還暦スイマー望郷日記

30余年のニューヨーク、今浦島の心境を…

無題

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私は東京の西郊と言おうか、分りやすく言えば都の西側に位置する杉並育ちだから、身近な盛り場と言えば新宿であり、ごく稀に渋谷や銀座にまで足を伸ばすことはあっても、浅草やそれ以東に足を踏み入れたことは記憶に無かったように思う。
私が浅草辺りを物珍しげに覗きまわるようになったのは、実はアメリカに住み始めて以後のことになる。
と言っても年に精々1,2度の帰国の合間に行くのだから、限られた店や寺や神社を眺める程度のことだ。
だから本当にそのディープな部分を訪ねられるようになったのは、ここ数年ではないだろうか。
例えば合羽橋の調理器具専門店街なども、必ず行くようになったのはこの4,5年のような気がする。
雷門からすぐの「並木藪蕎麦」にしても、見つけて行き始めたのは良いがすぐに行列が長くなり、今では1時間以上待ちが当たり前という状況になってしまった。
夥しい数の所謂グルメブログの氾濫で、昔であれば並程度の店が持ち上げられ「名店」と呼ばれ、店主は「この道ひと筋の職人」ということになり、知らぬ間にメニューも値上がりしてしまう。
私が子供の頃良く行った「M」というラーメン屋もマスコミに持ち上げられあっと言う間に「日本一」の店になった。
もうその頃は単なる行列ではなく数時間待ちという話だったから私も行く気も失せていたが、やっかみもあったのだろうが店側の客あしらいの悪さが喧伝されるようになった。
「うちはレンゲを出していません」とか「隣同士話すのは辞めてくれ」だの、まことしやかに囁かれる逸話は、昔を知る私たちにとっては信じられないような話ばかり。
幼かった私の麺を、一度水に通して食べやすくしてくれた店主からは想像もつかない人間像。
やがて巨額の脱税を摘発されて、見る間に萎んでしまった。
今でも私はたまにこの荻窪を覗くこともあるが、その「M」はもはや存在しない。
おそらく名前すら忘れ去られたのかも知れない。
大きな盛り場にある有名店は、客こそ多いが味に関しては疑問符がつくところが多い気がする。
私にとって唯一の盛り場だった新宿だが、今では単なる薄汚れた場末としか思われない。

そして、過去の遺物めいていた浅草や下町が息を吹き返しつつある。
かつて山本夏彦は、「浅草や銀座は衰退して行く街だ」と書き、それは充分説得力があった。
だが現実には、東京の盛り場は人口の増加を受けて拡大の一方のようだ。
その要因のひとつに、海外からの人の流入があることは間違いない。
今回私は合羽橋の調理器具店街を歩いていて、外国人客の多さに驚かされた。
日本独特の飲食店用の商品見本の人気は以前から知られていたが、今の彼らはそんな時点は越えて日本の調理器具の精巧さや使い易さに惹かれて来ていることが良く分る。
一品一品は決して安くはないが、投資に見合うものが得られることを既に学んでいるようだ。
2,3万円を越える庖丁や鍋などが買われているのを見ると、日本の技術を再確認するとともに、それを見極められる海外から来た調理人たちの熱意に感心してしまう。
ただ、日本の料理人が使う庖丁類は研磨が容易ではない。
器械で研ぐ国も多いが、日本古来の刃物は職人が砥石の癖まで見極めてほぼ毎日仕事後に研ぐ習慣になっているので、そう簡単に習得することは難しいのではないか。
売る店の方がそこまで考えているのかどうか、売りっ放しではないのか、些か疑問ではある。

浅草のみならず江戸時代から職人や専門職が集まっていた下町は、興味深い処が多い。
それをあらわす町名があちこちに存在していたのだが、戦後町名改革とやらで変哲も無い名前に改称させられてしまった事例を幾らでも探し出せる。
一体、東京の人たちやお役所の連中は「富士」という名前が大好きなようで、「XX富士町」とか「富士XX町」と名づけられた新興住宅地は結構ある。
調べたことはないが、関東や甲府、さらには東海地方の富士を望める町村には「富士」を取り入れた新町名に変えたところも少なくないと聞いた。
これも調べたこともないが、その周辺の小中学校や高校の校歌には「富士」が頻出しているのだろう。
別に目くじらを立てて非難するほどのことではないが、やはり少々うんざりする。

「校歌」のついでに言うが、これもそろそろ考え直す時期に来ているのではなかろうか。
当時の文人が古色蒼然たる言葉を繋いだ詩に、これまた大家と看做された作曲家が曲を添えて既に100年以上の年月唄われ続けて来た校歌は、最早その言葉の持つ弾力性は失われているだろう。
多くは美辞麗句を連ねた、若者には理解出来ない古めかしい言葉の羅列でしかない。
極言すれば、校歌とは甲子園で歌われるかどうかで値打ちが決まるもののように思われているらしい。
何千何百という学校が何千何百という校歌を持ち、ことあるごとにそれを唄っているというのも唯一日本にしかない奇習と言っても良いのではないか。
日本に校歌というものが生まれ唄われるようになったのは明治以降であり、政府主導の教育の一環とされたことはほぼ間違いがないようだ。
欧米やアジアの諸国にも校歌を持つ学校は存在するらしいが、日本のように決まった記念日、例えば創立記念日、入学式、卒業式などで唄うことが決められている例は少ない。
それを日本独特の文化と看做すか、陳腐な陋習を守り続ける悪弊とみるか、意見は別れるかも知れない。
だが、実際に歌う学生たちがその詞の意味をほとんど理解していないのは、これまた可笑しなものだろう。

「校歌」について考えると、すぐ浮かんで来る名前がある。
「信時潔」と言えば、「ああ あの人か…」と良し悪しは別にして、その名前を思い出すだろう。
「信時潔」という名前は知らなくても、彼が作曲した多くの歌のひとつくらいは知っているはずだ。
「海ゆかば」は、戦時中おそらく最も歌われた彼の作品だろう。
この歌ゆえに、信時潔は戦争称揚の作曲家として戦後は逼塞していたという。
同様に活動していた山田耕筰と較べれば、大きな違いと言えるだろう。
信時潔の作品は、実は信じられないほど多岐に亘っている。
彼が作曲した大学高校中学小学校の校歌の多さは、想像を遥かに超えているのだ。
彼の拵えた校歌を持つ学校が日本全国に網羅されていることは別に不思議ではない。
また、そのほとんどが県立、町立、区立という公立学校であることも、頷けるだろう。
さらにまた、明治以降多くの学校が校歌作りに狂奔したであろうことも想像出来る。
それはまさに、今の「ゆるキャラ」作りと同様の「乗り遅れてはならない」という懸命さだっただろう。
そういう場合、誰もが考えるのが既にその道で名を成した人に依頼することだ。
既に多くの校歌を作曲し大家と目されている信時潔などは、まさに打ってつけと言えそうだ。
生涯を通じて800以上の校歌を作曲した信時だが、それ以外にも社歌や団体歌なども作っている。
戦後は自主的に拵える曲の数を減らしたようだが、それでも彼が作曲した校歌の数は驚異的だ。
その作品が歌われた、という点で考えればひょっとすると日本一、いや世界一かも知れない。
比較は難しいが、ギネスブックが認定する可能性も無きにあらず、かな。

私の下町漫歩はまだまだ緒に着いたばかりだが、数あるブログのお蔭で知識だけは豊富だ。
それだけではない。
以前幾つか訪ねてみた地方魚市場行脚も、続けたいもののひとつ。
ただこれはどんなに急いでも1日にひとつが限界だから、そう簡単には行かない。
まあ時間はたっぷりあるはずだから(?)、ゆるゆると行くことにしよう。
札所巡りの人気は相変わらずのようだが、市場巡りもそのうちブームになるかも知れない。


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