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男も私の年になると、「おふくろの味」などということはなくなるようだ。
第一、数十年前に母がどういうものを拵え、私たちがそれを食べていたのか、ほとんど記憶にない。
付け加えれば、今から60年以上の昔であれば大戦の直後でもあり、まともな食料は無かっただろう。
最早知る人も少ない「配給制度」で、所帯の人数分の米しか買えなかったはずだ。
「外食券食堂」なるものがあって、定められた食券を持参しなければそこで食べることは出来なかった。
と言って、無料で食べられるわけではなく、食券を持参して代金はちゃんと払うシステムだったようだ。
そうは言っても家族で外食などする余裕も無く、何でも良いから腹一杯にすることに専念していた。
子供が4人もいる我が家では、先ず主食である米の入手が第一だっただろう。
戦後ではあったが、既に給食は実施されていた。
脱脂粉乳のミルク、大きなコッペパン、名称も分らないシチュー状のひと皿は日替わりだったようだ。
食糧事情は決して良くなかったはずだが、それでも残す生徒は多かったようだ。
残ったものは持ち帰る決まりだったから、帰路の両側の下水に捨てられた脱脂粉乳ミルクが溝を真っ白く染めているのはほぼ毎日のことだった記憶がある。
未だ味覚よりも食欲を満たすことが先決の時代だから、給食も決まり切った献立が続くのだが、それでもごく稀に子供たちに喜ばれることもあった。
無味乾燥なコッペパンを油で揚げて砂糖をまぶし、如何にも子供好みで残すものは少なかったようだ。
副菜の方では、私の時代の人気ナンバーワンは「鯨竜田揚げ」であって、これだけは年齢に多少の開きはあっても共通していたようで、育った環境も異なる初対面の人と「鯨竜田揚げ」で意気投合した憶えもある。
名前は記憶にないが、中華風の炒め物のあんかけ風がなかなかの人気で、これはどうやらアメリカ人が好んだ「Chop suey チョプスイ」と呼ぶ広東風のひと品の簡易版だったようだ。
年に200回以上食べていた給食の中で、旨かった記憶がこれら以外ほとんどないのだから、はっきり言えば不味いものを毎日のように食わされていた、ということになるのだろう。
確かに我々の世代で「給食」と言えば、半ば義務のように食べた不味いものの代名詞になりそうだ。
言うなれば食べるものの味を云々出来る時代ではなかったわけで、それは学校給食に留まらず家族が囲む団欒の食卓だってそれほどの大差はなかったのかも知れない。
そういう環境下で「おふくろの味」と呼べるようなものが食膳に上っていたかどうか、ほとんど覚えがない。
家庭の主婦がテレビの画面で調理される西洋、中華、和風の料理を見よう見真似で自作する時代は、もう数年待たなければやって来ないし、海外から名前も知らない食材が押し寄せてくるのは、ずっと先のことだ。
「おふくろの味」を最初に商品化したのは、街の居酒屋や一膳飯屋ではなかったか。
その味を嬉々として頬張ったのは、地方から都会の大学に進み、そのまま大企業に職を得た若者たちだろう。
彼らはテレビの料理講座などで西洋や中華の料理を身につけた若い女性と結婚しただろうから、所謂「おふくろの味」と呼ばれる田舎風の味は家庭の食卓には出て来なかったように思う。
その世代は、恐らく私より5年10年後のジェネレーションと考えられそうだ。
少なくとも私たちの年代は、料理屋や居酒屋で「おふくろの味」に涙したことはないはずだ。
「おふくろの味」が盛り場に氾濫し始めた頃、私は日本を離れていたからその人気ぶりを知る術もない。
だが、どのような料理が供されているかは、読んだり聞いたりで何となく知ることが出来た。
「ポテトサラダ」が何と言っても一番人気らしく、「肉じゃが」や「芋の煮っ転がし」辺りが続くようだ。
「ひじき」や「切干大根」なども、人気メニューの上位に位置しているらしい。
私に言わせると、この手の料理は子供の頃散々喰わされた覚えがある。
我々の年代が一番食べたかったのは、牛や豚の肉類だろう。
考えるに戦争中一番欠乏していたのは、その肉類だったに違いない。
「配給で散々喰わされたから、ホッケは顔も見たくない」
そんな台詞を聞いた覚えがあるから、ホッケは稀には食膳に上っていたらしい。
だが当時配給に廻された食材は、とても人間の食べられるものではなかったという。
当時書かれたものを読めば、どんな食品が配られていたかが分り、人々の労苦が偲ばれるはずだ。
アメリカに住むようになって、食事の支度も役割分担として担当するようになった。
それでも嗜好が基本的に日本食中心だから、それほど代り映えはしない。
飯を炊いて副菜を用意し、汁と漬物を添えれば一応の出来上がりだ。
どんなものを拵えて来たか、記憶に明確でも無い。
魚を買って焼くか煮るかすれば、一応形だけはつくものだ。
豚や牛の肉だって、味付けを和風にすればちゃんと米飯と上手く馴れ合ってくれる。
この40年間に私が拵えた料理に「おふくろの味」があったかどうか、どうも自信がない。
「ポテトサラダ」や「肉じゃが」「煮っ転がし」は「おふくろの味」の定番らしいが、私はこの幾つかのメニューを拵えたのはついこの2,3年のことで、そう言えば「カレー」もほとんど似たようなものだ。
別に難しい料理を拵えようという気はないのだが、自分好みの調理をし始めると大体同じようなものになる。
太刀魚を買ってくれば、3枚におろして味噌漬けや粕漬けにしてしまうし、バターフィッシュ(えぼだい)の良いのがあれば、開いて一夜干しにして翌日炙って喰う。
言ってみれば、出たとこ勝負の料理とでも呼んだ方が良いのかも知れない。
さらに言えば、私には料理の組み立てはほとんど無いに等しい。
気障に言うなら、「あるものをあるがままに料って食べる」というところだろう。
稀に姉たちに母の拵えていた料理のことを尋ねても、彼女たちもそれほど確たる記憶は無いらしい。
話に出てくるのは、クッキーやワッフルなどの甘味がほとんどで、あの時代を反映しているようだ。
考えてみれば大黒柱の父が食卓の中心にいれば、食事も父の好みに合わせたものになるのが道理。
博多生まれの父であれば、食膳に魚が上るのが多くなるのは当たり前だったかも知れない。
そして子供たちが魚好きに育ったのも理の当然と言えそうだ。
若し我が家に「おふくろの味」が存在したとすれば、それは魚の煮付けや塩焼きだっただろう。
ひょっとすると、「骨湯」だったかも知れない。
これは魚の煮付けや塩焼きの残りに熱湯をかけて呑むという、あまり人には言えない代物だ。
だが、一度憶えると止められないほどの美味とも言える。
この「骨湯」の最高の材料は煮つけられた魚の頭に留めを指す。
若しそれが「鯛」であるなら、食卓での争奪戦は熾烈を極めたに違いない。
もう半世紀以上昔の話だから、笑い話でしかないが。
とは言っても、若し私の目の前に煮付けの残りの鯛の頭が置かれていたら…。
久々の争奪戦に名乗りを挙げるのも、肯ずるものではないのだが。
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