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この数日間、ブログをさぼっていた。
と言うより、あまり何かを書くという気分にならなかった、という方が正しいかも知れない。
では何をしていたかと言えば、大相撲のテレビ放映を観ていた。
ニューヨークでは、幕内以降の取り組みは日本と同じ時間帯に流される。
13時間の時差があるから、日本の午後4時から6時、つまりこちらの朝3時から5時というわけだ。
これが結構人気があるようで、相撲好きのアメリカ人などにも好評だそうだ。
家人の友人(日本育ちのアメリカ人)も、相撲を全く知らなかったアメリカ人の夫を引っ張り込んで、録画しておいた幕内の取り組みを、2人でじっくり観ているらしい。
彼らには各力士の裏話や評判などは伝わって行かないから、純粋に相撲だけで評価する。
日本では嫌われていた朝青龍などは大の贔屓で、何故日本で不人気なのか分らないらしい。
日本人に不評の仕切り直しなども、緊張感が昂って行く様が答えられないそうだ。
何処と無く、早くからがらんとした場内で幕下や十両の取り組みに見入っている相撲通のようでもある。
英語での同時放送も受信出来るので、相撲の伝統や由緒なども聞きかじっているらしい。
「出数入りは『不知火』の方が見栄えが良いね」などとのたまうそうだから、元相撲少年の私もうかうか出来ない。
かく言う私は、夕方の「大相撲ダイジェスト」という、仕切り直しはカットされた30分番組を専ら観ていた。
一番の取り組みが終わると、直ぐに次の取り組みの時間一杯がスタートする。
私も仕切り直しが嫌いで、日本にいた頃もやはりダイジェスト版を観ていたように思う。
私が相撲を初めて生で観たのは、昭和29年の初場所だった。
父が勤めていた会社の社長が大の相撲好きで、毎場所結構な数の桟敷席を買い込んでいたらしい。
それを貰って来て、初場所千秋楽に家族で見物に行ったわけだ。
当時の横綱は東富士、千代の山、鏡里であり、大関の吉葉山が14日まで全勝で勝ち進んでいた。
結びの一番は鏡里対吉葉山で、鏡里が勝てば優勝決定戦、吉葉山が勝てば全勝優勝という組み合わせ。
場内の人気は圧倒的に吉葉山、声援の大きさは館内にこだまして、場内放送さえ聞こえない。
小学校の4年生が生まれて初めて観る相撲だから、私ものぼせ上がっていたに違いない。
吉葉山が寄り切って勝ち、折から降り出した雪の中のパレードまで見た記憶がある。
それ以来相撲に夢中になったのだが、そう簡単に本場所を観られるわけもない。
専ら雑誌を読み、ラジオ放送を聴くのが関の山。
テレビ放映が始まったのは2年後くらいだろうが、我が家にテレビが来たのは6年後。
つまり、雑誌とラジオだけの知識で、相撲少年は育って行ったわけだ。
当時の人気力士と言えば勿論横綱が中心になるが、上昇中の栃錦や若の花などもスターだった。
そして、そこに異色の人気力士もファンの喚声を浴びていた。
かつては双葉山、羽黒山と並び「立浪三羽烏」と称された名寄岩という幕内力士。
一時は大関に迄上がったが、その後は幕内中位を行ったり来たり。
173センチ128kgだから、今なら勿論当時でも大型とは言えない。
一度大関にカムバックしたが、後は勝ち越したり負け越したりだった。
それでも愚直に土俵を勤める姿に、「老雄」という冠詞が付いた。
結局昭和29年の秋場所まで勤めて引退するのだが、その彼を主役に映画が作られたから驚きだ。
当時の映画は人気役者中心の所謂「スターシステム」だったが、この「名寄岩 涙の敢闘賞」もそういう意味では人気だけが頼りの際物だったと言えるだろう。
同じ年に「土俵の鬼 若乃花物語」も封切られているから、2番煎じなのだろう。
名寄岩につけられた「老雄」という不思議な敬称も、それ以降あまり聞いた覚えがない。
「老いたる英雄」という意味合いだろうから、そう呼ばれても可笑しくない力士やスポーツ選手はいたはずだ。
そして悲壮感に満ちた英雄譚が好きな日本ならば、大いに受け入れられたに違いない。
だが不思議なことに、日本の読み物や史書にもそういう記述は非常に少ない。
余談になるが、勝ち力士が懸賞を受け取る時に手刀を切るが、あれは名寄岩が終戦前に始めたそうだ。
今ではやらない力士はいないが、名寄岩以前はむんずと掴むだけだったらしいから、なかなかのアイデアだ。
「老雄」と言われて真っ先に思い出すのは、鎌倉時代の斉藤実盛だろう。
それ程の武勇伝があったわけでもないだろうが、平家に仕え木曽義仲追討に出陣する。
すでに72歳、敵に老人と侮られることを嫌い髪を黒々と染めて戦いの場に臨んだ。
戦いに敗れて討ち死にするが、髪が黒いため人別が出来ない。
そこで水で洗ってみると白髪頭があらわれて、敵将であることが認められたという。
戦いに臨んでの心構えに、敵将たちも声が無かったと「平家物語」にはある。
またまた余談だが、彼の供養は今でも石川県小松市の神社で催されているが、そこには彼の甲が祭られている。
後年松尾芭蕉がこの神社を訪れその甲を見、
「無残やな 甲の下の きりぎりす」、と詠んだと言われているそうだ。
だが私は、「老雄」という呼ばれ方をした力士を名寄岩以外ほとんど知らない。
辛うじて出羽の海部屋の羽島山が幾度かそう呼ばれたように思うが、彼の引退は37歳。
そもそも40代で幕内の相撲をとったのは、名寄岩と旭天鵬の2人しかいない。
旭天鵬など「老雄」と呼ばれても良かったのだろうが、身体の張りや相撲っぷりが若々しく、とてもではないが「老雄」などと呼べる雰囲気ではなかったのではないか。
昔の相撲取りも怪我は多かったが、今のような深刻なものは少なかった。
150kgあれば超巨漢力士だから、平均では120〜130kg程度。
決まり手の「吊り出し」が多かったことからも、それが窺える。
「打っちゃり」にしても、相手を持ち上げる技だから今ではほとんど見ない。
200kgの巨体に寄り倒されたら、大怪我の可能性はかなり高い。
「土俵際の粘り腰」などは、力士生命を縮めること間違いないだろう。
早朝に録画した大相撲の全取り組みを、暇に任せてじっくり観ることになった。
改めて力士の大型化に驚かされる。
平均を調べてみると、平成24年の統計で身長186cm、体重160kgとなっている。
私が相撲に目覚めた頃、最大の巨体は「大起(おおだち)」という力士の180kgだったが、彼は他の力士と較べるとふた周りくらい大きかったように記憶している。
幕内には120kg程度の力士が結構いたし、「土俵の鬼」と呼ばれた初代若の花は107kgだったようだ。
彼の好敵手としてひと時代を築いた栃錦は120kg程度。
今日の幕内には最早そんな軽量力士は存在しない。
その所為だろうが、似通った決まり手が多い。
寄り切りや押し出しが多いのは昔ながらだが、今では突き落としや引き落としなど、相手の突進を逆手に取って重過ぎる体重をコントロール出来ない弱みを突くものが増えている。
だが肥満体故か、足を使う内掛けや外掛けなどは滅多に見られない。
立ち上がりざまに張り手をかましたり、肘で相手の顎を突き上げるかち上げなどが非常に多い。
技を競うという雰囲気は見られず、言うなれば喧嘩相撲。
「内掛けの琴ヶ浜」「上手投げの清水川」「りゃんこ(2本差し)の信夫山」などのふたつ名も今は昔。
モンゴル相撲全盛と言われるが、力士数はそれ程多いわけではない。
42人の幕内力士の内、10人前後だというから25%程度か。
ただモンゴル相撲で基礎が出来ているから、怪我が少なく筋力が優れているようだ。
さらに彼らが現在得ている収入はモンゴルでは夢のような高給だから、稽古にも力が入るだろう。
つまり、基本的な素質にはそれ程の変わりは無くとも、それからの成長の過程が大きく異なっているわけだ。
テレビで観ても、彼らの体型にはほとんど無理がない。
モンゴル相撲の素地があるとは言え、日本のように1年中相撲漬けではない。
対する日本は、野球でも分るように、一つのスポーツに集中するとそれ一本に突き進んでしまう。
つまり、他のスポーツに振り分ける「遊び」の部分が無いのだ。
相撲筋肉は発達しても、他の部分は未発達のまま捨て置かれる。
アメリカでは、身体膂力に優れた若者は3つくらいのスポーツをこなし、最後にひとつを選ぶ。
アメリカンフットボールの学生年間最優秀選手には、「ハイズマントロフィー」が授与される。
それを受けながら、バスケットボールのプロに進む選手がいるから驚く。
彼らにとって、全ては人生のプロセス(過程)の一部に過ぎないのだろう。
そういう話を聞くと、彼我の差の大きさを感じずにはいられない。
1週間以上、大相撲の幕内全取り組みを観ていた。
昔は嫌いだった4分間の仕切り直しにも、何らかの意味があることは理解出来たようだ。
お飾りに思えた行司や呼び出しにも、それなりの役割がきちんとあることも分かった気がする。
長い歴史があるものには、それなりの存在価値があることも認識した思いだ。
歴史があるものを理解するには、その人も歴史を経ねばならない。
10歳の相撲少年が今、古希を越えた相撲老年として戻って来たようである。
こういうファンをしも「老雄」と呼ぶだろうか。
まそれはあり得ないから、精々「老好角家」と自称することにしようか。
秋場所が結構待ち遠しいのが、我ながら可笑しい。
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