|
髪が伸びて来ると、少々鬱陶しくなる。
4月に退院したが、暫くは何処にも出かけられなかった。
5月の初め頃、我慢し切れなくなって杖を突いてフラッシングの街に出かけた。
最近私が行っている理容店は、大きなスーパーの中にある。
店員も客もほとんど中国人だから、勿論言葉は通じない。
だが中に一人、一応私の希望を理解している男がいた。
と言ってもツーと言えばカーというような間柄ではない。
顔の両側を指差して、「Shortショート(短く) 」と英語で言う。
次いで、頭の方を指して「Little short リトルショート(少し短く)」とこれは2つの単語で済ませる。
彼は頷いてはさみとバリカンを駆使して、私の指示通りのスタイルに仕上げてくれる(はずだ)。
これで本人は私の好みは分ったつもりらしく、私が来ると「ハーイ」と言って、自分の権利を主張する。
(この客は、俺しか分らないやり方が好みなんだ)、とまあそんな雰囲気になり他の店員は誰も寄って来ない。
私の頭など誰がやっても変わりはないのだが、少なくとも彼ならたどたどしい英会話も不要になるのが良い。
そのうちに私は彼の固定客と看做されたらしく、彼が他の客にかかっていれば、私は椅子で待つことになる。
別に他の店員でも良いのだが、彼らにもそれなりの仁義があるようで、私には誰も手を出さない。
何となく、昔のキャバレーの指名制度を思い出す(というほど通ったわけではない)。
ある日、この店の前を通ると、ドアが閉じられていて白い紙が貼られていた。
見ると移転通知で、それも結構遠いところのようだ。
とてもそんなところまで行く気にはなれない。
つまり何処か近くで新しい店を見つけなければならない、ということだ。
ニューヨークに来て41年、この店は私の4件目の理髪店。
一体、私は床屋を変えることは滅多に無い。
それで調髪に携わるのが日本人中国人を問わず、一度行き始めると同じ店の同じ人になる傾向がある。
長かったのはマンハッタンのO君で、彼が店を替わると私も新しい店に行く。
最初は日本人ばかりの店だったのだが、彼はなかなか腕が良いらしくどんどん高級な店に移る。
最後は5番街の「ティファニー」のすぐ近くに引き抜かれ、私もその店に通う破目になった。
客筋はモデルやファッション関係が多いらしく、私などはまさしく場違いだった。
O君は指名が多くなり、予約を取るのも難しくなって、私はその店に行くのを止めた。
最後の頃は、チップ込みで80ドルくらい払っていた覚えがあるが、それでも恐らく一番安い客だっただろう。
モデル風の美女などは、チップの札を入れた小さな袋を5,6個持って配っていた。
私は纏めてO君に渡したから、そういう面倒臭さは経験していない。。
そこを止めてから、フラッシングの中国人経営の店に行き始めた。
ここはチップ込みで30ドルだったか。
ここも移転で姿を消し、私は家人の知り合いの紹介でチップ込み12ドルの今の店に行き始めた。
これくらいの価格になると鋏使用は僅かで、バリカンが多用されるようになる。
私としても、よほど不様な髪型にならない限り我慢してしまう。
「日本からヘアーカットの店が出て来たらしいわよ」
家人に言われて日本字新聞を見ると、日本のヘアーカットサロンがニューヨークに進出した、とある。
すでに日本やアジアで500店をチェーン傘下に持つそうで、料金は20ドルプラスチップだけだと言う。
洗髪や髭剃りも無く、まさにカット専門で勝負するらしい。
店員は全て本部でレッスンを重ね、一人前にしてから客に接するのだそうだ。
読む限りでは、なかなか面白いアイデアのようではある。
なんと言っても「日本ブーム」の時代、「オ.モ.テ.ナ.シ」が売り物の日本人なら、という客もいるだろう。
だが、そう簡単に労働ビザを取得出来るかどうか。
寿司の板前は特殊な専門職と言えるだろうが、ヘアーカットが「アメリカ人の職の分野を荒らさない」としてOKが出るかどうか、トランプ大統領の志向するものとはかなり異なりそうだ。
ミッドタウンにあるその店を覗いて見ると、当たり前の話だが客席3つ程度の小店。
デリやピザショップが並んでいる一角に店を開いているが、少々みすぼらしい。
店に入ると、客の頭をいじっていた2人の女性が同時に「いらっしゃいませ」と声を挙げた。
オープン早々だから日本人を店頭に出しているのだろうが、何時までもそうは行くまい。
ビザが無ければそんなに長く店にいるわけに行かないから、早めに誰かを仕込むことになるだろう。
「どのようにいたしましょうか?」
若い女性が私の首にエプロンを掛けながら訊ねて来た。
「横は短めに、上は少し残して下さい」
中国人の店と同じことを言っているのだが、日本語で話すと何となく信頼感がある。
係りの女性は櫛を当てて、鋏を使い始めた。
見たところ、あまり年期は入っていないようだ。
床屋が使う長い鋏なのだが、それほどスムースというわけには行かない。
まあ、虎刈りにされなければ良しとするか。
流石にオープン早々だから、店内は小奇麗に整理されている。
ボツボツ話を聞いてみると、今年中にニューヨークにあと2軒くらい出店する計画らしい。
確かに数で勝負しなければ、収益を挙げるのは難しそうだ。
だがこの程度の小体な店を見つけるのは、そう簡単ではないだろう。
日本なら小さな店が何処にでもあるが、ニューヨークでは10坪以下の単位は滅多に無い。
それでもこの手のビジネスでは、家賃の占める割合はかなり大きい。
女性のカットも扱うらしいが、パーマや色染めは無いそうだから、利幅の大きいものは出来ないわけだ。
「寿司」から始まり「蕎麦」、「ラーメン」、「アパレル」と、順調に分野を拡大して来たかに見えるが、つまずいて撤退した業種もあるらしい。
またこちらのパートナーと組んで店を開けたが、方向性が異なって手切れしたケースも幾つかあるようだ。
そういう場合、店はほとんどの場合金を多く出したこちらの資本が取ることになってしまう。
そこへ来て、マンハッタンの不動産の値上がりが急で、採算ラインに持って行くには10年以上の賃貸契約が必要だが、店のオーナーはなかなか長期契約に応じない。
まあヘアーカットのような業種は投下資本がそれほど大きくないから、危険性は少ないと言えるかも知れない。
恐らくまだまだ新しい業種がニューヨーク進出を虎視眈々と狙っていることだろう。
「うどんや」も今まで数軒が挑戦して、それほど上手くは行かずに消えた。
「うどん」も「蕎麦」も「ラーメン」の濃い味には勝てない、ということのようだ。
その「ラーメン」店も立ち行かない店が出て来ているらしく、淘汰の時期に入った感がある。
お家騒動中の日本の食堂チェーンも、3軒目までで停滞しているらしい。
「チップ不要」を打ち出したが、それほどの効力は無かったのかも知れない。
一番の問題は回転の悪さだろう。
日本のビジネス街の食堂は昼の4,5回転は当たり前だが、ここでは2回転が精々。
焼き魚定食で20ドル以上かかるのであれば、行ける人は限られている。
端的に言えば、マンハッタンで20ドル以上の昼食を摂れる人の数は知れていて、その客を多くの店で取り合いをしている、という構造になっていると言って良いだろう。
まあ、20ドルのヘアーカットだって、そう多いわけではないと思うが。
日本では今「千円床屋」が繁盛しているらしい。
私も一度試してみたが、別に不満は無かった。
言ってみれば男の髪型なんて、その程度のものなのかも知れない。
ヘアーカットは15分ほどで終わり、店員はクリーナーで首筋に残った毛を吸い取っている。
考えてみると、私の散髪中に誰も客は入って来ていない。
昼前という時間帯もあるが、これでは前途洋洋というわけには行かないかも知れない。
別に私が心配する類のことではないが。
最悪の場合、また中国人の店に行って「ショート」と「リトルショート」を駆使すれば良いだけのことだ。
|