し、ドキュメンタリーテレビ番組を制作、併せてノンフィクションの小説も発表し、「赤い靴「伝説は定着したかに見えた。
彼はアメリカまで飛んで、宣教師の甥にインタビューを試みているが、確信的な証言は無かったようだ。
そしてさらに5年後、静岡のテレビ局で「赤い靴はいてた女の子」という番組制作に携わった構成作家が、幾つかの疑問点を見つけ出し、定説には根拠がない、という批判を発表し話題を呼んだ。
そのポイントは幾つかあるようだが、
1.菊池説では、きみの実父は岩崎かよの母親の再婚相手である佐野安吉であるとなっているが、父親のいない子供を祖父母の養子と届けるのはよくあることであり、不自然さはない。
2.きみを養子にしたという宣教師の名前はヒューエットだが、この宣教師の日本での活動記録を見る限り、きみとの接点は見つからない。「きみはアメリカ人宣教師の養子となった」というのは佐野安吉がかよを安心させるために拵えた虚偽である。きみは2歳の時から東京の孤児院に入っており、北海道で布教活動をしていたヒューエットに逢う機会は無かったはずだ。
3.菊池の言に拠れば、野口雨情は札幌で隣り合って住んだかよから、きみの出生からの事情を聞いた、となっているが、雨情がかよと近しく住んだのはたった3ヶ月で、私生児を生んだような話を交わせるような関係には至っていない、と思われる。
この両者の主張は相反する部分もあれば、全く等しい箇所もあるらしい。
構成作家は、その「相反する部分」こそ、菊池がテレビ番組や自分の本のために、辻褄合わせを行ったヤラセ部分である、と主張している。
こう聞くと、こういう細工は随分昔から行われていたのだ、と思わずにいられない。
だが既に「赤い靴」が世に出て94年、核心部分を知る人は最早誰もいない。
歌そのものを知る人だって、少数派になっているだろう。
「赤い靴」の女の子は、実は「異人さんのお国」へ行くこともなく、日本国内で薄倖のうちに世を去ったことは今や間違いの無い事実として厳然とある。
それらを考え合わせると、その周囲の人物の関わりを云々することがどういう意味を持つのか、核心を衝ける人はいないのではないか。
まあ、未だに話題になることは、「赤い靴」という童謡が長く歌い継がれて来たことの証左であり、それは雨情の詩と長世の曲の功績という他はないだろう。
この歌が、前年に同じ作詞作曲家で作られた「青い眼の人形」と一対を為していることを考えれば、自ずからこの曲の誕生に込められた想いが理解出来るような気がする。
実話とそれを元に作られた歌は、既に何処かで袂を分かっていた、と言うしかなさそうだ。
ところで、この2曲共に戦時中は敵国の歌と看做されて、放送禁止だったと聞く。
一体どの部分が敵性と捉えられたのか、考えてみたら面白いかも知れない。
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