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人は誰でも長く生きて来れば、その年月に見合った知り人を失う。
若し周囲の人よりもずっと長く生きれば、ずっと多くの知己や身内や友人に先立たれる。
まあ実際のところ、周囲の人たちが自分よりそんなに長く生きて欲しい、とは考えないだろう。
自分が旅立つときに、出来れば身近に幾人かいて欲しい、程度のことではないだろうか。
私くらいの年齢になると、毎年数人の知己や身内を失う。
ネットで見つける場合もあるし、テレビで報道されることもある。
さらに、人づてに情報が入って来る場合や、事前にある程度の予知があるケース。
インターネットなどの情報網が整備され、極端に言えばほとんど同時に世の中の出来事を知ることが可能になってしまったようだ。
世界が注目するような重要人物であれば、最期の深呼吸まで知覚出来そうではないか。
それが良いことかどうか、我々は未だに知らない。
2月の10日、私はネットで「山中 毅氏 死去」を知った。
面識も無いし何の接点も無い。
いやたった今、彼の名前を聞かされてすぐに分かる人は少ないだろう。
袖振り合う「多生の縁」さえもなかった、ということになる。
それでも、私は彼の名前をかなり早くから知っていた。
私自身小さな高校の水泳部に参加していたのだから、当然と言えば当然だろう。
勿論、山中の記録を列記すれば、私などとは比較にもならない。
高校2年生で挑戦したメルボルンオリンピックで、400mと1500m自由形で2位。
周囲に多少の期待を持った人はいたかも知れないが、世間は狂喜したはずだ。
石川県の田舎の無名の高校生が、オリンピックという大舞台で世界を向こうに廻して2つの銀メダルを獲得したのだから、まさに驚天動地だっただろう。
それに日本にはこの種目にはある種の「因縁」があったはずだ。
メルボルンの1回前のヘルシンキに、日本は最大の期待の星を送り込んだ。
「フジヤマのトビウオ」と渾名された古橋広之進は、敗戦後の日本の明星的存在だった。
同僚の橋爪四郎と交互に世界記録を塗り替えながら世界を目指したが、敗戦国日本は1948年のロンドンオリンピックからはシャットアウトされてしまう。
無念の想いもあってだろうが、日本水連はロンドンオリンピックの開催に合わせて「全日本水泳選手権」を開催し、古橋と橋爪のコンビは遠いロンドンで出された優勝タイムを全て上回った。
日本は大いに湧いたが、所詮は地球の裏側での出来事に過ぎない。
国民の期待は、さらに4年後のヘルシンキへと膨れ上がる。
52年のヘルシンキ大会の頃、私は未だ8歳に満たなかったはずだが、それでも「フルハシ」という名前はいやというほど耳元で聞かされた覚えがある。
テレビもなく新聞とラジオだけが全てだったはずだったが、焦土から立ち上がろうという日本人の気概に押されて、「フルハシ」はその象徴的存在になっていたのだろう。
だがそのヘルシンキで、古橋は惨敗する。
24歳という年齢とさらに体調の不十分もあり、満を持して絞り込んだ1500m自由形で8着という最下位に終わった。
このレースで、同僚の橋爪は2位に入り銀メダルを獲得しているのだが、ニュースは「古橋敗北」に埋め尽くされ、橋爪の健闘はほとんど無視されたに等しい。
それから4年後に、日本は山中毅という新しいヒーローを得たわけだ。
如何にも田舎の高校生といった風貌の山中は、水泳選手には珍しい逞しい上半身でメルボルン以降の日本水泳の期待を一身に負ったというか、負わされた形になる。
「フルハシショック」から立ち直れていなかった日本人は、山中に期待の全てをぶつけたのだろう。
オーストラリアのマレー ローズやジョン コンラッズと世界の頂点を争う若い山中に、フルハシが果たせなかった世界一の重みは日に日に増していたに違いない。
「湯川英樹博士のノーベル賞」、「白井義夫のフライ級世界王座」と一体を為すべき「オリンピック水泳の金メダル」だったのかも知れないが、それを課せられた山中は気の毒と言うしかない。
テレビ時代の到来もあって加熱したローマオリンピックだったが、山中は此処でも400m自由形の銀メダルに終わる。
この後山中は大学を卒業し、南カリフォルニア大学に留学する。
彼はこのアメリカの土地で、今までの重しを解放したのかも知れない。
留学先ではマレー ローズと練習仲間となり、南カリフォルニア大学の黄金時代を築いたという。
山中は日本の水連との縁を此処で切ったように見える。
ローズなどと泳いで、本当の水泳の楽しさを知ったとすれば、喜ぶべきだろう。
彼は4年後の東京オリンピックにも参加したが、既に全盛期の力は無かったようだ。
そして彼の凋落と共に、かつて日本の合言葉のようだった「水泳ニッポン」も聞かれなくなった。
山中はその後、ほとんど水連とは拘わって来なかったらしい。
水連は彼の前の大ヒーローである古橋広之進にがっちり握られており、それはさらに数十年の長きにわたって続いたようだ。
古橋は1966年に水泳連盟の役員になり、1976年には國際水泳連盟の副会長に選ばれ、2009年にローマで客死するまで頂上に居続けた。
正直に言えば、私は古橋が水泳連盟を自在に操っていたことを評価はしない。
2000年のシドニーオリンピックでの女子水泳の選手選考でも、「銓衡基準が不明瞭」というスポーツ仲裁裁判所への申し立てを受け、最終的には銓衡基準に曖昧さがあったと判断されその後の代表選出方法にある程度の規制を設けることになったという。
何によらず、一人が権力の座に40年以上坐り続けるということが好ましいわけはなく、この申し立ては古橋の長期政権を阻止する意味では値打ちがあったと言われている。
2月に山中の訃報を聞き、それに連れてローズやコンラッズのそれ以降もおおよそ知ることが出来たような気がする。
訃報は決して嬉しいものではないが、それによって知ることが出来ることもあるようだ。
まあ、世の中にはまるまる無駄なものは存在しない、ということなのかも知れない。
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