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「還暦スイマー」は10月半ばから約3週間、日本に帰国していた。
過去40年間、少なくとも`年に1,2度は帰っていたから、別に珍しいことではない。
だが3月に2週間の入院生活を送り、それ以降も万全とは言い難い体調だったから、決めるまでに少々の時間が必要だった。
主治医に相談すると、この8月に家族連れで9年ぶりに郷里の会津に帰ったという彼は、「大丈夫ですよ、行けるうちに行っておかなくちゃ」、いとも簡単に請合う。
それでも逡巡していたのには、いささかの理由がある。
体調を考えれば、少しでも先延ばしの方が良いだろうと思う。
だが、既往症を考えれば、寒い時期の日本はそれほど好適とは考えられない。
出来れば11月中には戻って来るスケジュールにしたい。
それには10月半ば過ぎの出発が理想的ではなかろうか。
その時期であれば、偶然にも新蕎麦、新米、新酒や親サンマの時期とぶつかる。
思い出しても10月に日本に帰ったことは恐らく1,2度しかないはずで、紅葉の記憶も無い。
そういう風に考えは纏まって来たが、結局航空券を手配したのは10月の初めになった。
往きは成田着、帰りは羽田発という妙なスケジュールだが、運航は日本の航空会社。
出発を決めてしまうと、先ず日本滞在中の薬を揃えなくてはならない。
ここら辺が高齢者の旅の辛いところだろう。
以前日本に着いてから1種類の薬の不足を発見し、慌てたことがある。
至急連絡し航空便で送って貰うことにしたが、それでも足りない分は日本にいる家人の母親の常用薬を4,5日分分けて貰い、送られて来る薬の到着を待つことになった。
それに懲りて、海外旅行の際は先ず薬を用意することから始まるのが通例になる。
昔、食堂で相席した初老の男性が食後に山ほどの薬を服用するのを横目で見ながら、自分には縁遠いことだと思っていたが、今となればあれは端無くも私の10数年後を見せてくれたのだったろう。
1年半ぶりのニューヨークー成田の飛行だったが、予期したほどには草臥れなかった。
今の飛行中の映画にはほとんど期待していないが、今回観た「シン ゴジラ」は水準以上だった。
私のようなSFやホラー映画が嫌いなものでもそう思うのだから、好きな人にはたまらないのだろう。
あと数本の邦画を観たようだが、残念ながらほとんど記憶に残っていない。
約10数時間の飛行時間だったようだが、概ね順調だったと言えそうだ。
病み上がりにとっては、上々の滑り出しと言っても良い。
飛行中が快適だったのは、一つには子供の乗客が少なかったことによるかも知れない。
少なかったと書いたが、今思えばほとんどゼロに近かったように思う。
こういうケースが頻繁にあるとは思われないが、僥倖であったことは間違いない。
幼子を抱えた母親や父親には申し訳ないが、暗い中での幼児の泣き声は聞いているのも辛い。
勿論面と向かって非難する気は無いが、続けばうんざりする。
だがその幼児を抱き締めている若い親のことを考えれば、非難するわけには行かない。
長距離飛行にはつきものの問題ということなのだろう。
都内の姉の家に旅装を解いて、折しもスイスから来ていた姪一家と再会した。
ほぼ10年ぶりだから、時の経つ早さを実感させられる。
それに、これから先の10年以内に再びまみえることがあるのかどうか。
随分弱気のようだが、それが病を体験した高齢者の思考なのだろう。
今逢った人と再び逢える保証は何処にもない。
今回の帰国の目的の一つに、6年半前の東北大震災で命を落とした知人の慰霊がある。
すぐにでも帰国して墓参をと考えていたが、今日までのびのびになってしまっていた。
海岸沿いの水産加工場の責任者だったSさんは、襲って来る津波に先んじて数十人の従業員を工場裏の小高い丘に誘導し、再び工場に戻ったところで遭難した。
この部分は従業員の一人が携帯のビデオで撮影し全国ネットのテレビで放映され、そのフィルムを私もニューヨークで観ることが出来た。
この従業員が中国からの研修員だったことから、彼の行動は大きな賞賛の対象になり、中国本土では「英雄」と讃えられ当時の温家宝首相が言及したことが話題になった。
映画会社、テレビ局、幾つものドラマ化の要請があったが、残された家族のキッパリとした拒否に遭い、その計画は実現しないままだと聞いた。
彼を右腕と頼んでいた長兄が現社長だが、往時の勢いの良さは少々影を潜めていたように思われた。
亡くなったSさんは海外の案件を一手に担当していたのだが、それが全て現社長にのしかかって来た。
私はSさんとチリに2度ほど一緒に行ったが、今は誰かに任せているのだろう。
かつて工場があった辺りは全て建て替えられていたが、湾が奥まったところにあるためか、彼方に見える外洋があの巨大な津波を運んで来たのだと考えると、今は穏やかな海さえ不気味に見えて来る。
未だ真新しい工場の入り口に、「慰霊の碑」と刻まれた大きな石碑が置かれていた。
「ここで弟の遺体が見つかったのでね」
いささか唐突に見えた石碑だが、建立の行く立てを聞けばあるべきものがあるべきところにある、と思われる。
石碑に手を合わせながら、私はそんなことを考えていた。
「幾度か表彰したいという話はあったんだが、どうも気が落ち着かなくて断り続けて来た。だが平成24年にどこかで気持ちを整理しなくちゃならないと思って受けることにしたんだ。」
社長にこの港町のあちらこちらを案内して貰ったが、その全てが新しい。
聞けばこの町を襲った津波は14mの高さに達したという。
その巨大波は海辺の全てを嘗め尽くし、洗いざらい太平洋に運び去ったのだ。
Sさんが働いていた工場は、その記録的な津波にひと吞みされたのだろう。
幾度か訪ねた頃の記憶を呼び起こせば、津波以前の工場の様子がまざまざと思い出される。
だが現在ある新工場とその古い工場が、どうしても私の脳裡で重なって行かない。
日帰りのつもりで出かけたのだが、社長に強く薦められ近在のホテルに泊めて貰うことにした。
被害が小さかった隣町の寿司店で、湿っぽくならない程度に故人の思い出話を語り合う。
お互い以前に較べて酒量が減った所為か、早めにホテルに帰りベッドに入った。
翌日、再度工場を訪ねて「慰霊の碑」に礼拝し帰路についた。
大袈裟なようだがこの7年の間胸にあった懸案事を果たせたことで、安堵感のようなものが生まれて来たのかも知れない。
私の中にあった課題の一つが解き明かされた、そんな感慨が生まれて来たようでもあった。
数多くの命が失われた東北大震災だったが、その中の一つの命に私の哀悼と衷心を送ることが出来たのであれば、この小さな旅にも幾らかの意味があったと言えるかも知れない。
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