還暦スイマー望郷日記

30余年のニューヨーク、今浦島の心境を…

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温帯と四季と

「言うまいと 思へど今日の 暑さかな」
「言うまいと 思へど今朝の 寒さかな」
どちらの句を読んでも、どこかで覚えのあるような気がする。
そう考えるのは、おそらく私が日本人だからだろう。
元の句は「〜今日の 暑さかな」だそうだが、どっちにも実感がある。
そして世界でも、日本人くらい気候を話題にしたがる民族も少ないのではなかろうか。
「お暑うございます」「お寒うございます」「良いお天気ですね」「生憎の雨ですね」
とに角、日本人の挨拶には必ず天気か天候が織り込まれている。
世界で一番短い詩と謂われる「俳句」でも、四季が無ければ芭蕉も蕪村も困り果てるだろう。
そして世界でも、四季のある国があらゆる分野でリーダーシップを握っているようだ。

最初に世界の文明が発達した地域はメソポタミアやエジプトであり、インドであり中国であり、それに続いたのがギリシャ、ローマであり、そして西ヨーロッパ全体に拡がって行った。
最古の文明は数千年も前の話であり、その頃の日本がどういう状況だったのか知る由も無い。
少なくとも、文明とは遠く懸け離れた状態だっただろうことは想像出来る。
誰でも気づくことだが、その中でも四季のある温帯域に人は集まり商業活動も活発になって来る。
結局、その地域がそれ以後の文化の中軸として大きく成長してイギリスやフランス、ドイツやオランダに育って行ったということなのだろう。
面白いことに、遠く離れたアジアでも四季のある温帯地方の国が着実に成長を遂げている。
中国と日本はその典型と言えそうだ。
暑い夏や寒い冬があればこそ、人間はその合間の春や秋にしっかり働くようになるのだろう。

私は四季のない国に1年半ほど暮らしたことがある。
南米の小国エクアドルは赤道の真下にあり、1年中同じような気候が続く。
朝は涼しく、日中は暖かく、夜は冷え込む。
年中同じものを着ている人も多いが、豊かな人はそれなりに着替えているようだ。
人口の半分はインディオと呼ばれる原住民であり、彼ら独自の生活を守り続けている。
一応住んでいる国の国民と看做されているが、彼ら自身はそんなことに無頓着に国境を跨いでいる。
おそらく、数百年前のインカ帝国そのままに生きているのだろう。
一応スペイン語も話すが、彼ら同士の会話は古来のケチュア語を用いている。
インカ帝国で話されていた言語が、そのまま現代に通用しているのだから面白い。
ケチュア語は話し言葉だけで字を持たなかったことで、残された文献や記録が少ない。
だが世界中にそんな言語は数多い。
話し言葉だけで、結局消えて行った言語は無数にあるだろう。
考えてみれば世界から孤立したような状況で数千年を経て、己の言語を確立した日本は奇蹟に近いことを成し遂げたといっても過言ではないかも知れない。
勿論中国から伝わった「漢語」の存在が、その奇蹟の大きな部分を占めていることは否定出来ないが、それでもなお日本人と言う民族が造り上げた「大和ことば」は偉大というほかはない。
そしてその偉業の達成には、この温暖な四季が大きく影響していると言ったら牽強付会が過ぎると言われるかも知れない。
だがこの数千年の日本が辿った軌跡は、まさしく地球上の一つの奇蹟と看做す他はないのではないか。
地球の裏側のヨーロッパで西洋文明が花開き、それとは大きく異なる日本独自の文明が極東の小さな島国で築き上げられていたという事実は、驚き以外の何物でもない。
それを助けたのは、外敵からの侵略もほとんどない環境と、極寒も灼熱もない恵まれた気候状況にあったと言っても可笑しくはないだろう。
とは言え、火山地帯の真上に住んでいる人々に天変地異の災害は少なからずあっただろうし、南から寄せてくる台風は毎年被害を与え続けて来ただろう。
それは今でも変わっていないが、繰り返す受難の経験は日本に天災に向き合う術を教えてくれたようだ。
世界でもトップクラスの天候予測の精度は、その経験の賜物としか言いようがない。

私は、日本人が四季や気候、宇宙などに持つ関心の大きさが何処から来ているのか、そして日本語という言語には他の言語に比して天然自然に関する言葉が非常に多いことが何に起因しているのか、漠然とではあるが不思議に思っていた。
各国が定めている国の祝日を見ても多くは独立記念や宗教関連であり、対して日本は「春分」「秋分」のように昼と夜の時間が丁度半分になるというような理由で休日に設定している。
言ってみれば、日本人は自然現象や月や太陽、星などの宇宙への関心が強く、日本独自の文学と呼べる和歌や俳句の題材にも頻繁に取り上げられて来た。
例を挙げると、「時雨(しぐれ)」は冬の季語であるが、敷衍して「蝉時雨」、「落葉時雨」、「虫時雨」、露時雨」、「片時雨」、「横時雨」などなどきりが無い。
初冬に降りつける雨ひとつでこれだけの類似した言葉を生み出すのだから、その雨に寄せる想いは半端ではないし、おそらく似たような言葉は幾らでも出て来るのではないか。
それにしてもこんな言葉を突きつけられたら、日本語を学ぼうとする外国人はお手上げだろう。
逆に考えれば、そういう変化形を駆使出来る日本人は大いに誇って良いのではないか。

今私はニューヨークから日本に帰ろうと考えているが、これも「温帯―温帯」の移動であって、それ以外の移住先は考えつきそうもない。
調べたこともないが、世界中にいる日本人の移住先はそのほとんど温帯で四季があるところに集中しているのではなかろうか。
暑さから寒さへ移行する合間に快適な秋があり、寒さを脱して暑さに向かう前に爽やかな春がある。
何とも上手く出来ているものだと感心するしかない。
まあ、こういうことは思っていれば良いことで、口にすれば妬みや嫉みのもとになる。
マグロだ鯨だ鰻だと、とかく世界の眼を向けられ易い日本とすれば、敢えて敵をつくることはない。
あちらこちらと行きたがる首相も、そこら辺を考えて貰いたいものだが…。

相撲界のガラガラポン

私が初めて「大相撲」を生で観たのは、今から65年前の初場所だった。
小学校の3年生だったはずだ。
場所は当時の蔵前の国技館で、未だ土俵の四方には柱が立てられていた。
観に行ったのは15日の場所の最終日、つまり千秋楽であり父母と姉2人も一緒だったように思う。
この千秋楽は14戦全勝で勝ち上がって来た大関吉葉山と、13勝1敗で待ち受ける横綱鏡里の対戦が結びの1番にあり、館内は早くから興奮の渦が舞い立っていたのを子供心にも感じていたようだ。
吉葉山が勝てば全勝優勝で次場所での横綱昇進は確実視されており、鏡里が勝てば同星での優勝決定戦に持ち込まれるわけで、謂わば滅多に見られない大一番に立ち会えるわけだった。
9歳の子供が場内の熱気に染まるのに、大した時間はかからない。
最後の取り組み以前に、既に私の声は嗄れてしまっていたのではないか。
とに角、がっぷりの四つ相撲の末に吉葉山が鏡里を寄り切った時、場内の歓声は最高潮に達していた。
今でも語り草になっている、降りしきる雪の中の吉葉山の優勝パレードを間近に見て、その瞬間から私は相撲のファンになりついでに吉葉山の大ファンになったのである。
ファンにはなったものの、この吉葉山には苦しくなると「蹴たぐり」という小技を出す癖があり「蹴たぐりの吉葉」という異名があることなどは全く知らなかった。
結局吉葉山はそれ以降1度も優勝することはなかったし、時代は「栃若(栃錦 若乃花)」へと移って行った。
そして「大鵬」という希代の名横綱が現れて、相撲人気は沸騰したように憶えている。

以来60数年、熱は時には醒め時には熱くもなったが、今でも日本からの相撲中継を録画で観戦している。
しかし、あの当時のように一人二人の力士に集中して固唾を吞むということはない。
相撲そのものは60年前と見た目にそれ程の変化はないが、内容は大いに変わって来ている。
力士の体格が向上したことも影響しているが、実際に技ではなく体格で勝負する力士が増えた。
60年前であれば、150kgあれば超大型力士と呼ばれたし、逆に100kg前後の力士も珍しくなかった。
軽量であっても筋肉は充分鍛えられていたし、動きの速さが大型力士との勝負を可能にしていた。
「土俵の鬼」と呼ばれた初代若乃花の体重が107kgだったと言えば、驚くファンも多いのではないか。
いや大正時代にほぼ無敵を誇った栃木山は、最も重かった時で103kgだそうだから今では想像もつかない。
力士の体重が増え始めたのは昭和40年頃からだろう。
前記した吉葉山にしても、大型と言われたが140kg程度だったらしい。
大型化して来た理由のひとつに、食事の変化があるだろう。
「ちゃんこ」と言えば力士の食事の総称だが、鶏や魚中心の鍋料理がその典型。
そこに牛豚肉が加わり、さらにはバターや脂肪分の多い食品を食べるようになって力士の巨大化が進む。
若い力士志望者がちゃんこ鍋などはあまり喜ばないこともあって、焼肉やハンバーグ、トンカツなどを用意することが当たり前になり、それにつれて稽古や本場所での怪我も増えて行ったようだ。
250kgの小錦は当時としても超大型だったが、反面その体重を持て余すこともあったようだ。
脚がついて行けず、前にばったり倒れるという場面もしばしばテレビに流れた。
とは言っても、やはり身体が大きければ有利な面も多く、大型化の流れは最早留まることはなかった。

此処まで書いたところで、「稀勢の里引退」というニュースを聞いた。
昨日までの相撲を見ても、最早立ち直れる可能性は全く見られなかったから、驚きは無い。
むしろ遅きに失したと言う感さえある。
NHKを始めとして日本のマスコミは、彼の引退を惜しむ論評は同じだが、彼を横綱に押し上げた相撲協会やそのお先棒を担いだ横綱審議会の責任については触れていない。
「2場所連続優勝若しくはそれに準ずる成績」が横綱推挙の条件だそうだが、何とも曖昧だ。
プロ野球の「殿堂」入りの条件もそうだが、こういう場合必ず抜け道が用意されている。
優勝ゼロで横綱に推された「北尾(双羽黒)」のそれ以降は、無残としか言いようがない。
だが協会はその失態から何も学んではいなかったようだ。
「稀勢の里」は辛うじて1度の優勝を成し遂げているが、それ以前は物足りない星勘定に終始していた。
この場所、3横綱のうち「日馬富士」と「鶴竜」は途中休場し、「白鵬」のみが15日間を勤め上げた。
場所後、「稀勢の里」の横綱推挙に尚早論も聞かれたが、数十年ぶりの日本人横綱に浮かれ立っていた相撲協会には聞く耳も無かったという状態。
しかし、昇進した場所の日馬富士戦での胸筋断裂の負傷は、不運だったとしか言いようがない。
「あの後無理して出場したのが命取りだった」という声もあるが、それは何とも言えない。
むしろ重傷を押して2場所連続優勝を達成したことの方が、ファンの心に響いたと私は思う。
いずれにせよ、それ以降の出場休場の繰り返しは避け難いものだっただろう。
「たら」「れば」は何の意味も無い架空の想定だが、若し彼が横綱になっていなければ、あの日馬富士戦は異なった形で取り組まれたろうし、あそこまでの重傷は負わなかっただろう。
だが現実に「日馬富士」は「稀勢の里」の左胸に激突してその筋肉を切り裂いたのだから、全ては天の配剤だったと受け止めるしかない。
「自分の相撲人生に一点の悔いも無い」とは引退表明の場で洩らした言葉だが、それは間違いない。
「稀勢の里」に恨む相手があるとすれば、無理矢理に日本人横綱を拵え上げた相撲協会であり、その尻馬に乗った横綱審議委員の相撲を知らない面々ということになる。

相撲のみならず野球の「殿堂」にしても、首を捻らざるを得ない人選が行われることが多い。
その最たる理由は、そういう投票権を持つ記者たちが、その責任の重みを感じていないことにあるのだろう。
横綱審議会にしても、相撲協会の根回し通りに大関や横綱を推挙するのが慣例のようだ。
本人たちは真面目に選んでいるつもりかも知れないが、ファンにしてみれば納得出来ないことが多いように思われる。
過去に選ばれた力士の一覧を見てみれば、2場所連続優勝を達成していてもその前の場所では休場があったりするケースもあり、逆にコンスタントに12勝13勝を続けていても優勝に至らなかったケースもある。
数字で縛ったり優勝回数で決めたりが出来ないとすれば、誰にも納得出来る基準は有り得ないことになるだろう。
だとすれば、相撲協会だけで決めて、なまじ横綱審議会などを絡ませない方がすっきりするのではないか。
だがそうなると、公益財団法人であり続けるための支えが無くなる惧れがあるから難しい。
日本のスポーツ団体がややこしいのは、何処かで政治と繋がっていることが多いという点だ。
それはその団体に上部組織から天下りして来ている人の存在を意味しており、その人はその団体のために予算を確保する指名を帯びて天下って来ているのだから、簡単に引き下がることはないだろう。
新しいスポーツが現れるとすぐに団体が組織され、理事や監事などと称して役員が選ばれ、そこに政治家が関わって来るのが常であり、最早誰も不思議とは思わなくなっているようだ。

「稀勢の里」が引退し、横綱は「白鵬」と「鶴竜」のモンゴル出身者になった。
既にメディアは、「御嶽海」と「貴景勝」に的を絞って新しいライバル物語を紡ぎだして行く気配だ。
彼ら2人が、周囲の思い通りに高みに上って行けるかどうか。
それともさらに新しい勢力が取って代わることになるか。
手垢のついた2人の横綱の角逐をみるより、確かにずっと面白味はありそうだ。
ついでに横綱審議会なる無用の長物も、奇麗さっぱり片付けてくれればありがたいのだが。

来年の正月?

私が南米からニューヨークに到着したのは、1976年の10月だった。
それ以来、アメリカで正月を迎えること43回目になる。
実は1980年の正月は、永住権を手にして日本に帰っていたから正確には42回だ。
そのうちのおそらく30回程度は、形ばかりではあるが正月の支度をして客を招いている。
そんな高価な物を買うことは出来なかったし、買いたくとも売っている店も無かった。
これに関しては、私は日本食料品店のビルの5階に住んでいたから、間違いはない。
どんなものを客に供していたか、最早記憶から抜け落ちてしまっているようだが、それでも下の日本食料品店から「数の子」や「きんとん」などを買っただろうし、数少ないフィッシュマーケットを廻って何とか日本人に食べられる魚を獲得して来ただろうことは覚えている。
そろそろ日本から魚が入って来た頃でもあったし、知り合いの魚卸店に依頼して「真鯛」などを航空便で取り寄せて貰ったり、アラスカからイクラや鮭を取って貰ったりしたこともあった。
始めの頃は招く人も決めていなかったしその時限りのつもりだったのだが、何時の間にか決まった顔触れが必ず集まるようになり、知らぬ間に30回近くになったような気がする。

10年ほど前までは、このまま行ったら未だ先は長いと思うようになったが、その頃から一人欠け二人欠けするようになって来、ひと頃の10人近い常連が4,5人で固まって来た。
そして4,5年ほど前に参加者2人ということがあり、それを潮に集まりを止めることにした。
考えてみれば、支度する私たちも老いて来ているのだが、客である参加者もまた年老いて来ていたのだ。
マンハッタンに住んでいた頃は気軽にタクシーで来られた道のりだが、クイーンズに引っ越してからは電車の乗り継ぎもあり、来る人たちも結構難儀をしていたのだろう。
「全てのことには終わりがある」、なかなか含蓄のある古諺ではないか。
だが、人を寄せることは止めても別に正月を祝うことを止めたわけではない。
何をする気が無くとも、大晦日が近づけばやはり餅や蒲鉾を買い込むし、つい魚屋の店先を覗いたりもする。
年越し蕎麦の準備や元日の朝に食べるものの心配は、暦年の習い性になってしまったようだ。
悪口を言いながら、半日遅れの「紅白歌合戦」を横目で観ているのも似たようなものと言えそうだ。
「紅白歌合戦」と言えば、私が物心ついた頃は未だラジオ放送だけでテレビが始まるのは数年後の1953年。
未だほとんどの家にはテレビ受像機は無かったから、これを観ていた人はほんの一握りに過ぎないはずだ。
正月の準備を終えて、家族が炬燵に入ってラジオ放送に耳を傾ける。
どんな歌手がどんな歌を歌っていたか、ほとんど記憶に無い。
またNHKのこの怪物番組に民放の各社がどのような番組をぶつけていたか、それも覚えていない。
ただ幾人かのクラシック歌手や民謡歌手が出ていたことは記憶に残っている。
それが大きく変化するのは、やはりテレビ受像機が各家庭に行き渡り始めてからだろう。
歌手は歌うだけではなく踊ったり寸劇を演じたりするようになり、「見た目」が人気に影響し始めた。
というか、歌の上手い下手より容貌やスタイルが全面に出て来た、と言えるかも知れない。
今までのように直立不動で歌えば良い、というわけには行かなくなったのだ。
それ故に消えて行った歌手もいたし、それ故に矢鱈と出番が増えた少女歌手もいた。
この年代の「紅白歌合戦」の出場歌手の顔触れを見ると、「実力」か「見かけ」かが良く分る。

私は1975年のこの番組を南米の大使館で観た覚えがある。
フィルムになった番組を各国の大使館に順番に廻したのだろう。
1月末頃、数十人の日本人が大使館に集り、「紅白歌合戦」を真面目な顔で観たのだから面白い。
ニューヨークに来て暫くしてから日本語放送が始まり、「紅白歌合戦」を自宅で観ることが出来るようになった。
それ以降40年以上、半日遅れのこの番組を観続けて来たことになる。
一応NHKの番組は毎日観ているとは言え、歌われる歌曲の関しての知識はほとんど無い。
辛うじて演歌歌手の歌は聴き覚えがあるが、と言って好んで聴いているわけではない。
結局録画して興味の無い部分は飛ばしてしまう、という手法に終始することになる。
そして最近ではその飛ばす部分がどんどん増えている。
精々小一時間程度しか聴いていないのではないか。
そして普通の家庭でも世代が異なれば好む歌もそれぞれだろうから、全員が楽しめるとは思われない。
最早この番組の存在理由は無くなったのではないか、そう言われ続けて数十年。
役目を終えて消えて行く気配は感じられない。
勿論それなりに番組作りにも工夫を凝らしているのだろうが、その生命力には驚かされる。
師走ー正月支度ー紅白歌合戦ー年越し蕎麦ー初詣
こういう一連の流れは、この数十年で完全に日本人の脳裡に刷り込まれてしまったようである。
弱小とは言え民間放送各社も、それぞれに智慧を絞って対抗しているはずだが、いまのところ成功したとは言えそうにないし、それだけの企画力があるとも思われない。
残念ながらあと数年いや数十年は、この状態が続くのだろう。

私が今年帰国するとすれば、来年は日本で正月を迎えることになる。
未だ住む所さえ正式に決まっているわけではないから、年末の計画など立つはずもない。
だが、一度くらい日本らしい正月を迎えてみたいと考えてはいる。
とは言っても、門松を立てて注連飾りを下げてなどという大袈裟なものではなく、ほんの形ばかりで構わない。
ただ贅沢を言えば、僅かで良いからホンモノを元旦の膳に飾りたい。
それは「干し数の子」であり「エソやイシモチの蒲鉾」、「丹波黒豆」そして「栗きんとん」辺り。
そして雑煮は昔懐かしい「博多風」で拵えたいものだ。
あご(飛魚)の出汁に「底引大根」「焼き鰤」そして可能なら「カツオ菜」があれば言うことなし。

「棒ほど願って 針ほど叶う」という諺もあるが、これくらいのささやかな願いであれば何とかなりそうではないか。
とは言うものの、今列記した数々がささやかな願いかどうか、今浦島には知る由も無い。
日本に腰を落ち着けたら、じっくり考えることにしよう。

だいぶ昔に書いた記憶があるが、私は「ラーメン」よりは「タンメン」が好きだ。
似たようなものだ、と思う人がいるかも知れないが、この2つは全く異なる麺類である。
その違いをだらだら書いても仕方がないが、はっきりしていることは、「ラーメンは今や日本の日常食の一方の旗手であり、「タンメン」はメニューの端っこにいるのかいないのか分らない程度の存在」だということ。
ラーメン屋のメニューに「タンメン」があったとして、オーダーする人は極端に少ないはずだ。
店主にしても、滅多に出ないオーダーに戸惑いの色を見せるかも知れない。
商売だから嫌な顔はしないだろうが、店内が込んでいる時などは大歓迎と言う雰囲気ではないだろう。
それくらいラーメンとタンメンでは作る工程も材料も異なる。
では何故店は「タンメン」をメニューに載せておくのだろうか。
そこら辺に関しては、私にも確たる答えは出て来ない。
おそらく材料は既にあるし手間だけの問題だから、と軽い気持ちだったのではないだろうか。
だからラーメンのオーダーでびっしりのところに「タンメン」という注文が飛び込んで来ると、店主の内心は腹立ちと悔恨がない交ぜになってしまうのだろう。
と言って、すっぱり切ってしまえないものが「タンメン」にはあると私は思っている。
この「タンメン」は主として関東地方で食べられて来たそうだ。
つまり関西や東北には「タンメン」はそれ程浸透していないらしい。
そしてラーメン業界がサッポロラーメンと博多トンコツラーメンに大きく侵食された時期に、「タンメン」は居場所を失ってしまった、ということではないか。

「タンメン」は鶏の出汁に塩味をつけたスープが主体であり、多量のモヤシ、ニラ、ニンジン、キクラゲ、玉葱、豚肉を大鍋で炒め、麺は細い縮れたものが多い。
対するにラーメンの原型は鶏がらや煮干で出汁を取り、醤油主体の味付けが多く、麺以外にはシナチク、鳴門、チャーシュー、ほうれん草などが飾られている。
麺はスープによって変わるが、濃い目の汁には細めの麺、薄めの汁には太い縮れ麺、これと言って決まった形は既に失われたようで、地方地方の名前を冠した「ラーメン」が売られているようだ。
今は、豚骨出汁の「博多ラーメン」、味噌味の「札幌ラーメン」、昔ながらの醤油味の「東京ラーメン」などが入り混じり、さらに工夫が加えられているという。
だから「タンメン」と言えば一つの定型があるのだが、ラーメンは最早そういうベースになるものが失われてしまっている、と考えた方が正しいだろう。
考えてみれば不思議ではないか。
「ラーメン」という今やベストセラーとも言うべき国民食が、実はそのベースになるレシピが無いという事実。
いや、無いわけではなく、当時「支那蕎麦」とか「中華蕎麦」と呼んだ無国籍の麺の正式名称を決めるにはなかなか難しい問題が横たわっていたのだろうと思う。

私が子供の頃、渋谷には「恋文横丁」と呼ばれる1区画があった。
嘘か本当かは知らないが、此処に日本語を英文に訳す人たちがいて、戦後アメリカ兵たちと恋愛関係に陥っていた女性の手紙を英訳していたという。
今の道玄坂を上りかけた辺りだっただろうが、そういう逸話の残っている一帯に学生相手の安い食堂や中華飯店が続々と開店したと言われている。
私も大学生だった姉に連れられて幾度か其処を覗いた記憶があるが、溢れる活気に圧倒された。
大きな支那鍋を片手で振り回して、タンメンや餃子を手早く料理する手際は、目を瞠るほどだった。
そして思い出すと、「タンメン」を提供する店には餃子もあり、「ラーメン」は無い。
「ラーメン」を出す店に「タンメン」は無いが、「炒飯」はあってそれに添えられるラーメンスープもある。
今考えると、「タンメン」は北京地方の食べ物であり、又「餃子」の本場でもあった。
そして「タンメン」を料理するときに熱した支那鍋が発する「ジャーッ」という音は、腹を減らした我々若者の胃袋を刺激していたのだろう。
「タンメンは音を喰わせる」、私はそう思うようになった。
あの爆音に近い破裂音は、空腹の胃袋を昂揚させる力を持っている、と言っても良い。

小さな島国である日本では想像も出来ないが、北京地方では米が採れないため粉物中心の食事に限られていて、一般的な食事は饅頭などの粉製品がほとんどだったらしい。
そして餃子はその北京地方の人たちの代表的な食べ物と言えるようだ。
日本では「鍋貼(クォーテル)」という「焼き餃子」が一番人気だが、北京では「餃子」と言えば「水餃子」。
「焼き餃子」は昨夜の水餃子の残り物を焼くものと決まっているそうだ。
面白いことに、北京地方では「餃子」はハレの日の食べ物だそうで、正月や故人を偲ぶ忌日などでは必ずこの水餃子が振舞われる慣わしだとか。
北京地方の家庭には、野球のバットをうんと小さくしたような麺棒が何本かある。
食べる直前に粉を捏ねてその麺棒で伸ばし、直系10センチ強の餃子の皮を拵える。
中味は豚の挽肉と微塵切りの白菜、それにニラの細切りを混ぜるのが普通だそうだ。
日本人の好むニンニクは入れないのが一般的だそうだ。
そして出来上がった餃子を沸騰した湯に放り込んで2,3分待ち、好みのタレで食べる。
私も北京から来た中国人の家庭でご馳走になったが、その美味には驚かされた。
小麦粉を練ってすぐに伸ばし餡を包むだけでこんなに美味しくなるとは、中華料理は深い。
米の無い地域で食生活を豊かにするための、様々な工夫の果てなのだろう。

今中華料理の世界では、「辣(らー)と「酸(さん)」が幅を利かせているそうだ。
確かに中華街を歩けばその2文字が至るところに躍っている。
中華でも、地味に出汁を効かせる「広東料理」は落ち目だと言われているようだ。
日本料理にしても、じっくりと出汁を取って旨味を含ませる手法は過去のものになりつつある。
つまり、味がはっきりした食べ物が好まれる時代になって来たらしい。
甘ければとことん甘く、辛ければ思いっきり辛い方が良い、ということだろう。
それが時代であれば、文句を言うのは野暮というものだ。
だが、日本の味覚の主流は私が知らない間に大きな変化を遂げているのではないだろうか。
昔ながらの「タンメン」が片隅に追いやられているのも、それ故ではないか。
帰国を果たしたら、先ず旨い「タンメン」を探すことにしよう。
何事もすべからく原点に還るべし、ということか。

我が家では、自分が食べたいものは自分で作るのが不文律になっている。
勿論、作れなければ買って来ても構わない。
2人の住まいだが、それでも好みはかなり分かれているから協調するのはそれほど簡単ではない。
食料が豊かでない時代が少年期だった私は、食べられないものはほとんど無い。
勿論それでも旨い不味いはあったはずだから、給食などはどちらかと言えばいやいや食べていただろう。
家庭ではどうだったか、好みを主張出来た時代ではないから、文句を言わずに食べていたようだ。
兄や姉たちにも多少の好き嫌いはあっただろうが、正面切って母に文句は言えるはずも無い。
戦後数年の空気は、「食べられるだけでありがたい」といった辺りだったのではないか。
では何時も不味いものを我慢して食べていたのか、と考えてみるとそうでもなさそうだ。
「コシヒカリ」だとか「アキタコマチ」なんていうブランド米が出てくる数十年前の話。
米は全て配給の時代。
この「配給」を知る人もマイノリティになってしまっただろう。
「米穀通帳」なるものを役所から貰い、それに対して近所の米屋が米を届けて来るのだが、それがどこの米なのか、旨いのか不味いのか、配給されて炊いてみて食べてみるまで分らない。
まあそれでも、付き合いの長い米屋はそれなりに良さそうな米を届けて来たようだし、何処からか入って来た米を小声で届けて来たこともあったような記憶がある。
そんな手順でやって来る米だが、成長期には充分旨かったように思う。

この配給なるものが何時終わったのか、実はおぼえていない人の方が多いようだ。
気がついたら米屋から来る米は、最早配給ではなく「自主流通米」と称する自由販売のものに変わっていた。
そこら辺りから「何処其処の米は旨い」とか、「何処其処でもその中のナントカ村の米が最高だ」とか言う噂が流れ始め、またもや米屋が囁くような声で届けて来ていたような気がする。
無くてはならないはずだった「米穀通帳」は何処へ行ったのか、人々は気にも留めていなかっただろう。
もうその頃からスーパーでも米を売り始め、一気呵成にブランド米の販売競争が始まったということらしい。
私はそれほど米の出自に関心はなかったが、家庭の主婦はそうは行かない。
「ヒガシにコシヒカリがあると聞けば、持てるだけ買い込み」「ニシでアキタコマチが安いと聞けば友と連れ立って出かけ」るのが当たり前になり、「炊き立ての味」の最新式電気釜を張り込む。
私が日本を出たのは今から43年前になるが、初めての海外生活を送ったのは南米のエクアドルだった。
日本人家庭に同居したから生活様式は日本と変わらないのだが、寝起きするところは標高2800mの街。
富士山の8合目くらいの高さだから、高度に慣れるまでは暫くかかった。
走れば息切れがするし、酒を呑めば酔いの廻りは素晴らしく早い。
主食は知り合いの日本人から米を買っていたらしいが、気圧の関係で普通の釜では生煮えになってしまう。
圧力釜で炊いていたのだが、それでも何処となく生っぽい。
現地のエクアドル人も米を食べるのだが、調理方法が異なっていたようだ。
所謂「Long grain ロンググレイン(長粒)」を熱湯に放り込んで調理するらしいが、煮えた米を炒めて主食に添えて野菜の一種と看做しているらしい。
「Arroz con leche アロスコンレッチェ(米の牛乳添え)」や「Arroz con pollo アロスコンポリョ(米と若鶏)」などの一般的な料理にもしばしば米が使われている。
だが、やはり日本の米のような「Short grain ショートグレイン(短粒)」とは味わいが違い、口に馴染まない。
それでも面白いもので、レストランなどでメインに肉や魚に添える野菜類を訊ねられると、「ジャガイモ」や「トウモロコシ」などより、「Arroz アロス(米)」を選んでしまうから可笑しい。
とことん「米食民族」の血が流れていることを再確認してしまう。

「米食民族」と言えばその多くがアジアに住んでいるのだが、共通しているのは「醤油」やそれに近い調味料の類を日常的に使っていることだろう。
「醤油」は中国や韓国、ベトナムなどの漢字圏に浸透しているが、それ以外のベトナムやタイ、カンボジアなどには水産物などを塩漬けにした調味料が一般的だ。
ベトナムの「ニョクマム」はタイの「ナムプラー」とほとんど同じ小魚の'塩漬けを絞ったものだし、それは日本の裏日本地帯にある「い汁」や「しょっつる」などと同種類と考えても間違いではない。
起源は明らかではないにせよ、南アジアの海岸地帯から派生して来たことは確かなようだ。

私がニューヨークに住み始めて40数年、最初に住んだのが日本食料品店ビルの5階だったこともあり、日本食品に不自由したことはなかったし、味はともかく日本レストランも近くに幾つもあった。
日本料理とひと口に言うが、要は米と醤油があればそれらしい料理が出来るから不思議だ。
だが、食事の最後のひと口に「漬物」が無くては様にならない。
で、私は昔母に手伝わされた「漬物」をマンハッタンで作ることになった。
夏は胡瓜や大根を塩で浅漬けにし、冬は白菜を漬けた。
大家である日本食料品店にも漬物は色々売ってはいる。
だが商品に貼られたラベルを読めば、日本や西海岸から送られて来た物がほとんど。
ご多分に漏れず防腐剤や添加物がどっさりと使われている。
それでいて価格は日本以上なのだから食べる気も起こらない。

夏場の漬物は気温の関係もあって簡単ではないが、冬場は楽だ。
中華系のスーパーへ行けば白菜は山ほど売っていて、しかも安い。
6つに割って塩をまぶし、バケツに隙間無く詰めて上から重石をかければ良い。
一晩で塩気が廻り、水が上がってくればそれでほとんど完成に近い。
水気を減らして塩を足し、さらに一晩くらい軽めにした重石を置いておく。
もうそこら辺で食べられるのだが、もう2日くらい置けば旨味が増して来るはず。
この白菜漬けはニューヨークに住んだ40年間、ほとんど毎年漬けていたような覚えがある。

2年ほど前肺炎に罹って以後、暫く漬物から遠ざかっていた。
食欲が無くなったこともあったが、病人が漬物でもないだろうという気が働いたこともある。
だが白飯を喰えば、どうしても最後にちょっと漬物が欲しくなってしまう。
日本スーパーで沢庵を買ったり高菜漬を買ったりするが、どれをとってもそれほど旨くない。
さらに当然ではあるが、様々な添加物がくっついて来る。
やはりここは自分で漬けるしかないだろう、と思うようになった。
久しぶりに中華スーパーで小ぶりな白菜を買い込んだ。
帰宅して4つ割にしてテラスで日光に干す。
朝j干して夕方塩をまぶしバケツに詰めて上から重石をかける。
この重石は随分昔に道端で拾ったものだが、年月を経て丸みを帯びて風格さえ感じるようだ。
重みが足りない分は、昔買ったが使っていないバーベルを2本足しておく。
ひと晩漬けて置くと、翌朝には水が上がって来ている。
水を減らし塩を少し足して、重石を軽くしてもうひと晩。

2日目の朝には、白菜はどっぷりと水に使っているようだ。
内側のほの黄色い葉を摘んで口に入れると、すでに一丁前の漬物の味を伝えてくる。
少年時代は、飯とこの漬物があれば丼2,3杯は喰えた。
今は流石にそんな乱暴なことは出来ないが、茶碗の最後のひと口に合わせるにはこれが最高だ。
その場合、飯は炊き立てである必要はない。
というか、むしろ多少冷めている方が米の味がじっくり味わえる。
「炊き立て」というフレーズは電器釜の販売競争の副産物だろう。
日本酒の「燗」と同じで、熱過ぎても冷め過ぎても米本来の味は出て来ない。
高級料亭の最後の白飯は決して炊き立てではないはずだ。
炊き上げてお櫃で適度な温度に保持された飯が、板前自慢の香の物にぴったりと合う。
熱い飯は卵かけか丼物でこそ本領が発揮出来る。

ニューヨークでもカリフォルニアの新米が出盛っている。
「田牧米」「かがやき」などが人気ブランドだが、いまや決して安いものではない。
15ポンド(6.8kg)で30ドル以上するから、日本との差はどんどん詰まって来ている。
とは言え、「ロンググレイン」のタイ米や中華米の価格はその半値以下だ。
しかし中国人や韓国人でも、米にうるさい人は日本米を買っているらしい。
そのうち、彼らに旨い米を買い占められる日が来るかも知れない。
工夫が上手な日本人のことだから、安い「ロンググレイン米」を美味しく食べる方法を考えつくのではないか。
今までだって、そうやって生き延びて来たのだから。


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